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面倒くさい少女たち  作者: 深井陽介
第9話 オンシンフツウ~彼女のゆくえ~
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9-4 アイマイモコ

前回は何やら事件が起きて、ずっと民宿の一室で推理を繰り広げるだけだったので、今回は前半を丸ごと百合描写に費やしました。他の作品で、思い切りしっとりとした百合を書いたせいか、キスの描写にも躊躇がなくなりました。このシリーズの方向性が……。

さて、今回もいろいろ起きます。失踪した恋人の手掛かりは見つかるのでしょうか。


 目が覚める瞬間というのは不思議なもので、一度脳が覚醒状態に入ると、水門が開かれて水がドバドバと流れ出すように、脳は急速に動きを速めていく。すると、今までどうやって休眠状態を保っていたのか、まるで分からなくなる。

 目覚まし時計も、誰かが起こす声もないまま、わたしはごく自然に目覚めた。瞼を開き、ぼやけた視界は徐々にピントを合わせてクリアになっていき、濃い茶色で木目調の天井が見えてくる。見慣れない色が広がる光景に、一瞬混乱しかけたけど、わたしはすぐに思い出した。

 そうだ、ここは以前に瑞穂と一緒に来て泊まった民宿で、瑞穂を探すために再びこの町に来て、なんやかんやあってまたこの民宿に泊まったのだ。畳の上に敷かれたふかふかの布団をそっと除けて、わたしは上体を起こし、盛大に欠伸をした。そうして次第に頭が冴え始めて、一緒の部屋に寝泊まりした二人の友人の存在を思い出した。

 三枚の布団を一列に並べて、わたしが真ん中を陣取って寝ていた。わたしが目を覚ました今、両隣の布団はどちらも空っぽだった。どうやら二人とも、わたしより先に起きていたらしい。入り口に近い方の布団は、掛け布団がぐちゃぐちゃになって枕からだいぶ遠ざけられているが。

「あ、おはよう、日高さん」

 窓側から八千代の声がして振り向いた。

 広縁に置かれた竹製の椅子に、八千代は脚を交差させながら腰かけて、手のひらに収まるサイズの飲料の容器を指先に挟み、細いストローを刺して飲んでいる。浴衣姿なので脚を組むと生足が絶妙に露わになって、ストローを咥えながらこちらに視線を向ける仕草は、普段と違って髪を下ろして眼鏡を外している事もあって、別人のように色気があった。そのくせ体型がミニマムというのもポイントが高い。

 わたしはほぼ無意識に、そんな八千代をスマホで撮影した。

「ちょっと、なんで撮った」

「いや……朝に広縁で椅子に座って、浴衣姿でヤクルトをストローで飲む女の子って、()えるなぁって思って」

「肖像権って知ってる? あと、これヤクルトじゃなくて、ピルクルだから。ヤクルトより半額くらい安いから、わたしはこっちの方が多い」

「ああ、そう……容器の形が似てるからねぇ。それより、大和はどこへ?」

「起きてすぐに軽く準備体操をした後、朝風呂に行くと言って出て行った」

「朝風呂って、要するにまた温泉に浸かりに行ったってこと? どんだけ温泉が好きなんだ、あの子」

 昨夜、瑞穂やわたし達が直面した事態について、粗方の推理がまとまったところで、わたし達はこの民宿自慢の天然温泉に向かった。わたしだけは二度目だけど、ここの温泉は変わらず心地よかった。温泉があると聞いて目を輝かせていた大和も、湯舟の中で顔がとろけてしまっていた。あれですっかりハマったようである。

「まあ、温泉は湯当たりさえしなけりゃなんぼ浸かってもいいからね」

 と、興味もなさそうに八千代は、ヤクルトもといピルクルをちゅーっと啜った。

「八千代はいつ起きたの?」

「えーと……」八千代は腕時計を見る。「おっ、もう一時間近く経ってる」

「えっ、待って。いま何時?」

「もうそろそろ八時になるところ」

 なんてことだ……わたしは頭がくらくらしてきた。わたしは休日でも七時より前には必ず起きている。特にここ最近は自力で早く起きることが多かった。日曜日で、ふかふかの布団で寝ていたとはいえ、そんな時刻まで眠っていたなんて。

「よほどよく眠れたみたいだね。むしろ、今までがちゃんと寝られていなかったんじゃない?」

「えっ……」

「新島さんの手掛かりが何ひとつなかった時は、捨てられたんじゃないかって、ずっと不安がっていたんでしょ。そんな状態じゃ、眠りが浅くなっても無理はない」

 ああ、そうか……八千代の指摘はとてもしっくりくるものがあった。

 わたしがいつもより遅く起きてしまうくらい熟睡したのは、不安から解放されたからだ。瑞穂はわたしを捨ててなどいなかったし、何らかのよからぬ事態に巻き込まれ、やむなく姿を消しただけで、今も無事でいる可能性が高い。確かな事はまだ分からないが、昨日一日だけでわたしにとっての深刻な不安材料はなくなった。そのおかげで、ようやく安心して眠ることができたのだろう。

 もっともそれは、わたしと一緒に知恵を絞って、絶望を解きほぐしてくれた、大和と八千代の助力によるところが大きい。そういえば、最後の結論を出してから、まだ二人にお礼を言っていなかった気がする。この場に大和がいないのは惜しいけど、この機会を逃すと二度と言えなくなりそうだから、今のうちに八千代には言っておこう。

「……二人のおかげだよ。ありがとうね」

 八千代はピルクルをまたちゅーっと飲んでから、すぼめていた口を開く。

「苦しゅうない」

「殿様か何かかな?」

「しかしそれはそれとして、さっき無許可で撮影した写真は消しなさい」

「えー、ほどよい逆光も相まって結構うまく撮れたのに、もったいないよ。せめて大和に見せてからにしようよ」

「人の浴衣姿の写真で遊ぶな。今消さなかったら、新島さんが見つかった暁に、その写真の事を新島さんにバラすよ。恋人でもない女を勝手に撮影して後生大事にしていたって」

「……すみません、消します」

 ガチでキレた八千代も恐いけど、わたしにクリティカルに効く脅しがもっと恐くて、さすがにわたしはごねるのをやめた。もし本当にそんな事をされたら、瑞穂に浮気を疑われて修羅場確定だ。絵になると思っただけで下心とかはないけど、いざ正直に説明しようとしても、疚しさを滲ませずに話せる自信がない。

 実にもったいないが、わたしは八千代のサービスショットを消去した。しょげて肩を落としているわたしの手元に、八千代の視線が向いている。

「ねえ、日高さん。念のためにもう一回、そのスマホを調べさせてくれない?」

「写真はちゃんと消したよ?」

「いや、そうじゃなくて、変なアプリが仕込まれていないか確認させてほしいの」

「変なアプリ……?」

「そう。新島さんのスマホに、いつの間にか位置情報を抜き取るアプリを仕込んでいたくらいの連中だから、日高さんのスマホにも同じような細工をしてないとは言い切れない」

 本当に細かい可能性までしっかり考える子だな……だけど、わたしのハンドバッグをひったくった犯人が、完全にわたしを無関係だと考えたとは限らない。SDカードを抜き取った後も、わたしの動きを追跡するために、スマホに細工をした可能性はある。

 丸いフレームの眼鏡を装着し、広縁の椅子から立ち上がって、和室に戻ってきた八千代に、わたしはスマホを渡した。八千代がわたしのスマホを操作して、内蔵チップやSDカードにインストールされているアプリを調べる所を、わたしは八千代の横から覗き込む。

「……うん、端末の情報が意図せずネットに流出するようなアプリはないね」

「よかった、取り越し苦労か」

「でも、犯人の目的がSDカードだけとは限らないし、油断は禁物だよ」

 そう言って八千代はスマホをわたしに返した。

 うぅむ……瑞穂の事では安心できていたけど、別の不安材料は未だにくすぶっている。犯人が何者で、どんな目的で動いているのか、きちんと突き止めないことには、まだしばらく安眠とはご無沙汰になりそうだ。

 しかし、わたしがいずれ瑞穂を探し出そうとすると、瑞穂は予想して、必要な手掛かりをわたしが手にできるように準備をしている。そして、一番大事な手掛かりは、わたしだけに届くようにするため、うちの高校の文化祭を利用するはず。その時に全ての真相を知ることができれば、わたしにもようやく平穏が訪れることになる。

 ……いや、わたしが動いている一番の目的は、姿を消した瑞穂と再会することであって、それが叶わなければ平穏も何もあったものじゃない。それに、瑞穂が本当に真相をわたしに伝えるつもりでも、その真相をわたしが受け入れられるかは別の問題だ。もし、この一連の事件の真相が、残酷で、わたしがとても直視できないものだとしたら、わたしはどう向き合えばいいのだろう。あるいは、瑞穂と二度と会えないことになったら、どうしたらいいのか……。

 ネガティブな考えを振り払うように、わたしは首を横に振った。ダメだ、一人で考えていると、どうしても嫌な想像ばかりをしてしまう。こういうところがあるから、今回わたし一人で瑞穂の捜索に臨まなかったのは正解だった。元は一人の予定だったけど、大和と八千代がいてくれるおかげで、わたしは悲観的にならなくて済んでいる。

 ふと、わたしのすぐそばで布団の上に足を崩して座っている八千代が、じっとわたしを見ていることに気づく。背が低いから、自然と上目遣いになっていた。

「……どうしたの?」

「えっと……今ならいいか」ぼそっと呟いてから八千代は言う。「日高さんと新島さんって、この民宿で恋人同士になったんだよね」

 どっと急激に体温が上がった気がした。

「そっ……そのこと、八千代に話したっけ?」

「いや? でも昨日、女将さんと話していた日高さんが途中で赤面していたから。この町に来るまでは恋人じゃなかったって何度も言っていたし、女将さんに二人が恋人だと気づかれたとしたら、関係が変わったタイミングはこの民宿かな、と思って。日高さんにとっても、特に思い出深い場所みたいだし」

「わー……名推理」

「日高さんは心の内が結構顔に出て分かりやすいからね」

 マジか……全く自覚していなかった自分の一面を指摘されて、わたしは八千代から目を逸らして口元を押さえた。ヤバい、これはめちゃくちゃ恥ずかしい。

「……穴があったら頭から突っ込みたい」

「残念ながらこの客室にお誂え向きの穴はありません」

「追い打ちをかけないで……心に穴が空きそう」

「それより日高さん、どんな感じで新島さんとくっついたのか、諸々聞かせてくれない? 恋バナ感覚で」

「今そんな事が出来る精神状態じゃないし……というか、なんで聞きたいの」

「だってわたし、新島さんが失踪した経緯は聞いたけど、日高さんとの馴れ初めは全く聞いていないから。今後の捜索のためにも、新島さんの人となりを知っておく必要はあると思うよ」

「……で、本音は?」

「旅行先で女友達の恋バナを聞くという青春っぽいことをやってみたかった」

「いとも簡単に自白するんかい」

 頭のよさとか口調は大人びているけれど、こういうところは年相応って感じだ。まあ、八千代の方もわたしの事を、単なるクラスメイトじゃなく友人と思ってくれているのは、普通に嬉しいけど。ちょっとだけいい気分になれたから、話してみてもいいか。

 それに……瑞穂との関係を八千代が知っている以上、隠す理由もない。同じく関係を知っている大和もいれば、後で聞かれたときに二度手間にならなくて済んだけど、たぶんまだ温泉から戻って来ないから、致し方あるまい。

 さて、どこから話そうかな。瑞穂の人となりを知りたいなら、出会いから話した方がいいだろうな。

「……瑞穂とわたしが、同じピアノ教室にかよっているのは聞いたよね」

「はっきりと聞いてはいないけど、ピアノ教室くらいしか接点がないとは言ってた」

「あれ、そうだったっけ。まあいいや。瑞穂は去年、中学三年の時に、わたしがかよっていたピアノ教室に転入してきたの。以前はもっとレベルの高い教室でピアノを学んでいたらしくて、ものすごく上手かったんだ。リストのハンガリー狂詩曲を弾けるくらいに」

「中三でリストって……とんでもない天才肌ね」

 たぶん八千代にピアノの経験はなくて、リストがものすごく難しいと知識で知っているだけだろうけど、それでも顔を歪めるくらい驚いている。

「といっても、普通レベルのうちの教室で悪目立ちしないように、普段はだいぶ手を抜いていたんだけどね。もちろん先生とマンツーマンの時は、ちゃんとやっていたよ。ただ、わたしの前でだけは、割と最初から、上手い演奏を聞かせてくれていたな」

「それはつまり、日高さんの前では、素の自分を見せていたってこと?」

「まあ、そうだね。本人の口からちゃんと聞いたわけじゃないけど、出会って間もない頃から、瑞穂はわたしに心を許していたんだと思う。わたしもそれが嬉しくて、自然と二人で一緒にいる時間が増えていったんだ。最初はピアノ教室で雑談する程度だったけど、連絡先を交換してからは、自宅で夜中に電話するようになって、休日に二人で出かけることも多くなったな」

 そうして一緒に過ごす時間を重ねることで、わたしは瑞穂のことを少しずつ知っていった。かわいいものが好きなこと。頭が良くて教えるのも上手いこと。ピアノは天才的だけど手先は不器用なこと。手先だけじゃなく自己表現も不器用なこと。無邪気に笑った顔が可愛らしいこと。時折見せる照れくさそうな表情が、ドキドキするほど綺麗なこと。

 瑞穂のことを知れば知るほど、わたしは彼女にどんどん惹かれていった。男の子を素敵だと感じたことはあるし、女の子だけが恋愛対象というわけじゃなかったけど、自覚していた好みの範疇を軽々と超えるほど、わたしには瑞穂が魅力的に映っていた。

「そうして時間をかけて好意を育んだのち、二人で遊びに来たこの町の、この民宿で、新島さんに好意を告げたわけか」

「ちょっとちょっと、わたしから瑞穂に告ったとはひと言も言ってないでしょ」

「違うの?」

「違うよ。わたしはただ、瑞穂との関係を、焦らずゆっくり深めるつもりでいたし、そもそもこの気持ちを恋と呼んでいいのか、自分でも説明が難しかったからね。だからね、瑞穂の方から、はっきりと恋心を伝えられるとは、思っていなかったんだ」

「へえ……新島さんの方から告白してきたとは思わなかったな」

「まあ、わたし視点での話しかしていないから、そう思っても仕方ないかもね」

 もちろん、瑞穂がわたしに向ける好意に、わたしが全く気づいていなかったわけじゃない。瑞穂が時折わたしに見せる、他の人の前では絶対に見せないような、心地よさを噛みしめるような微笑みが、好意の表れだと察することもできないほど、わたしは鈍感な方ではなかった。だけど、それが友達としてなのか、それ以上のものなのか……わたしにとってはどうでもいい事だった。一緒に過ごして幸せを感じられたら、抱いている感情に、ありふれた名前をつける必要はないと思っていたから。瑞穂の方も、自分の気持ちが恋なのかどうかを、確定させていたわけではなかった。

 だけどあの日、二人で一緒に温泉に入って、並んで湯舟に浸かっていた時、不意に瑞穂の肩がわたしの肩に触れたのだ。

 海で遊んでいた時にも思っていたが、瑞穂の肌は絹のように滑らかで、お湯で濡れていたこともあって触り心地もしっとりしていて……それだけのことなのに、わたしは緊張でどっと拍動が高まり、頭の先まで熱が染み込んでいくような感覚がした。だけどその熱が妙に心地よくて、わたしは慌てて距離をとるどころか、むしろぐいっと押し返して、さらに肩同士を密着させようとした。

 ふと、瑞穂の口からかすかに、いやに艶めかしい息遣いが聞こえてきた。すぐ隣を振り向いた瞬間、わたしの拍動が一回、ドクンと激しく跳ね上がった。

 瑞穂はまるで逆上(のぼ)せたみたいに、耳も含めて顔面全体が朱に染まっていた。でもそれだけじゃなく、わたしの視界には、火照りを帯びた彼女の首筋や鎖骨、少し控えめな谷間、露わにされた柔肌が間近に映し出されていた。

 わたしはすぐに目を背けた。しばらくわたし達は無言だったけど、ようやく口をついて出た言葉も間が抜けていた。

『……ひょっとして瑞穂、逆上せた?』

『……そっちこそ』

『あはは、ここのお湯って結構熱いもんね』

『そう、だね……だからさ、今なら触れ合っても、熱さなんて、感じないよ』

 わたしがその言葉に何か反応する前に、瑞穂は肩を寄せたまま、お湯の中で自分の手とわたしの手を絡めるように握った。肩と手が密着しているという事は、もちろん腕全体もぴったりとくっついているわけで……瑞穂の体温がさらに伝わってきた。

 これまでになかった距離の詰め方に、わたしの思考回路はオーバーヒート寸前まで追い込まれていた。そんな状態に追い打ちをかけるように、瑞穂はわたしに問いかけた。

『美里は……わたしのこと、どれくらい好き?』

『…………!』

 まるで、好きかどうかなんて聞くまでもないと言わんばかりの、一歩どころか百歩くらい踏み込んだような問いかけだった。そして、瑞穂がその質問をした意図に、察しがつかないわけはなかった。

 でも、肝心なところで臆病なわたしは、その意図に軽く乗ることができなかった。

『えっと……ひと言で答えるのは、難しい、かな……』

『そう』瑞穂の反応は思ったより淡白だった。『わたしも、たぶんそう』

『そ、そっか……なんか変だね。友達なら、これくらいスッと答えてもいいのに』

『友達……だけだと、なんか、足りない』

『え?』

『わたし、やっぱり、友達だけじゃ、足りない』

 瑞穂はそう、よく通る声で告げて、さらにぐっと距離を詰めて、わたしの目を真っすぐに見つめてきた。そのまま、何も言わずに見つめ合う時間が、流れた。瑞穂は、吐き出したい言葉が、喉の入り口まで出かかっていたようだった。

 だけど他の宿泊客が入ってきたことで、わたし達はハッと我に返り、この状態で湯舟に浸かり続けると体が耐え切れないと思い、わたし達はそそくさと温泉を出て行った。脱衣場で浴衣を纏うまで、わたし達はお互いの肢体を、視界に収めまいと必死に目を背けていた。

 わたし達の泊まる客室には、いつの間にか二人分の布団が敷かれていた。温泉に行っている間に、従業員が用意してくれたのだろう。未だに火照りが残っていたわたしと瑞穂は、速攻で布団の上に大の字で寝転がった。夏仕様のひんやりとした布団のおかげで、体の火照りとともに頭も少しずつ冷えていき、温泉でのやり取りを冷静に思い返せた。

 ……思い返した途端に、顔だけが熱くなった。左隣に横たわっている瑞穂に言う。

『瑞穂って……結構大胆なことするよね』

『自分でも驚嘆してる……美里の肩が触れただけで、冷静な思考ができなくなった』

『それはもう、ある意味で逆上せているね』

『うん。こんな事は初めて。美里が、初めてだよ』

 行動どころか発言も大胆になっていると、気づいているのだろうか。わたしはさっきから激しい拍動が止まらないのだが。

 わたしが二の句を継げないでいると、急に瑞穂がわたしに向かってごろんと転がって、温泉の時みたいに視線を真っすぐにぶつけてきた。瑞穂の動きが気になって、わたしは顔だけ瑞穂の方へ向けてしまったから、再びわたし達の視線が重なった。

『美里はわたしに、たくさんの初めてをくれた。そのどれもが楽しくて、嬉しくて、大事な思い出になってる……これからだって、わたしに初めてをくれるのは、美里がいい』

 潤みを湛えてかすかに揺れる双眸から、真っすぐに放たれた引力に、わたしの全てががっしりと掴まれた。まるで、鏡の中の瑞穂になったみたいに。

 瑞穂はゆっくりと、布団に右手をつきながら体を浮かせると、じわじわと朱に染まるわたしを眼差しで捉えながら、左手をわたしの右肩の近くへと伸ばしていく。ぴたりと揃えていた両膝を開き、わたしの太腿を挟むように膝をつく。わたしは……瑞穂が衣擦れの音だけを立てながら、わたしの上で四つん這いになる所から、ただ目を離せないでいた。

 入浴による火照りはとうに冷めたはずなのに、瑞穂の頬はまた熱を帯びていた。

『さっき……美里に、わたしのことを、どれくらい好きか、って聞いたよね』

『う、うん……』

『わたしは、美里が好き。好きで好きで、どうしようもないくらい好き。もうね、ひと言で表すのが無理なくらい、あなたが好きなの』

 瑞穂の熱い吐息を肌に感じる度に、その言葉がわたしの中に染み込んでいく。もう、決定的としかいえなかった。

 わたしはかろうじて右手だけ動かして、自分の口元に添えた。おぼろげだけど形を成してきた想いが、滲み出すように口をつく。

『それは……ヤバいって』

『……ヤバいの?』

『だって……そこまで言われたら、気のせいだって、自分に言い訳ができなくなる……』

 情けないことを言ってしまった。色んな事が恥ずかしすぎて、死にたくなる。だけどそんなわたしに、瑞穂は優しく微笑みかけた。

『もう、言い訳なんてさせないよ』

 布団の上についていた瑞穂の両膝が、すすっと後ろへ下がっていき、手と膝で浮かせていた瑞穂の体は徐々に高さを落としていく。わたしと瑞穂の、お腹が、胸が、そっと触れ合う。瑞穂の肘はわたしの肩をぎゅっと挟み、両手はわたしの耳元に添えられる。少し口を開くだけでも息がかかるほど、瑞穂の綺麗な顔が間近に迫った。

『正直に答えて、美里……今ここで、わたしの初めてをひとつ、美里からもらってもいいかな……?』

『…………っ』

 一瞬、言葉に詰まった。でも一瞬だけだった。瑞穂がわたしから、何をもらおうとしているのか、聞き返さなくても分かったから。

 夢みたいだ、と思った。夢であってほしくない、とも。

 だって、こんな時が来るなんて、思ってもいなかったから。

『わたしも、瑞穂から、初めてを、もらいたい……』

 その返答で、お互いに堰を切ったように、ぽつぽつと涙を落とし始めた。

 瑞穂は何も言わず、その姿勢のまま、目を瞑ってわたしに顔を寄せた。わたしも瞼を閉じて、同じように自分からも顔を寄せに行った。

 柔らかな温もりに包まれながら、わたし達は唇を重ねた。

 不思議だった。ただそれだけのことなのに、さっき浸かっていた温泉よりも、温かくて心地よく思える。その心地よさを手放したくなくて、わたしはほとんど無意識に、両手を瑞穂の背中に回していた。

 静かな和室はさらに静まり返り、浴衣のかすかな衣擦れの音は、聞こえたかと思えばすぐ静寂に溶けて消える。

 ……どれだけの時間が経っただろう。そんなことは些事だと思い、わたしは頭の中から放り出していた。今は一秒でも長く、この好きで好きでたまらないほど大好きな女の子の、柔らかな体と心地よい温もり、かぐわしい香り、そして火傷しそうなほど熱い唇を、全身がとろけて混ざり合うほど感じたい。

 あっ、でも、鼻だけの呼吸もそろそろ限界かもしれない……瑞穂は苦しくないのだろうか。いつまで唇を塞ぐつもりなのか、瑞穂はずっと身じろぎ一つしない。

 ようやく、瑞穂から唇を離し、長いキスが終わった。体感三十分くらいのような気もするけど、たぶん五分より少し短いくらいだろう。それでもかなりの長さだが。

『はあ……ずいぶん長かったね』

『うん。ぴったり、4分33秒だからね』

 そう言って瑞穂は、存分に味わったとばかりに自分の唇をペロリと舐めた。その艶やかな仕草にドキッとさせられたけど、数字を聞いて、途端に笑いがこみ上げてきた。

『あはっ! 瑞穂、そんなことにこだわっていたの? てか、キスしながらずっと時間をカウントしてたんだ』

『大変だったんだよ。スマホや腕時計で計ったら芸がないし、頭の中だけで273秒をひたすら数えようとしたけど、美里とのキスが気持ちよくて、何度か数字が吹っ飛びそうになったし』

『こんな形で沈黙の4分33秒を奏でるとか、ジョン・ケージも予想しないでしょ』

『かもね。でも、美里とのファーストキスは、絶対こうしようって決めていたんだ』

 瑞穂の変なこだわりには、呆れて笑うしかない。告白も何もしないうちから、どんなキスをするか目論んでいたこともそうだけど、そのために有名な曲をオマージュするとは、瑞穂らしいというか、変わっているというか。

 だけど、そんな不器用な必死さがかわいらしく見えて、瑞穂を愛しいと思う気持ちが、なおさら膨らんだ気がした。

『ねえ、瑞穂……わたし達、恋人になったのかな?』

『どうなんだろ……今まで恋なんてした事なかったからなぁ。そもそもわたしは、気軽に恋ができる環境にいなかったから』

『そうなの?』

『でも、美里のことは、そういうしがらみを全部捨ててでも、好きって気持ちを貫きたいって思えた。こんなふうに思えたのも、初めてのことだよ』

『なんかもう、瑞穂の初めてはわたしばかりだね。でもね、この気持ちにつける名前が、恋なのかそうじゃないのか、きっとどうでもいい事なんだよね。わたしは瑞穂が好きで、瑞穂もわたしが好き。同じ時間を過ごして、手を繋いで、キスをして……そういう、わたし達だけの関係が、いま生まれたんだと思う』

『本当だね……そういう関係をどう呼ぶかは、重要じゃないのかも。でもきっと、誰かに美里のことを訊かれたら、わたしは迷わず、恋人って言うんだろうな』

『ふふっ、わたしも、そう言うと思う』

 どう呼んでも構わないなら、わたしはこの関係に、恋人と名付けてもいいのだろう。女の子同士だし、世間一般に言うような恋人とは、少し違うかも知れないけど、わたしと瑞穂がお互いに抱いている気持ちを、同じ言葉で言い表しているのだから、きっとそれでいいのだと思う。

 布団の上で、寄り添い見つめ合いながら、並んで寝転がるわたし達は、何も言葉を交わすことなく指を絡めて手を繋いだ。

『お布団、二枚あるけど……今日は一緒の布団に入ろうか』

『うん。もっと、美里に触れたい。大好きだよ、美里』

『わたしも、大好きな瑞穂に、いっぱい触れたい』

 屈託など微塵もない笑顔を交わし合って、わたし達は一枚の布団に二人で入った。眠りに落ちるまで、向かい合わせで抱き合って、時折ついばむようなキスをして、二人の初めての夜を過ごしていった……。

 気持ちが通じ合ったことを確かめてから、わたし達の距離感は明確に変化した。どちらかがその気になれば、手を繋いだり、腕を絡めたり、人目がなければハグしたり、唇や頬にキスをしたり……愛しい人に触れて愛情を与え合う、それはもはや日常と化した。これからだって当たり前に、そんな日々が続くと思っていた。

 ……まさか、それから二週間も経たないうちに、瑞穂の方から姿を消すなんて。

「えっと……ジョン・ケージのくだりは突っ込んだ方がよかったの?」

 わたしと瑞穂の馴れ初めを最後まで聞いて、八千代は開口一番に、呆れて眉尻を下げながら問いかけてきた。ちなみに、思い返すと恥ずかしいやり取りもあったので、馴れ初めは何ヶ所か端折って話していた。

「正直、その辺りは日高さんの創作かと思ったよ」

「そんなわけないでしょ……一部割愛したけど全部ノンフィクション、っていうか実体験だから」

「とりあえず、新島さんが相当な音楽好きなのはよく分かったよ。あと、日高さんのことも相当好きだってこともね」

「分かったならよろしい」

 付き合っていられないと言わんばかりにため息をつく八千代に、わたしは諸々の昔話が終わったつもりでそう告げた。否、昔話にするつもりはなかった。これはまだ、わたしと瑞穂の物語の、ほんの序章に過ぎないのだと信じたい。

 きっと、瑞穂が姿を消したことは、わたし達にとっての必要な試練なのだろう。わたしも瑞穂も、これから先も一緒にいたいと願っていても、現実はそう易々とわたし達に味方してはくれない。この先わたし達には、同様の、あるいはそれ以上の逆風が吹きつけることになる。愛した人と手を携えて生きていくという事は、そうした試練を一つずつ、二人で乗り越えていくという事なのかもしれない。

 そういう意味でも、わたしと瑞穂の物語は、まだ始まったばかりなのだ。恋人になったことで浮かれていた時は、二人で過ごす未来なんて曖昧でぼやけていたけど、ようやく輪郭が見えてきた気がする。今は離れた所にいて、手を取ることができないとしても……。

「これからの人生を瑞穂と一緒に歩んでいくなら、今度こそ、瑞穂の手を離さないようにしないといけない。再会したら、もう二度と瑞穂を手放さないんだから」

 新たな決意とともに、その手を強く握りしめる。いずれ大切なものを取り戻したら、掴んで二度と離さないように。

 決意を固めたわたしをじっと見て、八千代はふっと微笑む。

「のっぴきならなくて離れても、こんなにも強く思ってくれる恋人がいるなら、新島さんも告白した甲斐があるってものだね」

「まあ、再会した暁には、ひと言くらい怒りの文句をぶつけるかもしれないけど。何も言わず姿を消したこと、しばらくは許さないと思うし」

「そこは広い心で許してやってもいいんじゃない?」

「いいや、散々心配させた分、瑞穂にはたくさん借りを作らせる。大体、瑞穂がいなくなったせいで、恋人になってから二人でやりたかったことが全然できていないんだから。帰ってきたら目一杯、わたしからのお願いを聞いてもらうもんね」

「それって……エッチなこととか?」

「…………」

 どこかの木の枝から飛び立った雀が、チュンチュンと鳴いた。

 弾むような足取りで廊下を歩く音が近づいてくる。客室と廊下を隔てる襖が開かれ、体から湯気を立たせている浴衣姿の大和が現れた。見るからにお風呂上がりで、心なしか肌ツヤも良くなっている。

「やっちー! 朝風呂めっちゃ気持ちよかったよ! あれ、美里っち起きたんだ……って、何してるの、二人とも」

 客室に戻った大和は、その奇妙な光景に首をかしげた。さっきより乱れた布団の上で、わたしは八千代にコブラツイストを決めて、八千代は苦悶の表情で抵抗しようとわたしの太腿をバシバシと叩いている。鮮やかに技を決めているわたしの方が、顔を真っ赤にしていたのが不思議だったと、のちに大和は語っている。

 ……まあ、仲良くなった証拠ということだ。



 民宿のチェックアウトを済ませた後、昨日の夕食を食べるために行ったファミレスで朝食をいただき、わたし達はその足でこの町の警察署を再び訪ねた。強奪されたわたしのハンドバッグがほぼ無傷で戻ってきたことについて、昨夜のうちに警察へ電話で報告はしたけれど、書類の書き換えが必要になるため、翌日にまた来てほしいと言われたのだ。

 と言っても、被害届の変更点を事務的に聞き取って、作成した書類をわたしに確認してもらったら、わたしが立ち会う警察の仕事はそこで終わった。大体の事情は昨夜のうちに警察も把握しているし、改めてやる事といえばそれくらいなのだろう。

 書類の作成が終わった後、わたしは警察に、昨夜三人で考えたことを説明した。ハンドバッグを強奪した二人組の犯人は、わたしが行方を追っている親友の失踪に関与していて、親友はその犯人や仲間たちの追跡を掻い潜りながら、何らかの手掛かりをわたしに残そうとしている……大体そんな内容だった。素人の推理ということもあって、担当の警察官は半信半疑だったが、瑞穂のことはわたしが一番よく知っていると断言したら、とりあえず心には留めておくと言った。こんな根拠の乏しい話は、とても警察の調書に残せないと思ったから、わたしも全ての作業が終わってから話したのだ。

 ちなみに、瑞穂のことは親友とだけ言っておいた。恋人関係を無闇に他人に明かしたくなかったし、親友という関係だって終わらせたつもりはなかったから。

 警察署での用事を終えた後は、電車に乗って地元に帰り、そしてそのまま大和の家へ向かった。元々昨日と今日は、文化祭の出し物である喫茶店で使用する、小型のプラネタリウムを、演出班であるわたしと八千代と大和で製作する予定だった。ところが、わたしが先に瑞穂の捜索計画を立ててしまい、変なところから聞きつけた八千代と大和もついて来てしまったので、プラネタリウムの製作は後回しになっていたのだ。貴重な土日の、四分の三を潰してしまったので、遅れを取り戻すために、地元に戻ったらすぐにでも作業を始めようと話し合って決めていた。

 とはいえ、昨日電車の中で大和も言っていたが、プラネタリウム用の天球の3Dデータはできているので、印刷して穴を開けて、球状の骨組みに貼り付けて、回転させながら内部からLEDで照射する装置を組み合わせるだけだという。しかし、それだけの作業が実は大変だということは、想像に難くあるまい。

 天球の3Dデータを紙に印刷するわけだから、当然だけどいくつかのエリアに分割して、各エリアを平面に射影したデータを作ったうえで、印刷しなければならない。この辺りの作業はコンピュータに詳しい八千代がほぼ一人でこなした。ただ、印刷した後が問題となる。

「これ……結構天体の数が多くない?」

「いやー、調子に乗って六等星まで入れちゃったからねぇ」

 プリンターから出てきた大きめの用紙には、タケノコみたいな形に分割された星空が印刷され、それが全部で十二枚。背景は光を吸収する黒だけど、その上に大小様々な白色の粒が大量に敷き詰められている。こんな星空、この町では見た事がない。

「実際、山の上とか明かりのない草原で見る星空はこんな感じだよ」

「まあ星空観察の経験者が言うならそうなんだろうけど……」

「悪いけど綾瀬さん、これは手作りプラネタリウムには向かないわね」

「えっ、なんで?」

「ドーム型のスクリーンを使うプラネタリウムなら、映像をそのまま映し出すだけで星空を再現できるけど、穴を開けて漏れる光で星空を再現しようとしても、装置から壁が離れるほど、壁に当たる光の範囲は大きくなってぼやけるのよ。これだけたくさん小さな穴を開けたら、雲みたいな光の塊を見せることになるわね」

「うわっ、マジか。そんなの星空じゃない!」

 なんでそういう手作りプラネタリウムの難点を大和は知らないのだろう。そもそも大和の家で作業することになったのは、プラネタリウムの装置や材料を、大和が持っているからなのだが。ちなみにこの装置は科学雑誌のおまけで、後で八千代が改造するらしい。

「光源を弱くすれば、壁に当たる光の広がりは抑えられるけど、その分、小さな光は見えづらくなる。大小関係なくはっきりと光の粒を映し出すなら、全ての穴の裏側に小型のレーザーポインタを貼り付けるしかない」

「めちゃくちゃ面倒くさいじゃん、それ……」

「そもそもレーザーポインタを大量に購入するお金なんてないし、レーザーの光って目に当てちゃいけないから、お客さんが大勢来る場所で大量に使うわけにはいかないよね。大和、ここは小さい星を映すのを諦めた方が現実的だよ」

「そうだね……宇宙の神秘を工作で再現するのは難しいよ、うん」

 よほど満天の星を教室で再現したかったのか、大和は至極残念そうに涙をポロポロとこぼしながら頷いた。

 よくよく考えたら、プラネタリウムみたいに天球の動きを再現しなくても、教室の壁と天井全体に黒い幕を貼り付けて、蓄光テープを小さく切り取って幕の内側に貼れば、星空を緻密に再現することはできたのだろう。そうなれば美術班との共同作業になるから、人数は足りるはず。だがそうなると、美術班が渾身の出来だと自賛するロケットや惑星や宇宙戦艦(?)のオブジェをどう扱うのか、という問題が出てくる。今からでもコンセプトを星空喫茶に変更すれば、星空を再現した空間を作ることもできただろうけど、オブジェがほとんど出来上がっている以上、それらを捨てるように言う事はできない。

 なんで宇宙喫茶なんて、要素を何でも詰め込めるようないい加減なコンセプトに決まったのだろうか。……たぶん、高校に入って初めての文化祭だから、慣れていない上にその場の勢いだけで決めたのかな。正直わたしは、瑞穂を探す方法ばかり考えていたせいで、決定までの経緯をよく覚えていない。

 結局、一等星と二等星だけ穴を開けて、残りの星はどうするか悩んだものの、装置そのものが天球のオブジェとして使えそうなので、塗り潰さず残しておくことにした。教室内を暗くしてプラネタリウムを動かすのは一時間の中で五分だけなので、明るい時間帯はオブジェとして楽しんでもらえばいいのだ。

 さらに、天文好きの大和から、八千代にこんな無茶な要求が加えられた。

「ねえねえ、やっちー。この装置の回転軸、垂直じゃなくて、55度傾けることってできないかな」

「……それは、水平方向から見て35度の傾きになるようにする、ってこと?」

「うん。関東地方だと、天球の回転軸の方向は、水平から35度傾いているから。せっかく二等星のポラリスも入れるんだし、ここまで来たら星の動きをなるべく再現しちゃおう」

「……はあ」八千代はため息をついた。「ランプシェードみたいに、垂直な回転軸の上に天球のカバーを被せて回すだけなら、たいして手間もかからないのに……そんなに傾けるとなると、天球の骨組みのあちこちと回転軸を繋げて固定しないといけないわね」

「難しい、かな……」

「骨組みに天球の紙を貼り付ける前に言ってくれてよかったわ。材料が足りないから買い足さないといけないし、また完成が遠のくけど、勉強の時間を返上して作業を進めれば、木曜までには間に合うと思う」

「なんだ、それなら大丈夫だね!」

「わたしが勉強する時間を返上するって意味よ。自分が勉強から逃げたいからって巻き込まないで」

「えー、同じ班なんだし、一蓮托生、運命共同体でしょ?」

「どっちかっていうと、死なば諸共って感じがするけど」

「死なないよ、縁起でもない!」

 漫才みたいな掛け合いをしながら、八千代は不満を露わにしているけど、たぶん大和の要求に応えて、装置の改造に着手するのだろうなぁ……この文化祭の準備期間中、何度も大和に振り回されて、もう慣れっこだろうし。

 こんな調子で予定外の作業も加わってバタバタしながら、木曜日までの期間をフルに使って、わたし達は何とか手作りプラネタリウムの完成にこぎつけた。文化祭の本番は金曜日で、前日の木曜日は文化祭の最後の準備日として全休となる。プラネタリウムは宇宙喫茶の肝の一つだから、この日までに完成できてひとまずわたし達は安堵した。



 だが、ホッとしている暇はない。あくまでも喫茶店のメインは食事と接客だ。メニューの発案と当日の調理は調理班の仕事だけれど、学外の人に提供する食事だから、試食はなるべく調理班以外のメンバーも参加するように言われている。さらに、接客は調理で忙しい調理班に代わり、当日に仕事のない他のメンバーが中心になって行なう。もちろん演出班のわたし達も例外じゃない。プラネタリウムの試運転と演出の段取りの確認を終えたら、演出班の仕事から接客の仕事にシフトチェンジとなる。

 文化祭の準備のためだけに、全ての授業がお休みとなったこの日を存分に使って、わたしのクラスはギリギリの調整を迫られていた。調理班は全員、試作のために家庭科室に籠って調理を続けているが、教室で飲食を提供するクラスや団体は他にもあるので、調理台の取り合いにならないよう順番を調整しながらやっていて、思うように進められずにいるという。美術班もオブジェ製作を急ピッチで進めているが、思いつくまま色んなものを作ろうとしたせいで、過密スケジュールの中で無理な作業を強いられていて、全員がすでに半死人の様相を呈している。

 そんな中にあって、衣装を製作する被服班は比較的穏やかだった。接客に参加する生徒全員の採寸はすでに済んでいて、量販店で買い集めた出来合いの衣装を調整して、今日は試着をすることになっている。演出班と同じく、自分たちの仕事の終わりが見えてきているからか、その動きはゆったりとして落ち着きがある。

 わたしも接客に参加するので、被服班の試着作業に付き合っている。教室の隅に置いた間仕切りの向こうで衣装に着替えて、被服班の女子の前に立った。

「どうかな……?」

「おおー、いいね、日高さん。元から派手さが少ないから、クラシカルでお淑やかな衣装の方がいいと思ったけど、うんうん、わたしの見立てに間違いはなかった」

 おっ、わたしを褒める(てい)で自画自賛しているな?

 わたしに宛がわれた衣装は、被服班の女子が言うところの、クラシカルなメイド服だった。ひらひらの部分は最小限に抑えられ、生地は色調こそ薄茶色と少し地味だけどしっかりしている。何よりスカートは、ソックスの端が少し隠れるくらいの長さで、露出が少ないのに動き回るのにも困らない。高校生が文化祭の接客で着るにはぴったりだ。

 ただ……やはり普段着ないような服だから、ちょっぴり恥ずかしい。もし瑞穂が失踪することなくお客さんとして来たら、どうなっていたことか。

「まあかわいい服だけど……本当に明日、これを着て接客するの?」

「だって、喫茶店といえばメイド服でしょ?」

「コ○ダでもド○ールでもサン○クでも、こんな服じゃなかったと思うけど?」

 一体どこの喫茶店の話をしているのか、さも当たり前のことのようにメイド服を推してくる被服班の女子に、わたしは苦言を呈した。……言って気づいたけど、サン○クだと一部を伏せたことになってないな。普通にサンマ○クにすればよかった。

 とはいえ、給仕係の服装という意味では、メイド服もあながち間違っていないのかもしれない。そもそも宇宙喫茶なんてよく分からないコンセプトの喫茶店に、相場の決まっている制服があるとも思えないし、何でもありといえばそうなのだろう。被服班が参考にした喫茶店に多少の偏りがあっても、大目に見てやればいい。

「わあ! 美里っちのメイド服、いいじゃん。超似合ってるよ!」

 わたしを美里っちと呼ぶのはクラスで一人しかいない。同じく接客を担当する彼女の声がした方を、わたしは振り向いた。

「それはどうも。大和は……えっ」

 振り向いて大和の格好を見た途端、わたしは驚愕して固まった。

 てっきり、わたしとは違う種類のメイド服を着るのかと思ったら、大和は全身にグレーのスキンスーツを纏い、カタツムリの触角のようなものがついた同色のフードを被っていた。角は一体どんな材質でできているのか、大和が動く度にみょんみょんと揺れている。

「あれ、もしかして美里っち、ちょっと恥ずかしかったり?」

「あんたはもうちょっと恥じらいなさいよ! インチキエイリアンじゃないの!」

「え? 宇宙喫茶って感じしない?」

「ふぅ、会心の出来」

 大和は自分の格好に一切の違和感を覚えていないし、後ろにいる別の被服班の女子はなんだか達成感に溢れた顔をしていた。何これ、わたしがおかしいの?

 苦虫を噛み潰したような表情になっていると、わたしのメイド服を作った被服班の女子が話しかけてきた。

「おー、これはなかなか。後はグレーの足袋(たび)を履けば完璧だね」

「そんな足袋あるの?」

「男物だけどあるみたい。本当はタコ型エイリアンのコスプ……もとい衣装も考えたんだけど、足が何本もあったら接客がやりづらくなるって、委員長に却下されちゃったんだ」

「つまり全身スキンスーツのインチキエイリアンのコスプレは接客に支障がないと判断されたのね……」

「コスプレじゃないよ、給仕服だよ」

 いや、コスプレだろ。しかもさっき、コスプレって言いかけたし。被服班のこだわるポイントが分からん。

「こんな格好の奴に給仕されたくねぇ……」

「いいじゃんか。動きやすくて気に入ってるよ、これ」

 大和の適応力はたいしたものだと思うが、ただでさえスキンスーツのせいで立派な胸が普段より強調されているのに、得意気にするとさらに胸が強調されて、ちょっと目のやり場に困る。これ、男性客が来たら、変な扉を開けることになりそうだな……。

「それにこの格好、この喫茶店の内装にバッチリ馴染んでると思わない?」

「その理屈で言ったら、わたしの格好は逆に浮くんじゃない?」

「大丈夫!」被服班の女子が親指を立てた。「接客係のほとんどは日高さんみたいにメイド服を着せる予定だから。宇宙人スタイルになるのは三人だけ」

 この格好をする人がまだ二人いるのか……まあ、三人全員がずっとホールにいることはたぶんないだろうし、おかしなオブジェがあちこちに飾られているこの空間で、宇宙人風の格好をした生徒が一人か二人いても、浮く事はないのだろうな。

 それはそうと、だんだんこの喫茶店の内装も完成が近づき、壁や天井の至る所に模型やオブジェが飾られるようになった。木星や土星の模型とか、ベニヤ板に流れ星や彗星を描いて切り取った板絵が、天井から糸で吊るされていて、壁のあちこちに置かれたり貼られたりしているのは、ロケットに人工衛星にUFOと宇宙戦艦……まるで節操がない。

 被服班の女子はこの辺りの作業に関わっていないが、このごちゃごちゃした空間を見て、ご満悦そうに口角を上げて言った。

「うーん、いいね。まさに宇宙(コスモス)喫茶(カフェ)と呼ぶにふさわしい」

「もはや秩序(コスモス)じゃなくて混沌(カオス)でしょ……」

 すでに入り口に掲げる喫茶店の看板も出来上がっていて、正式名称の『Cosmos Cafe』がでっかく書かれている。これほど看板(なまえ)実態(なかみ)がかけ離れている喫茶店もそうはあるまい。

 まあ、教室のど真ん中に堂々と設置されている、天球を模した手作りプラネタリウムだけは、宇宙(コスモス)っぽさがあっていいと思うけど。この装置の製作に深く携われていないわたしが自慢するのは憚られるから、そんなことは言わないでおくが。

 昨日までに何とか八千代が完成させ、今朝になって設置されたプラネタリウムは、すぐに試運転が行なわれて、ありがたくもクラスのみんなの好評を得た。大和の要求通り、回転軸は水平から35度傾けられ、斜めにした分、カバーの下部分から光が漏れやすくなったが、丸めた黒い厚紙で下部分を囲うことで解決している。星が回転して地平線から出たり入ったりする動きを再現できて、大和も大満足のようだった。

 瑞穂の捜索に時間を割いてしまった分、残りの仕事を積極的に手伝いたかったが、結局わたしがした事といえば、八千代が改良した球状の骨組みに、穴を開けた紙を貼り付けたくらいで、申し訳程度のことしかできなかった。音楽関係ならいくらでも力を貸せるが、プラネタリウムは天体に強い大和と機械に強い八千代が中心になっていて、わたしの強みを活かせる場面はほとんどない。なんとも歯痒いものだ。

 ただ、八千代はこういう格好をするのが嫌だそうで、接客に加わる気はないという。その分、わたしが恥ずかしさに耐えながら接客に励めばいいことだ。

「試食メニュー、持ってきたぞ……って、うわあっ! 変な格好の奴がいる!」

「おい誰が変な格好だって? 精神干渉してその台詞引っ込めたろか?」

 お盆にパンケーキやベーグルを載せて教室に入ってきた調理班の男子が、インチキエイリアンの格好をした大和を見て、この発言である。大和は腹を立てたけど、わたしはちょっとホッとしている。まともな感性を持った人も一応いたのだな。

「え、まさか、あの格好で接客させるのか? メイドさんはともかく、スキンスーツは先生とかに怒られるんじゃね?」

「そうかな……」被服班の女子は少し考えた。「あっ、だったら当日はスキンスーツの上に制服かメイド服を着て、地球人に擬態した宇宙人っていう設定でいこっか!」

「それ、普通の地球人と何が違うの?」

 調理班の男子は苦笑しながら突っ込んだ。確かに、そんな設定で接客するなら、エイリアン仕様のスキンスーツなんて要らないじゃないか。杜撰なコンセプト設計のしわ寄せなのか、やる事なす事がことごとくグダグダだ。

 本当に大丈夫か、このクラス……と心配になってきたわたしに、調理班の男子はお盆を教卓に置いてから話しかけてきた。

「そうだ、日高さん。ミサンガみたいなの、落とさなかった?」

「ミサンガ? さあ……てか、え? 落としたのを見なかったか、じゃなくて?」

「ああ。さっき届いた、業務用パンケーキミックスの段ボール箱の中に、ローマ字で『MISATO』って書かれたミサンガがあったんだよ。衣装とかの段ボール箱と一緒に運び込んだから、その時に紛れたのかと思ったけど……」

 名前の書かれたミサンガ……このクラスでミサトという名前の生徒はわたしだけだし、真っ先に同じクラスであるわたしの物だと考えても無理はない。だけど、わたしはミサンガなんて、これまでの人生で一度も触れたことがなく、まして自分の名前が入ったミサンガなど見たこともない。業者から届いた段ボール箱の中にあったなら、業者の誰かの落とし物だと考えるのが妥当だろう。

 だけど、もしかしたら……事前に色々考えていたためか、その予感は強かった。

「ねえ、そのミサンガ、いま持ってる?」

「ああ……これだよ」

 問題のミサンガは、パンケーキやベーグルと一緒にお盆の上にあって、調理班の男子はミサンガを指でつまんで取り上げ、わたしに見せた。

 普通のミサンガに比べてかなり太くて、幅が二センチ弱はありそうだ。MISATOの文字が刺繍のように編み込まれている。受け取って手に持ってみると、糸の細さと比べて若干厚みがあることに気づく。何より、あちこちで糸がほつれているし、模様も文字も歪んでいる。明らかに市販の物じゃなく、あまり器用でない人の手作りだ。。

 指先でつまんで捏ねてみると、かすかだが、紙が擦れるような、クシャ、という音が聞こえた。

「このミサンガ……中に紙が入ってる」

 だんだん分かってきた。このミサンガは筒状に編まれていて、糸の端を縒り合わせて塞いでから、全体を薄く潰しているのだ。恐らく穴を塞ぐ前に、空洞の中に紙片を入れておいたのだろう。その紙片を取り出すには、縒り合わせられた箇所を切り取って、少し糸をほぐして空洞の口を開けるしかない。

 わたしは被服班の女子に尋ねた。

「ねえ、ハサミって今ある? 太い糸でも切れるようなやつ」

「えっ、もしかして、そのミサンガを切っちゃうの?」

「たぶんだけど、このミサンガの中には、わたしへのメッセージが隠されているんだと思う。端っこを切って糸をほぐさないと、中身を取り出せないから……お願い」

「うーん……分かった、ちょっと待って」

 せっかく綺麗に編まれたミサンガをほぐすことに抵抗はあるみたいだが、被服班の女子はどうにか納得して、間仕切りの向こうへハサミを取りに行った。その間に、大和がわたしの元へ駆け寄ってくる。角の生えたフードは脱いでいた。

「どうしたのさ」

「たぶんこのミサンガが、瑞穂がわたしに残した、一番大事なメッセージだと思う」

「マジで? これが?」

「調べてみないとはっきりとは分からないけどね」

「分からないって……もし違ってたら、他人のミサンガをハサミで切ることになるよ」

「まあその時は……持ち主が見つかったら平謝りかな」

 とはいえ、全く無関係の他人のミサンガという可能性はかなり低い。ミサトという名前の業者が個人的に作った、中に紙片の入ったミサンガが、たまたま段ボール箱の中に紛れこんで、届けられた先にたまたま美里という名前の生徒がいた、なんて偶然にしては出来すぎだろう。

 被服班の女子が持ってきたハサミで、ミサンガの糸を縒り合わせた箇所を切り離して、慎重に爪の先を使って糸をほぐし、穴を開いて中の紙片を取り出した。紙片は細長い長方形で、ボールペンでURLらしき文字列が書かれていた。

「何かのサイトのURLみたいだね……」

「こういう時は、あの子の出番だね!」

 誰のことかは考えずとも分かった。うちのクラスでコンピュータにひときわ強いといえば、土日に何度もわたしを助けてくれた、あの子だ。

 八千代は、教室の出入り口付近で、受付用に置いた机の前で総合班の人たちと話し込んでいた。BGMやプラネタリウムの運転に関して、段取りを相談していたみたいだ。大和に声をかけられて、八千代はその場を離れてわたしの所へ駆けつけた。

「なるほど、日高さんの名前が書かれたミサンガの中に、URLの書かれた紙ね……この凝った仕掛け、指輪とSDカードの入っていた例の封筒を髣髴とさせる。いかにも新島さんがやりそうなことね」

「それに瑞穂って手先は不器用だから、あちこち歪んでる。わたしのために心を込めて必死に作った感じがするんだ」

「うっわ、流れるように惚気てきたww」

「アクセスしても大丈夫なのかな」

「httpsから始まっていて、ドメインはcomだから、たぶん問題はないと思う。見た感じ、有名なクラウドサービスのサイトみたいだね。ちょっと待って」

 紙片に書かれたURLを確認すると、八千代はカバンからタブレット型のPCを取り出して、左手で抱えながら右手だけでブラウザを起動し、URLを打ち込んだ。その様子を、クラスの全員が作業の手を止めて見入っている。

 画面には八千代の言ったとおり、海外仕様のクラウドサービスのサイトが映し出されたが、案の定、ここから先へ進むにはサインインする必要がある。

「恐らく、新島さんのアカウントもあると思う。日高さん、新島さんが使いそうなアカウント名に、心当たりはある?」

「アカウントか……SNSでよく使ってるやつなら、こんな感じだったと思う」

 わたしは八千代からPCを受け取って、ID用の入力フォームに文字列を打ち込んだ。新島瑞穂の名前をもじって、mizho_neueinselと。

「これはまた、凝った変換をしたものだね」

「一度でいいからウィーンに行ってみたいとか、よく言ってたんだよね」

「さて、問題はパスワードだけど……心当たりある?」

「さすがにパスワードは分かんない」

「だよねぇ……新島さんほど賢い人なら、個人情報の管理はしっかりしているだろうし、たとえ恋人が相手でも教えはしないでしょうね」

「ちょっ!」

 八千代が唐突にとんでもない単語を口走ったせいで、わたしは焦ることになった。クラスメイトのほとんどが注目している中で、わたしと瑞穂の関係を暴露したら、奇異の視線を向けられかねない。大和や八千代みたいに、女性同士の恋愛に理解がある人たちばかりとは限らないのに。

 危惧したとおり、被服班の女子が気になって声をかけてきた。

「ねえ、さっきから話に出ている新島さんって、誰?」

「日高さんの親友の、新島瑞穂さん」八千代がわたしに親指を向けて言う。「夏休み明けからずっと連絡が取れないんだって」

「そうなんだ……でもいいなぁ、日高さんの友達、恋人いるんだ。そっちばっか優先されると寂しいよね。わたしも一人くらいほしいなぁ」

 被服班の女子は腕を組んで、羨ましそうに言った。……あれ、なんか勘違いしているのか? 他のクラスメイトも、瑞穂の恋人がわたしだとは思っていないようだ。

 八千代がわたしに耳打ちしてきた。

「日高さんが恋人とはひと言も言わなかったからね。大抵の人は恋人って聞けば異性を連想するし、連絡が取れない理由も勝手に勘繰ってくれる。日高さんは事情をあまり知られたくないだろうけど、この状況じゃ何をしても人目につくから、言い訳は必要だよ」

「ああ、そういうこと……ありがとね」

 本当によく気の回る子だ。何らかの犯罪が絡んでいると知られたら騒ぎになるけど、親友からのサプライズを紐解いているだけと思われれば、事態を怪しまれることもない。この状況を大ごとにさせないために、八千代はあえて瑞穂の名前と恋人の存在を口にしたのだ。巧妙に情報を隠して、勝手に誤解されるように。

「それで、パスワードが分かんないならどうするの? アカウントが開けないよ」

 大和はなぜか不機嫌そうに口を尖らせて言ってきた。確かに、パスワードが分からなければサインインはできず、瑞穂からのヒントを受け取ることもできない。そもそも、本当にこのサイトに瑞穂のアカウントがあるのか、それも判然としていないが。

「新島さんのことだから、必ずパスワードも分かるようになっているはず。それも、日高さんなら確実に、一発でこれだと分かるように」

「わたしなら確実に分かることか……」

 なんだろう。サインインした先に、この事件の重要な手掛かりがあるなら、瑞穂を追っている犯人には決して見つからず、わたしだけが見つけられる場所に、パスワードのヒントがあることになる。果たしてどこなのか。わたしの手元にあるもので、瑞穂が何かを残せるものなんて、すでに粗方調べているけれど、パスワードのような文字列なんて見た覚えがない。あと何かあるとすれば……。

「あっ……そうか!」

 一つ、高い可能性のある居場所に見当がついたわたしは、左手の人差し指に嵌めていた指輪を抜き取った。インデックスリングなら変に勘繰られないと思って、例の指輪は学校でも指に嵌めたままにしていた。

 浮かれてちゃんと見ていなかったけど、指輪の内側には文字が刻まれていた。

『D34RM154+0』

「あった……たぶん、これがパスワードだ」

「ふむ……」

 八千代は指輪の内側を一瞥して、PCに打ち込んで、最後にエンターキーを押した。果たして、無事にサインインが完了して、瑞穂のアカウントのページが開かれた。

「すごっ!」大和は興奮気味に言った。「やっちーと美里っちの推理、大当たりだ!」

「おかげで一つ、はっきりと分かったことがあるよ。新島さんは民宿に預けた封筒に、指輪とSDカードを入れていたけど、本命の手掛かりは指輪の方だったんだよ」

「だったら、あのSDカードは……」

「追っ手の目を逸らすためのフェイク」八千代は小声で言った。「あからさまに手掛かりがありそうな記憶媒体を一緒に入れておくことで、都合の悪いデータを手に入れようとしていた連中の目をSDカードに向けさせ、本当の手掛かりである指輪に目をつけられないようにしたのよ」

「つまり、囮ってこと?」

「たぶん、日高さんが新島さんを探すために立ち寄りそうな場所に片っ端から、パスワードを書いた思い出の品と囮のSDカードを、一緒にして郵送していたのね。追っ手はSDカードを無理やり奪うだろうけど、調べれば全くの無関係だとすぐに分かる。無関係だと分かれば、もう日高さんに目をつけることはなくなる。一方で日高さんは、パスワードの書かれた指輪を必ず肌身離さず持っているから、奪われなくて済むっていう寸法よ」

「うひゃあ……瑞穂ちゃん、そこまで考えていたんだ」

 確かに瑞穂の深慮遠謀には舌を巻く。恋人であるわたしの行動を先の先まで予測して、確実にわたしに手掛かりが渡ると同時に、犯人がわたしに二度と目をつけないように、偽の手掛かりをわざと掴ませた。犯人はなりふり構わずSDカードを強奪したけど、その行動が結果的に、瑞穂を追う存在をわたしに気づかせることになった。恐らくそれも、瑞穂の計算通りだったのだろう。

 これで、犯人が目をつけていた民宿に、SDカードと指輪を預けた理由も分かった。残る謎は一つ、瑞穂がこのクラウドサービスを使って、わたしに何を知らせようとしているのか、だ。

 瑞穂のアカウントのページには、PDFファイルが一個だけ保存されていた。タイトルは『無題』となっているが、これが手掛かりと見ていいのだろうか。

「このPDFが、日高さんに向けたメッセージなのは確かだよ。パスワードがまさに、そうだと示しているからね」

「どういうこと?」

「このパスワードは、ハッカーとかが検索に引っかかるのを避けるために、アルファベットを形の似た数字や記号に置き換える、『リート』と呼ばれる手法が使われている。数字がどんなアルファベットを書き換えたものかは、色んな流派があるけれど、今回使われたのは、割とオーソドックスな変換ね。3をEに、4をAに、1をIに、5をSに、そして+をTに直せば、新島さんからのメッセージが浮かび上がる」

 八千代に言われたとおりに、頭の中でパスワードの文字列を変換してみた。

 D34RM154+0 → DEARMISATO → Dear MISATO

 ……急速に恥ずかしくなってきた。なんとなく分かっていたけど、瑞穂は相当わたしに惚れ込んでいるらしい。わたしの自惚れとかじゃなく、割と本気で。しかも暗号っぽくしているとはいえ、こんな言葉を指輪の内側に刻んでいたら、プロポーズの類いだと思われても仕方がないじゃないか。

 とにかく、パスワードからしてわたしを意識している以上、保存されている唯一のファイルに、わたしに向けた何かが記録されているのはほぼ間違いない。八千代から再びPCを渡されたわたしは、問題のPDFファイルを開いた。

 ファイルの中身は長い文章になっていた。わたしはそれを、ひたすら無言で、一言一句見逃さないように慎重に読んでいく。瑞穂がわたしに向けたメッセージを、こんな遠回しな手段に頼らないと伝えられない心の内を、そして自分の身に起きた出来事のすべてを、脳裏に焼き付けるように読み込んでいく。

 ……そして、わたしはすべてを理解した。

「そういうことか……」

「美里っち、顔がものすごく険しいけど……何か分かったの?」

 心配そうにわたしの顔を覗き込む大和に、わたしは小声で答えた。この二人以外には聞かれないように。

「うん、分かった……瑞穂は、わたしと恋人になったから、姿を消すことにしたんだ」

「え? どういうこと?」

「わたし達の推測は正しかったんだよ。見てごらん」

 大和にもPCを手渡し、PDFファイルの中身を見せる。八千代も大和の横から、つま先立ちになりながら画面を覗き込んだ。二人の表情も、わたしと同様に険しくなっていく。

「嘘でしょ、こんな事って……」

「どうやらこの一件、わたし達の想像以上に闇が深いみたいだね。必要以上に踏み込んだら、きっとただでは済まない。それは新島さんも望んではいないでしょうね」

「分かってる。でも、だからと言って、瑞穂と再会するのを、諦めたくはない。厳しいけれど、また方法を練り直さないと……」

「まあ確かに、真相究明より再会を切望している日高さんからすれば、このメッセージは期待外れかもしれないわね」

 別に期待していたわけじゃない。瑞穂が置かれている状況を推測すれば、瑞穂がどう願っていようと、自らの居場所に繋がる手掛かりを残す必然はない。だから、このファイルに、瑞穂を探す手掛かりが書かれていなくても、がっかりすることはなかった。無力感に苛まれそうにはなるけど。

 真相は見えた。でも、瑞穂がどこにいるのかは、依然として不明のまま。民宿でみんなと推測したとおり、瑞穂はわたしも知らないような場所にいる可能性が高く、見つけ出すのは困難を極める。そして、瑞穂を救い出すために、わたしにできることは……ない。

 歯痒いが、この一段と厳しくなった状況に、当初の決意は揺らぎつつある。本当にこのままで、瑞穂と再会できるのか、もう無理なのではないかという諦念が、じわじわと膨らんでいる気がした。

 どうしたらいいのか……重苦しい気分を抱えていると、例のURLの書かれた紙片を指でつまんで見ている八千代が、わたしに訊いてきた。

「そういえばこの紙、ミサンガの中から出てきたって言ってたけど、そのミサンガはどこにあったの?」

「ああ、それは……業者から届けられた段ボールの中に入っていたのを、調理班の子が持ってきたんだよ。わたしの名前が刺繍されていたから、一応、わたしに確認しに来て、それで……」

「ん?」八千代は首をかしげた。「ねえ、新島さんは日高さんが、一年生のどのクラスにいるのか知ってるの?」

「え? うーん……たぶん、知らないと思うけど。学校での出来事は何度か瑞穂に話したことあるけど、一年何組の出来事か、なんて言わなくても充分だし」

「春にやった体育祭も、クラスとか関係なくチーム分けされたしねぇ。クラス単位でやるイベントって、明日の文化祭くらいだよ」

 大和もそう言って頷いた。この学校に入学して半年も経っていないけど、確かにクラス単位でやるイベントが少ない気がする。

 それよりも、瑞穂がわたしのクラスが何組か知らないことが、何か問題なのだろうか。八千代は真剣な面持ちでわたしと大和に言った。

「だとしたら、おかしいんじゃない? うちのクラスが喫茶店をやると決めたのは、夏休みが明けてから……新島さんはその前に姿を消している。それなのにどうして、うちのクラスに搬入される段ボール箱を、特定することができたんだろう?」

「「ああっ……!」」

 確かに変だ。文化祭に関係する機材や資材を、外部の業者に搬入してもらっているのは、うちのクラス以外にも多くいる。わたしのクラスがどこなのか知らず、文化祭の出し物も知らない瑞穂が、この学校に運び込まれる荷物の中から、ピンポイントでこのクラスに届けられる荷物を特定して、ミサンガを仕込むことなんてできるだろうか。

 もちろんそれは、事前に業者を特定して、ミサンガを入れるように頼む場合も同じだ。わたしのクラスも出し物も知らなければ、依頼された業者を特定することもできない。でも瑞穂は、的確に業者も荷物も特定して、わたしにミサンガが渡るようにした。どうしてそんな事ができたのだろうか。

 わたしの知らないこの学校の生徒と、瑞穂が影で繋がっているのか。いや、恋人のわたしでさえ表向きは関係を断とうとしているのに、別の誰かと繋がりを保っていて、逐一わたしの近況を知らせていたというのは、少し無理がある。それよりは、クラスか出し物、どちらかの情報を、偶然手に入れたと考えた方がいい。一体どこから? 瑞穂がわたしの身近な誰かと、今も繋がっているとしたら……学校以外でその繋がりがあって、情報を手に入れることがあるとしたら……。

 思いつくのは、一人しかいない。そこまで考えが及んだら、踏みとどまっているわけにはいかなかった。わたしは被服班の女子に声をかける。

「ごめん、急用ができたから、ちょっと席を外すね。メイド服も着替えるから」

「えっ? なに、どうしたの、急に!」

「あっ、わたしも急用ができたから着替えるわー」

「ちょっと、大和ちゃんまで!」

「すみません、わたしも急用ができたから席を外します。演出の段取りについては後程」

「ええっ、まだ調整したいところあるのに……夕方までに帰ってくるの?」

 乗りかかった舟というやつなのか、わたしに続いて大和と八千代までもが、わたしに同行するべく外に出る準備を進めている。まあ、わたしの着ているメイド服は脱着が比較的ラクだし、八千代に至っては着替える必要もないが、大和の場合は……。

「あっ、ちょっと何これ! スキンスーツ脱ぎにくっ! めっちゃ張り付く!」

「お先に行ってるからね~」

「ちょっ、待ってよ、やっちー! わざわざこっちに立ち寄って声かけるとか、いけずか! ああ、もう! リボンつけてる余裕ない!」

 間仕切りの向こうで悪戦苦闘したのち、思い切り崩れた制服姿で飛び出した大和は、すでに姿のないわたしと八千代を追って、駆け足で教室を後にした。とりあえず、あのインチキエイリアンの格好で外を出歩かないくらいの常識はあるみたいだ。

 校舎を出ると、校門までの道にも屋台がずらっと並んでいて、せわしなく準備を進めている生徒たちが何十人と行き来している。わたしと八千代と、遅れてやって来た大和は、複雑に入り組んだ人ごみを縫うように進みながら、校門へと急いだ。そのせいというか、おかげというか、遅れていた大和もなんとかわたし達に追いついた。

 文化祭用に飾られた校門を抜けて、わたし達は敷地の外へ出た。学校から目的の場所へ行くには、バスを使う必要があるが、少し離れた所にあるバス停に、もうすぐバスが来ることは記憶していた。まあ、急いでいる理由はそれだけじゃないけれど。

「ねえ、美里っち! どこ行くの!」

「ついて来なくてもいいけど、言わなくたってついて来るんでしょ。行けば分かる」

「言い方が冷たいんだって……って、うおっ!?」

 大和が驚いて、女子高生らしからぬ野太い声を上げた。バス停が目と鼻の先というところで、わたし達は立ち止まってしまった。

 往く手を塞ぐように、わたし達の前に怪しげなジャケット姿の男が二人現れたのだ。どこからついて来ていたのか、わたし達の背後にも、同じような格好の男がもう二人、退路を塞ぐように立っている。

 ああ、最悪だ……わたしは唇を噛んだ。

 片足を突っ込んだら最後、闇はわたし達を離してはくれないらしい。


美里の恋人探しは激しく緩急をつけつつ、しかし着実にゴールへ近づいています。ただ、前回の第8章に続き、今回も恐らく文化祭本番のシーンは書かないことになりそうです。でも、泣いても笑っても次が最後、ハッピーエンドは約束しませんが、必ず希望のある終わり方にします。

さて、このエピソードを読んだ皆さんなら、この第9章の章題やサブタイトルにある、カタカナで表記された四字熟語の隠された共通点に、そろそろ気づいてくれたでしょうか。気づいてくれたと信じて、予告します。次回、最終話のサブタイトルは、ローマ字でSから始まる四字熟語です。たくさんあります。どんなタイトルになるのか予想しながら、次回更新を楽しみにお待ちください。

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