1-2 外の世界に触れも見で
現役の女子高生であるわたし、久野舞子は、今日も今日とて順調に引きこもりをこじらせています。嘆かわしいと思ったか読者諸君よ。わたしもそう思っている。
いつもは時間を見つけては(いやそもそも見つけるまでもなく時間は余るほどあるが)、小型ゲーム機でアクションゲームに興じている。だけど、つい先日に『ペルソニータ戦記』をあらかたクリアしてしまったので、もう新たに手を付けたいゲームが無くなってしまったのだ。面白ければ『ペル(ry』をもう一回プレイすることも考えるけど、期待したほど面白くはなかった……うん、あの出来だと、それは少し失礼かもしれない。とにかくそんな類いのゲームだったのだ。
つーわけで、わたしは暇な時間を大量にもてあまし、ベッドの上で大の字になって寝転がっている。このまま二、三時間ほど眠れたらいいのだが、こんな時に限って眠くならない。何かつまらない本でもあれば眠気を誘えるだろうが、数学の教科書以外にそんな都合のいいものはこの部屋にない。そしてその数学の教科書も、どこに置いたかもう覚えていない。
「ぐあーっ、暇だぁー」
わたしは両腕を可能な限り伸ばして唸った。可能な限り伸ばしても高が知れた長さだが。
くっそぉ、この間は空腹で死にそうになったけど、今度は退屈すぎて死にそうだ。もちろん命にかかわるはずはないのだが、これほど何もすることがないと、呼吸するだけでもつらくなる。
「あ、空腹といえば、あの人はまた来るのかな……」
天をぼうっと仰ぎながら、わたしは呟いた。
あの人、というのは、わたしがかつていたクラスの委員長、藤川紬のことだ。無表情だけど美人で、どんな仕事もそつなくこなす、クラスメイトから全幅の信頼を寄せられるすごい人だが、つい先日、この部屋で、彼女はもっとすごいことをやってのけたのだ。
クラス委員長をやめて、わたし専用の委員長になったのだ。
聞いてねぇよ、勝手に委員長ポストを作るなよ、というか個人相手の委員長とか意味分かんねぇよ。言いたいことは山ほどあったけど、もうどこから突っ込んでいいのか分からなくて、脳の整理をしている間に本人は帰ってしまった。あの能面女、言いたいことばっか言ってさっさと帰りやがって。
……サンドイッチはおいしかったけど。それがまた悔しい。
ぐぅ~~~っ
「……いかん、思い出したらお腹がへった」
サンドイッチで何とかパワー回復がかなったので、あの後すぐにコンビニに行って数日分の食料を買い込んだのだが、いくら小食でも数日たてば底をつくのは道理というもので……また冷蔵庫の中は変なものだけが残った。なんだっけ、かつお節とマヨネーズだったかな。
「ああもう……ゲームも食料もない。心もお腹もひだるいよぉ」
わっ、自分で言っておいてあれだけど、相当ヤバイな、今のわたし。『ひだるい』なんて漢字も分からない日本語が素で出てくるなんて普通じゃないぞ。そこは別に『ひもじい』で良かろうがよ。ああなんだか語尾までおかしくなってきやがった。
今度は頭の混乱をこじらせそうになったところで、救いの神が音を連れてやってきた。
ピンポーン
ガバッと起き上がるわたし。もしかして、もしかするのか。予想している人に会うのはどことなく気が引けるところもあるけど、こうなっては誰であろうと構うまい。飯をくれ、電子遊戯をくれ。
さっきまでぐったりしていたのがウソのように、わたしは機敏な足取りで玄関に向かい、スコープで来客の顔を確認することもせず、ドアを開けた。やっぱり予想どおりでした。
「あ、よかった。まだ生きていたのか」
この間も同じようなセリフを聞いたような……。藤川さんはビニール袋を掲げる。
「ほら、お腹の足しになるものを持ってきてやったぞ。ついでといってはなんだが、評判が高いというゲームのソフトをひとつ買ってきた」
ご、後光が、後光が見えるぞ。思わずひざまずいて祈りをささげるわたし。
「ああ、あなたは天使様ですか」
「だから、委員長様だよ」
頭に“わたし専用の”がつくけどね。
藤川さんが持ってきたのは手製のおにぎりだった。ほぐし鮭、おかか、梅干し、高菜、それぞれ三個。ご丁寧に、種類ごとに小さなプレートで仕切っている。
「あとビタミン補給のためにミカンとリンゴを持ってきた。ミカンはともかく、リンゴはたぶん自分で皮を剥けないだろうから、わたしが剥くよ。果物ナイフとかあるか……って、聞けよボンクラ」
何かありがたいことを言っているようだけど、わたしは藤川さんが持ってきたゲームソフトを、さっそく端末にセットしてプレイを始めていた。
うおおおおおおお。評判どおりではないか。めくるめくスリリングな展開が指を止めてくれないぜ。
いや、待てよ。ちょっと止めるか。
「おい誰がボンクラだこの野郎」
「飢え死にしかけていたところに食料持ってきた恩人に向かって、この野郎だとこの野郎」
「じゃかしーわ」
わたしは、飢え死にしかけていたところに食料を持ってきた恩人に向かって指を差した。
「飢え死にしかけていた哀れな女を捕まえてボンクラはないだろ、ボンクラは」
「ふーん」
藤川さんは、ただでさえいつも細めている目をさらに細めて、顎をあげる。なんだ、その見下しているような表情は。
すると何を思ったか、藤川さんはおにぎりの詰まった弁当箱に蓋をして、そそくさとカバンに仕舞った。
「うえっ!?」
「どうやら久野さんはゲームをしていれば食べなくても平気みたいね。だからおにぎりはわたしが食べるために持って帰るわ。安心して。食事もせずにゲームに興じて飢え死にしても、わたしが喪主になって葬式を仕切って見せるから」
「ごめんなさい! 食べます! せっかくのおにぎりを無駄には致しません!」
土下座して謝ったら、割とあっさり弁当箱を戻してくれた。
土下座までして引き留めたのだから、すぐに食べないとさすがに藤川さんに悪い。まだ温かさと柔らかさが残っているおにぎり(たぶんほぐし鮭)を手に取って、ガブリと噛みつく。
「…………冗談抜きで美味いです!」
「そう? よかった」
よかったという割に、全く表情が変わらない藤川さん。この人が本気で喜ぶ顔を見せるとしたら、果たしてどんな時なのだろう。そして、そんな顔をさせられるのは誰なのだろう。
うーん、気になるな。わたしが他人のことを気にするのは、珍しいと思うけど。
「ぜんぶ食べていいよ」
「いやいや、十二個もあったらさすがに食べきれないよぉ」
「すでに全種類二個ずつ食べている人が言っても……」
だよなぁ、説得力ないよなぁ。ゲームに夢中で気づかなかったけど、わたしはよっぽど空腹がひどかったらしい。空腹に慣れて何も感じないというのは怖いものだ。
あ、ゲームといえば。
「そういえば委員長、なんでゲームなんか買ってきたの?」
「なんか? あれだけ楽しそうにプレイしていたのに不満があるの?」
言葉尻を捉えるなよ、意地が悪いな。
「いやゲームは大満足ですけど、委員長サイドとしてはゲームをすることに反対の立場じゃないかと思ったわけですよ。この間もそんな感じだったし」
すると藤川さんは、分かってないな、と言わんばかりに肩をすくめた。
「あの時は、引きこもってゲームにばかりのめり込んで、他のことをことごとく疎かにしていたから、心底呆れていただけ」
「“心底”と“だけ”を並べるなよ……」
「わたしは別に、ゲームをやること自体には反対しないわよ。依存症になって生活が破綻しかけることと、高校生としての本分である勉学に支障をきたすことさえなければ、やってもいいと思ってる。わたしもスマホのゲームは、ほどほどだけどやってるし」
「そうなんだ。ちょっと意外かも……真面目な人ほどゲームには縁遠いと思っていたから」
もっとも、今の藤川さんを真面目な人と評していいのか、甚だ怪しいけれど。
「“ゲーム脳”なんて言葉が一時期もてはやされていたけど、そんなのはもう古い常識よ。久野さんがよくやっているアクションゲームのように、マルチタスクでプレイするゲームは、指先を瞬時にかつ的確に動かすから、むしろ脳にいい刺激を与えると言われている。その理屈でいうと、いわゆるリズムゲームも脳にいいことになる」
「へえ、そうなんだ。知らなかった」
難しい言葉もあったけど、ゲームに肯定的な言葉を聞けるのは、ヘビーゲーマーとして嬉しい。
「それなら、じゃんじゃんゲームして脳を鍛えた方がいいんだね!?」
「あのね……どんな脳トレでも、おやつやお昼寝みたいに、嗜む程度がいちばん大事なのよ。あなたみたいに、起きている時間の大半をゲームに費やすのは、明らかに度を越してる。それにあなた、ゲームをするときの状態が悪い」
「じ、状態? あ、暗いところでやってるから目に悪いとか?」
「目に悪いのは確かだけど、暗いかどうかは関係ない。問題は、ゲーム機に目を近づけすぎなのよ。本を読むときもそうだけど、必要以上に対象物に目を近づけすぎると、ピント調節機能が弱まって視力の低下につながりやすいの。少なくとも三十センチくらいは離しなさい」
なんだか母親みたいな口調になってきたな……うん、そうだよな。こういうもんだよな。
「分かった、気をつけるよ」
「まあ、暗くした部屋でずっと引きこもっていたら、自分の視力が下がっていることにも気づきにくくなるからね……というか、前も思ったけど、この部屋かなり埃っぽいよ」
「そうかな……これも慣れちゃってるのかな」
「ダメよ。埃の中にはアレルギー物質が多いんだから。今は平気でも、こういう環境にさらされているうちにアレルギーになることもあるんだから」
そういって立ち上がると、藤川さんはまっすぐ窓に向かった。もちろん今、窓には分厚いカーテンがかかっている。これから藤川さんが何をするつもりなのか、察しがつかないほどバカじゃない。
「あっ、ちょっと……!」
「とりあえず窓を開けるから」
そして藤川さんは、カーテンをシャッと開けた。今は真っ昼間なのだろう。いちばん日の光が強い時間帯にカーテンを開けたら、わたしは、わたしはぁぁ―――っ!!
「ぎゃああああ!! まぶしいいいいい!! 溶けるううううう!!」
両目を抑えて、のたうちまわっているわたし。あうー、委員長が呆れた目で見ていることが、目を開けられなくても分かるよぉ。
「吸血鬼じゃないんだから……今までどんだけ太陽を浴びてなかったのよ」
見かねたのか、委員長はカーテンを閉めた。その前に窓を開けた音が聞こえたけど。
「うー……死ぬかと思った」
「拷問のような真似はしたくないけど、あなたはもう少し日の光に慣れた方がいいわ。でないと将来的に色々まずいから」
うずくまるわたしの前に、しゃがみ込んでまっすぐ見つめる藤川さん。
「もういいよ……今後も引きこもるから。宅配や出前でしのいでやるから」
「んなものばかりに頼っていたら遠からず破産するわよ。現実逃避も大概にしなさい」
「うぅ……」
「それにわたしとしては、久野さんには早く外の世界に慣れてほしいのよ。あなた専用の委員長として世話を焼くのは楽しいけど、正直言って、部屋の中で馬鹿話しているだけなのは物足りないから」
バッサリ言ってくれたな。というか来るたびに歯に衣着せぬ言葉をぶつけるのが楽しいのか、このドS委員長め。
「そういうわけだから、久野さんの脱・引きこもりプロジェクトを、わたしが全力でサポートするから」
「ちょっと待って! 聞いてないよそんなプロジェクト! ご本人の意思を無視して勝手に進めんな!」
「悪いけどあなたが意思を転換するのを待っていたら、時間がいくらあっても足りないわ。わたしはあなたの委員長であって、召使いじゃないの。これ以上引きこもりをこじらせるのは許さない」
そういって藤川さんは、うずくまっていたわたしの手を取って、強制的に立ち上がらせた。というか反射的な抵抗も重力の影響も感じさせないくらい、スムーズに立ち上がらせたけど、彼女の華奢な腕のどこにそんな力があるんだ?
「ほら来て。きょうから軽くリハビリ開始」
「やーめーてーくーれー。また日光浴びたら溶けてしまうぅぅ~」
「トロリンでも飲まない限り人間は溶けません」
「委員長の口からド○えもんのひみつ道具の名前が出るなんて思ってなっ……ちょ、やっ」
わたしの手を引いて玄関に向かうと、藤川さんはためらいなくドアノブを回した。
うわあああああああ!
光が、日光が、東照宮が江戸村が猿軍団がぁ!
関係ねぇ! 混乱しすぎだ、わたしぃ!
ドアが開かれ、外の光が、弱ったわたしの体に降り注いで―――――!
「…………んん?」
あれ、溶けてない。いや冷静に考えりゃ当たり前だけど、さっきの強烈な拒否反応がない。
それに何だろう……日の光とはまた違う、心地よい温もりに包まれている。気がする。
ダイレクトに光を見るのが嫌で閉じていた両目を、恐るおそる開いていく。
「……え、あれ?」
薄暗い。でも部屋のなかじゃない。そして今は夜などでは当然ない。
それに……混乱していて気づかなかったけど、わたしの頭の後ろと背中には、誰かの手が添えられている。
誰かって? そんなの、ひとりしかいないじゃないか。
「あのさ……このアパートの窓は南向きなんだから、玄関は北向きでしょ。窓と違って日光が差し込むわけがないじゃない」
耳元で、藤川さんの声がささやく。
ああ、そうか。わたしはいま、藤川さんに抱擁されているんだ。
「言ったでしょ。これはリハビリだから、最初から無茶なんてしない。少しずつ、外の世界に触れて、慣れていけばいいのよ」
触れているのは、あなたの制服なんですが……。
なんて言いたいのに、口が胸元に押しつけられて、声が出しにくい。
ああいや、でも、声が出せなくて助かった、かもしれない。
なんか、変なことを口走りそうだ。
「慣れるまで付き合うよ。……委員長だからね」
やめてほしいなぁ、そういうのは。
わたし、いま同級生に、しかも女の子に、自分のアパートの玄関でギュっとされている最中だよ。
いくら同性だからってね、変なことになりかねない状況なんだよ。
そんなときに、委員長だなんて。
「…………もう、絶対に呼べない」
久しぶりに肌に受けた外の世界は、不器用なくらい温かく感じた。