其々(それぞれ)の夜と朝
バタンッと、玄関が荒々しい音で閉められるのを聞いて、うつらうつらしていた誓は目を開けた。
「んぁ〜、兄貴かな」
目を擦り擦り顔を上げてダイニングと廊下をつなぐドアを見た。影が見え、ダイニングに入ってきたのは、誓の予想通り兄の謡だった。
「兄貴、お帰り〜」
「誓、」
謡が何かにすがるような目で誓を見た。兄にしては珍しい目だ、と誓にしては鋭く気付く。
「ただいま、」
弱々しく笑う謡の背後から、父の顔が覗く。機嫌が悪いのは明らかだが、誓はいつもの緩い笑みで父を迎えた。
「お帰り、父さん」
「あぁ」
誓の顔をまともに見ないまま、春樹はキッチンへ行く。帰宅後お決まりの一杯のためだろう。いつもの光景だ。
「?」
だから春樹が水道水をコップに入れて此方に戻ってきたとき、誓は少し違和を感じ取った。
「謡」
「……!」
呼ばれて顔を上げた謡の顔に向かって、春樹はコップの水をかけた。謡が愕然と春樹を見上げる。春樹の目は底冷えしそうなほど冷たく、謡はガタガタと恐怖に体を震わせた。
「と、父さん……」
「少しは頭を冷やせ……軟禁されたいなら別だがな」
親が子に向かって言うセリフではない。だがこの場にそう感じる存在はない。謡は自分が悪いのだから当然だと思い、春樹は息子が悪いのだから当然だと思い、誓はこれが我が家の日常茶飯事だから普通だと思っているからだ。春樹はそれ以上何も言わず、無言でダイニングを出た。誓は俺も寝よう、と呟く。
「兄貴、おやすみ〜」
「あ、うん。おやすみ…」
謡は誓にそう応え、春樹が落としたコップを拾った。拾うために俯いた黒髪の先から、水滴が一滴、落ちた。頬を伝う透明な液体は、無視した。
意気消沈した匂は、俯きがちに帰宅した。恐らく部屋で休んでいる母親と愁しか家にはいないため、屋内はしんと静まり返っている。
「父さん、」
仏間に行き、父親の写真の前に座る。
「私じゃ、謡さんを助けられない…?」
自分なんかが他人を助けようと思うことが烏滸がましいのだろうか。でも、謡が無理をしているのは明らかだ。さっきの、透明な笑みが匂を捕えて放さない。謡が明日になったら急にいなくなっているような気がして、怖い。
「だ、ダメダメっ」
匂は慌てて首を何度も左右に振った。そんな不吉なこと、考えたらダメだ。
(もう今日はダメだ……)
匂は仏間を出ると、自室のベッドにもぐり込んだ。
「あんな風に突き放して良かったん?」
涼子が海を眺めていると、急に現れた人物に質問をされた。
「…見てたの?」
「見てはいないよ。聞いてた」
涼子の分かる範囲で言えば、半径一キロにはいなかったように思うのだが。
「相変わらずの地獄耳ね」
「ありがとね」
「………」
話す気力は一気に失せた。
「まだ質問の答、貰ってないよ?」
「答える義理はないでしょう」
「あの子すごいショック受けてたなぁ〜。特にあんたにすげなくされたとき」
十分見ているじゃないか、と涼子は思う。話すだけ無駄だと判断し、涼子は黙る。海に神経を集中させようとする。だが、
「私が言ってたの、さっきの子だよ」
という言葉には思わず反応してしまった。
「何が?」
「だからぁ、“彼”と似てる子に会ったって言ったでしょ?それが、さっきの子」
「………」
自分が謡に感じていた既視感を、こいつも感じていたのか、と思う。
『君は、生きて』
臨終間際の、“彼”の言葉。目は抉りとられ、真っ赤な眼窩が涼子を見上げている。
『もう君を見ることも守ることも出来ないけど、必ず、また会えるから…その時は、また』
それが、最期の言葉。
「またフラッシュバックが来てるな」
「………謡が本当に“彼”だとしても、まだ目覚めていないもの。ならば、謡は謡でしかなく、“彼”ではないわ」
「だから突き放した?」
「そう思いたいなら思えば良い」
涼子はニベもない。相手は苦笑して、肩を竦めた。
翌朝。泣き疲れて眠ってしまったのだろう、謡はダイニングで目覚めた。
「朝、か」
今日は学校に行かなければ。春樹は今のところ学校を休むことには言及しては来ない。
だが謡が学校を休みがちなのには気付いているだろうし、神楽から逐一報告が届いているはずだ。それでも春樹が何も言わないのは、彼の中では“学校”というものは大したステータスを有していないからだろう。どちらかと言えば、自分が手配した家庭教師を信頼していると言える。またはその他の習い事など。
(そう言えば今日は村主先生がお見えになるんだったっけ………)
春樹が手配した家庭教師、村主竜司。東大の三年生である彼は、穏やかな気性の持ち主で忍耐力もあるため家庭教師に向いているとは思う。思うが…、
(あの時は、怖かった……)
父の怒りを買い、部屋に軟禁された翌週の家庭教師の日に来た竜司に、つい春樹のことを話してしまった。父さんが怖い、と。すると竜司は柳眉を吊り上げ、大きな声で捲し立てたのである。
『あの人は君を思ってなさっているのに、何てことを言うんだ。そんな戯れ言をぬかす暇があるなら早くこの問題を解け!』
そして机の上の謡の手のひらをぴしゃりと叩いた。意外と力がこもっており、謡は驚きと痛みに襲われた。あれ以来、竜司には勉強のこと以外話すことはなくなった。勿論学校を休みがちだとは言えない。
(僕は気が小さいのだろう………)
自嘲気味に考えながら、謡はクローゼットを開けた。そして二日間袖を通していない制服を見て、憂鬱そうなため息をついた。
「ん〜、起きなきゃ、」
謡が起床したのと同じ頃、匂もベッドの中で目覚めていた。アラームが鳴る前の時計に手を伸ばし、スイッチをオフにする。いつもはしゃっきり目覚める匂だが、昨日の出来事のせいかなかなか体に元気が出ない。それでも匂は重い体を引き摺るようにしてベッドから這い出した。
ー愁は起きたかな。
愁も昨日色々あったし、疲れていないたろうか。愁は精神が体調に影響しやすいから、熱でも出していなければ良いのだが。そんなことを考えながら愁の部屋のドアをノックする。返事はない。
「愁、入るよ〜?」
まだ寝てるかな、と思いながら部屋に入り匂は目を見開いた。
「愁!?」
「はぁ、はぁ…ね、えさん…?」
愁はまだベッドの中にいたが、顔が嘘のように真っ赤だ。掛け布団が床に落ちている。苦しげに息をしながら、愁が匂を見る。
「どうしたの?」
「体がすごく、熱い…んだ。頭がガンガンする」
そう言って、顔を顰める。匂は慌てて愁の額に手をやって、ぎょっと顔を強張らせた。
「す、凄い熱じゃない!何で携帯鳴らさないの!」
「だ、だって……」
「ちょっと待ってて、母さん起こして病院に、」
匂は愁の部屋を飛び出して母の部屋に飛び込む。だが母の姿はなく、パジャマが綺麗に畳まれてベッドの上に置いてあった。下か、と匂は急いで階下に向かう。
「母さん!」
美佳子は朝食の準備をしていた。だがいつもの部屋着姿ではなく、きちんとしたスーツ姿で。
「おはよう、匂。ご飯出来たから、勝手に食べてね」
美佳子は娘の顔を見ようともしない。ぼそぼそと、口の中で話す。
「…何処かでかけるの?」
何だか、胸の中がざわつく。神経がささくれ立つ。
「少しね」
エプロンを外す母親に、娘は慌てて用件を思い出す。
「母さん、愁が凄い熱なの。頭も痛いって、」
美佳子の表情が一瞬動いたが、だからどうするということもなかった。
「病院に行くくらいなら、救急車を呼んで頂戴」
ーは?
匂は美佳子が何を言ったのか分からなかった。ポカン、と母親を見る。
「く、車で、」
「言ったでしょう。母さん出かけるって」
「ちょっと待ってよ!子供が体調悪くて苦しんでるのに、それ放って何処に行くって言うのよ……!」
「あとはよろしくね」
「母さん!!」
匂は出て行こうとする美佳子の腕を掴もうとした。だが、
「姉さん…もう、良い…よ」
「愁!」
愁はふらつきながらダイニングに入って来る。
「お母さん、行ってらっしゃい、」
弱々しく微笑む息子に、美佳子は何も応えない。
「母さん!」
娘にも最早何も応えず、美佳子は家を出て行った。
「な、によ、あれ…!」
「姉さん、」
「あんたもあんたよ!何がお母さん、行ってらっしゃい、よ!!バカじゃないの!」
愁は苦しげに息をしながらも、微笑む。今にも泣き出しそうな、相手の胸を締め付けるような笑み。
「もう…良いんだ。僕が、悪いん、だか、ら」
次の瞬間、糸の切れた操り人形のように愁の体がぐらりと匂に向かって倒れ込んで来た。
「しゅ、愁っ!!」
ぐったりとした愁の体は、燃えるように熱い。
「っ、」
匂は愁をソファーに横たえさせ、泣くのを堪えながら119番に電話を掛けた。
また今日も一日が始まる。ただじっとこのベンチに座り、“彼”を待つ一日が。でも、本当に自分が待っているのは…“彼”なのだろうか。それとも、何処か影を背負ったような、あの不思議な少年のことだろうか。楡乃木涼子は次第にそれが分からなくなっていた。
愁の母さん酷いなぁ、と書いてる私が思いました(……)。謡は父さんに酷い接し方されてるし、この作品には良い大人がいない気が………。