無力感
暗い気持ちで自宅前にたどり着いた藍田渉だったが、門前にいる人物を見て、呼吸が止まるかと思った。鋭過ぎる瞳、均整のとれた体躯。短い髪はワックスで固めてたてている。そんな少年の瞳が、渉を捉えた。
「よう、渉」
「ど、どうしたの……こんな時間に」
何も疚しいことはしていないのに、偶然とは言え謡と会い会話までした身としては、居心地が悪い。そんな渉に、幼友達の藪内奏がゆっくりと近づいてくる。
「おばさんに訊いたらチコの散歩に行ったって教えてくれたから、待たしてもらってた」
「な、なら中で、」
柴犬ー名前はチコーが渉の腕の中で嬉しそうに尻尾を振る。だが藪内の目は渉から少しもぶれない。
「………なぁ、渉」
「な、何?」
「本当なんだな?」
「…え?」
「芝貫と話してたっていうの」
「っ、」
渉は思わず藪内から視線を逸らした。それが渉の後ろめたさを示し、藪内の懸念が真実なのだと彼に知らしめた。藪内はふうん、と頷いて、
「やっぱり本当だったんだな。俺の前でも芝貫の前でも良い顔してたってわけか」
「ち、違っ、」
「何が違うんだよ。俺がいないところじゃあ芝貫に尻尾を振って、芝貫がいないところじゃあ俺に尻尾を振ってたんだろ」
「そ、そんな言い方、しなくても……」
ずっと仲のいいと思っていた幼友達から発された暴言に、渉は悲しくなる。だが同時にこれは自分が招いた結果なのだと諦観してもいる。相反する感情に、渉は不安になる。
「………お前の考えは分かった」
小さく呟き、藪内は渉に背を向ける。
「あ、」
「話はそれだけだ。邪魔したな」
「奏君!」
思わず下の名前で呼んでしまったが、藪内は何の反応も返してくれなかった。暗い夜に消えていく。
「くぅん?」
俯く主人の腕の中、柴犬のチコがもの悲しげに鼻を鳴らした。
泣き疲れて眠ってしまった弟の部屋を静かに出て、匂は膿んだため息を吐き出した。
(……愁があんなに感情を剥き出しにするのは久しぶりだったな)
それほど愁にとって謡の存在は大きいのだろう。本当の兄のように慕っているのだ。
「母さん、」
母の美佳子は、赤くなった目で娘を見た。料理の仕度を一切していないところを見ると、彼女は彼女なりに息子のことで頭が一杯なのだろう。
「今日は何するの?私するから母さんは休んでて良いよ」
「ねえ、匂」
疲れきったような声に、匂は背中を微かに震わせたが、努めて明るく応える。
「なぁに?母さん」
「正直に、答えてね」
「だからぁ、」
「匂も、芝貫の長男を慕っているの?」
そこに責めるような色はなかったが、不思議で仕方ないといった色が込められていた。
「……愁は芝貫の長男を慕ってる。気付いてたけど、これ程とは思っていなかったわ。正直、ショックよ」
「そんなに…?」
「だってあの父親は、あなたたちの父親を貶めたのよ?敵なの」
「て、敵って大袈裟な……」
「敵なの。なのに、愁は敵の息子なんかを慕って……」
愁が可哀想だ、と匂は思う。愁は優しくて他人想いの謡を慕っているだけだ。人見知りしがちな愁が心を開ける人なのに。匂はやるせない気持ちで母親を見つめる。彼女の気持ちも分かるだけに、やりきれないのだ。「私は、」
匂が答えようとしたとき、静かだった屋外から男の喚き声が聞こえてきた。母親が顔を強張らせ、窓を振り返る。カーテンをしているため外は見えない、が。
「……匂、ごめんなさい。母さん、先に休むわ」
「え、あ…うん」
母親の顔色はお世辞にも良いとは言い難く、匂は頷いていた。母親がダイニングを出ていき、匂は嫌な予感がして着けたばかりのエプロンを脱いだ。今の喚き声が本当に謡の父親のものなら…と危惧したからだ。以前も同じことがあったとき、謡は次の日から一週間家から出して貰えなかったらしいのだ。謡の家庭教師がぷっつり途絶えてしまったために不安になった愁が匂に相談をしてきたため、誓に謡のことを訊いたのである。すると誓は気の抜けた笑みを浮かべ、
「兄貴なら親父の怒りを買って閉じ込められてる」
と普通に言った。兄がそんな目に遭って怒った様子もない誓に呆れたが、それ以上に謡のことが心配だった。あの時は謹慎を解かれた謡はひどく憔悴していたが、匂や愁にはいつも通りの優しい態度で接してくれた。だが謡の心のダメージは大きかったはずだ。
「……」
匂はダイニングを飛び出し、外へ出た。
「おじさん、謡さん!」
「に、匂ちゃん……」
謡は父親に引き摺られるように歩いていた。謡は匂に反応を返したが、父親の春樹は端から無視だ。匂の存在などとるに足らないとでも言いたいのだろうか。
「おじさん!」
春樹を呼び止めてどうしたいのか、匂は一切考えていなかった。だが荷物を運ぶかのように謡を引き摺ることを止めて欲しかった。
「おじさん!」
「何だ、煩わしい!!」
怒りの矛先が匂に向かったと思ったのだろう、謡が声を上げる。匂に、家に帰るようにと。
「匂ちゃん、僕は大丈夫だから」
「だ、だけど謡さん、」
「匂ちゃん、お願いだから。……ね?」
どうして?匂は思い、何も考えずに怒鳴っていた。
「どうして!?」
「に、ほちゃん…」
春樹が邪魔臭そうに匂を睨み付ける。だが匂は怯まない。
「謡さんはどうしてそんなに我慢するの!?おじさんは、どうして謡さんを大事にしないの!?親子でしょっ!?」
「匂ちゃん、僕は、」
「愁が泣いてたわ!」
「…愁君が?」
「謡さんは優しくて良い人なのに、母さんの誤解を解くことが出来ないって。謡さんは自分を助けてくれたのに、自分は母親に何も反論出来なかったって泣いてたっ!」
薄闇の中、謡の顔が歪む。だがそんな謡と、匂の間に春樹が立ち塞がる。
「父さんっ……」
「悪いが大事な跡取りに余計な感情を与えないでくれんか」
高圧的な口調。匂は震えを押さえ込みながら、真っ向から対立する。春樹を見据え、
「余計ってどういう意味ですか」
「経営者に情は必要ない、という意味だ。ただではえこれは経営者には向いていない質なのに、これ以上使い物にならないことを助長させるわけにはいかんのだよ」
これ。今、息子を“これ”と言わなかったか?匂は春樹にさらに不快感を抱いた。本当に謡さんが可哀想だ。
「そんな言い方っ」
「匂ちゃん、もう良いから」
悲しげな謡の声が、匂の胸を震わせる。何が良いんだ、と腹立たしくさえなる。「何が良いんですか?謡さん苦しいでしょ、悲しいでしょ!?」
「訳の分からんことを言うなっ!!」
春樹が匂を突き飛ばそうとする。
「父さん、止めてっ!」
謡が父親の腕を掴む。
「匂ちゃん、早く家に帰るんだっ」
「嫌です!」
「に、」
「放せ、謡」
「っ!!」
春樹に片手で突き飛ばされ、謡は地面に倒れ込んだ。
「謡さんっ!」
「親が親なら子も子だな。謡、帰るぞ」
春樹はもう匂を見ることなく、自宅のほうへ歩いて行く。
「う、謡さん大丈夫ですか!?」
匂が謡に駆け寄ると、謡は昼間の怪我の残る顔で緩く微笑んだ。以前目にした透明な笑顔に、匂は胸が痛むのを感じた。そんな顔で笑わないで欲しい。いつもの、優しい朗らかな笑顔をして欲しい。
「謡さん、私…」
「ホントに、大丈夫だから……ね?」
「謡さん、」
「おやすみ、匂ちゃん」
謡は匂の頭を優しく撫でると、父親のあとを追った。その背中がいきなり消えてしまいそうで、匂は怖くなった。
「私じゃ、謡さんは助けられないの……かな」
小さく呟き、匂は自分の無力さに一人項垂れた。