謡と誓と晴美と
サブタイ変更するかもしれません。
……子供心にも、綺麗な母が自慢だった。
それに、優しくて、あたたかくて、料理やお菓子作りが得意だったところも。
自慢で、大好きで。
母の方も、自分や弟の誓に深い愛を注いでくれていると信じていたし、ずっと愛してくれると信じていた。
でも。
(久しぶりに、会えたのに……)
母は、謡を自分の息子だと認識をしてくれなかった。透明な瞳で、ぼんやりと見返すだけだった。
(どうして?母さんは、僕に会えて嬉しくなかったの?)
母が数年前の忌まわしい事故に遭い、記憶喪失になったことは十分に理解しているつもりだ。事実としてだけでなく、確かな現実として。それでも、心はついていかない。
母親にとって、自分は最早要らない存在なのだと思ってしまう。
(お願いだよ、僕の名前を呼んでよ……)
もう名前を呼んで貰えないのなら、もう自分を息子だと認識して貰えないのなら……このまま消えてなくなってしまいたい。
「兄貴、兄貴……」
誓が呼んでいる声がするけど、それに応える気力すらない。このまま、眠りに就いていたい……。
『まだ、駄目だ』
……………?
不意に、誓でも母さんでも父さんでもない、聞いたことのない声が耳に届いた。聞いたことはないのに、何処か懐かしいその声が。
『あの“約束”を果たすまで、まだ……駄目だ』
あの、約束…?
『私の勝手に巻き込んでしまって申し訳ないが、あの“約束”を果たすまでは……再び姫様に会うまでは、まだ……』
苦しそうな声。
その声が紡ぐ約束と、姫様という言葉。
それらに、何故か胸が締め付けられる。
…あなたは、誰なんですか?
『………今はまだ名乗れない。ただ、体を借りている恩は返そう』
……え?
『完全に希望通りには出来ないかも知れないが……一つだけ君の願いを聞こう』
僕の、願い……。
父さんと、昔のように仲良くしたい。
母さんに、僕のことを思い出して欲しい。
二つの願いが、簡単に浮かんだ。
『君にとって、どちらも大切な願いなのは、私にも分かる。……しかし、私が力を貸せるのは片方の願いだけだ』
申し訳なさそうに萎れた声。
……本当に、この声の持ち主は一体誰なのだろう。
『それに……私の力は、……っ』
!ど、どうしたんですか?急に声が苦しげに詰まり、気配が揺らいだ。
『……いや、問題はない。すまない、謡』
!!
名前を呼ばれた瞬間、体に電流が流れたように感じた。以前にも、同じ“声”に名前を呼ばれたことがある…そう感じた。
……あれは、いつだったか。
『謡?』
!あ、そうだ。今は、僕の願いの話をしているんだった。その途中、声の主が苦しそうに詰まって……。
『どうする…謡は、どちらを強く願う?』
……僕が、強く願うこと。父さんと、母さん。
どちらかを選ぶ、ということ?
……あの。
『謡?』
どちらも選べない時は、どうしたら良いんですか?
『………選ばない、という選択も出来る』
……選ばない、という選択。
『…謡、そろそろ決めて欲しい。時間が……ない』
そ、そんなことを言われても……。
『私は、本来は声ですら自分を表現してはいけない。それに、謡自身に負荷を掛けてしまうから』
……僕に、負荷を。
『謡、時間だ』
僕は、僕は……。
父さんと母さんを選ぶなんて、出来ない。
昔の、幸せな暮らしは、父さん母さんどちらが欠けても……戻っては来ないから。
『そうか。……謡らしい答えで安心した』
僕、らしい答え……。
『だから、今世の“姫様”は君に惹かれたのだろう』
え?
『もう少しだけ、謡の体を借りさせてもらうよ……“姫様”にもう一度会い、あのとき言いたかった言葉を伝える為に……』
…あなたは、一体。
『……謡には辛いことの多い現実だろうけれど……生きて欲しい。勝手なことばかり言って、謡には本当にすまないと思っている……』
声が揺らぐ。
『謡、“姫様”を……頼むよ、』
ま、待って!
あなたは、一体……
『……“姫様”は、君のことを………、』
…最後まで聞けぬまま、声は完全に聞こえなくなった。
……今のは、一体…、
「兄貴、兄貴!」
誓が、僕を呼んでいる。
「謡さん…」
そして、さっき知り合ったばかりの女の子の呼び声もする。
母さんを、見つけてくれた女の子。昔に、テレビで僕を見て以来、ずっと僕に会いたいと思ってくれていたんだと言う。
テレビで、父さんのことを話していた姿が忘れられない、と。
「兄貴!」
……誓が、珍しく僕のことを必死に呼んでくれている。本当に、珍しい。
……母さんが呼ぶ声はしないけど、誓が呼んでくれるから、良いかな。
『謡!さっさと起きな!』
楡乃木さんの声までして来た。楡乃木さんは、警察にはいないはずなのに。
でも、もし実際に警察にいたら僕を呼んでくれるんだろう……そう思いたい。
『謡!』
……分かりました、楡乃木さん。起きます、起きますからあまり耳元で言わないで。とても、くすぐったいから……。
「う……んっ、」
「兄貴!…はぁ、やっと起きた……、」
「ち……かい?」
ぼやけた視界の向こう、弟の誓が肩をガックリとさせてため息を吐く。
「…ったく、心配させやがって……、」
「誓……ごめ、んね?」
「謝らなくて良い…」
謡は、ゆっくりと上体を起こす。少し黄ばんだ薄手の毛布が掛けられていた。
「誓、ここは…?」
「警察の仮眠室。貸して貰った」
「そっか……」
謡は、だるい首を巡らせて室内を見渡した。室内には、黒い皮張りのソファーが二つと四角い茶色のローテーブルしかない。周囲の壁は、長年の煙草の煙にやられ激しく黄ばんでいる。心なし、今も煙たい。
「誓、」
「あ?」
「あの子の、声がしたんだけど………」
謡が言うと、気の抜けたような顔をしていた誓の雰囲気が一気に強張った。
「誓……?」
「あの子?兄貴にずっと会いたいと思っていたっていう女か?」
「誓、どうしたの……、」
急に怖い空気を纏った弟に、謡は怯えてソファーの上で身動ぐ。誓は無表情のまま立ち上がり、謡をギロリと見下ろした。
「誓、」
「……母さんがあんな状態で苦しんでるのに、何女に現を抜かしてる訳?」
低く、一切の抑揚のない声。怒っている―――それも、かなり。
「べ、別に現を抜かすなんて……っ!?」
釈明の言葉は、途中で途切れる。何故なら、誓が謡の両手首を掴み、ソファーの上に押し倒したからだ。さらに彼の上に、靴を履いたままのし掛かる。
「ち、誓!何して…っ!!」
「そんなにたまってんの?」
両の瞳をすうっと細め、厭らしく舌舐めずりする。背筋に薄ら寒いものを感じながらも、謡は誓から目を逸らしそうになるのをグッと堪えた。
「ち、誓、何言ってるんだよっ」
「あの女だってそうだ。あの公園で二人きりで何してたんだ!」
「あの女って……、」
楡乃木涼子のことだとすぐに分かった。
「ち、違うよ!楡乃木さんはそんなんじゃないよっ」
「じゃあ何してた!母さんが行方不明になってた時に、なんで女と二人きりでいられたんだよ!」更に強い力で手首を握られる。振り払えず、謡は怯えた目で弟を見上げるしか出来ない。弟の両目にはほの暗い光が宿り、その中に怯え顔の兄がいる。
「……母さんよりあの女のほうが大事なんだろ、兄貴には」
「!そんなことないっ」
「ならあの女とは二度と会うな!」
そう言われた瞬間、謡はカッとなった。幾ら誓でも、そこまで言われたくはなかった。
「なんで、何でそんなこと言うの!?楡乃木さんのこと、何も知らないくせに!」
「ッ!」
謡の反駁に、誓が顔を真っ赤にして唇を噛んだ。そして、右手を謡に向かって振り上げる。
「!!」
殴られる――謡は目を閉じて身を捩った。
だが……数秒経過しても、拳が振り下ろされることはなかった。……謡は恐る恐る目を開けた。
「………誓?」
誓は右手を振り上げた姿のままだった。苦虫を噛み潰したような顔で謡を見下ろしている。
「ッ、くそっ……!」
乱暴な手付きで謡を突き放すと、荒々しく仮眠室のドアを開けた。
「!」
「きゃっ、」
タイミング悪く、中座していた少女が戻ってきたのと鉢合わせした。体がぶつかったが、誓は何も言わずに走り去った。
「び、びっくりした…。あぁ!謡さん、起きたんですねっ」
謡が目を開けていることに気付き、少女が嬉しげに寄って行く。謡はどんな顔をして良いか分からず、戸惑いの浮いた顔で少女を見つめる。
……なにより、誓の豹変に驚いてしまい平静になれないのだ。
『たまってんの?』
(………誓が、あんなことを言うなんて……)
掴まれていた手首が熱を持っていて、先程のことが現実だったことを教えている。
「謡さん?」
「!…あ、」
「……具合、良くないですか?」
笑顔が一気に萎れて、気遣わしそうな色が宿る。
「ううん、もう大丈夫だよ」
「でも、顔色悪いですよ……」
少女――脇坂晴美が、不意に謡に手を伸ばした。
「っ、」
他人に、加えて女性に触れることがあまり得意ではない謡は、思わず顔を逸らす。だが晴美はそれに気付かないのか気付いていないふりをしているのか、謡の様子には構わずに彼の額にそっと手をやった。
「……少し熱いですかねぇ。あ、お茶を買って来たのでどうぞ!」
にこにこと一点の曇りもない笑顔で、ペットボトルのお茶を差し出す。謡は思わずそれを受け取った。……小さな「ありがとう」という言葉とともに。
「はい!是非どうぞ」
「あ、あの……、」
「?」
「……母さんを見付けてくれて、ありがとう…」
とにかく、それだけは言わなくては思っていたのだ。母にこれ以上何かあれば、きっと自分は狂ってしまう……そう思ったから。
「謡さん……、」
「母さん、たくさん辛い目に遭ったから……もう、傷付いてほしくないから…、」
ペットボトルを握る手に力がこもる。
「だから、君が見付けてくれて……母さんが無事でいてくれたから……」
初対面の女の子の前ですら泣くなんて、と思うが緩み始めた涙腺は我慢の限界にたっそうとしていた。最近泣き過ぎだ、と自嘲する。だが、次に晴美がとった行動に涙も吹き飛ぶことになる。
「謡さん!」
「っ!」
いきなり顔と言わず体全体を謡にぐっと近付けて、
「謡さんは、笑った顔の方が素敵だと思いますッ」
「!?」
「だから、笑って下さい!そんなに泣きそうな顔しないで下さいっ」
「……う、うん…」
勢いに圧されて、思わず頷く。零れそうになっていた涙も、一気に引っ込む。
「それにしても、謡さんの弟さん、どうかしたんですか?今、すごい形相で出て行ったから……」
「っ、」
まさか弟に押し倒されたなどとは言えず、謡は冷や汗を掻きながら晴美から視線を逸らす。
「喧嘩…したんですか?」
全く部外者なはずの少女が悲しげに眦を下げる。どうやら自分の感情にはかなり素直な性格のようだ。
「そういうんじゃ、ないから……」
思い返せば、最近誓とはギクシャクし続けている。だが、単純な“喧嘩”と称しても良いものか。
「……あの、謡さん」
「!…何?」
「謡さんのお母さん、綺麗な人ですよね」
そう言って、にっこり笑う。
「そう…かな。ありがとう」
きっと母親の今の状態についても言及されるに違いないと、謡は覚悟する。
…だが、
「うちの母とは大違いです。うちの母、身なりに全然気を配らないし…結構ぷくぷくしてますし」
しゅん、と晴美は悲しげに項垂れる。
「そう…なの?」
「私とお姉ちゃんはすら〜りとしてるんですけどね〜」
態とらしく、しなを作る晴美に謡は思わず吹き出してしまう。
「そ、そうなんだ…ふふ、」
「笑わないでくださいよ〜」
「う、うん…ごめんね…」
晴美は頬を膨らませるが、謡が笑顔になったことで瞳を嬉しそうに細めている。
「やっぱり謡さんは、笑顔が素敵ですね!」
「そんなことないよ…。僕のこと、持ち上げ過ぎだよ」
謡が弱々しい口調で言えば、晴美は何度も首を左右に振る。
「持ち上げるとかないですよ!本心ですもんっ」
「……ありがとう。えっと…、」
「晴美です。脇坂晴美。ちなみに歳は16、高校一年生です!」
「なら誓と一緒だね」
「そうなんですか!謡さんは一つ上ですか?」
「うん。…そうだよ」
本当に素直に感情を表現する子だな、と謡は思う。自分からしたら、眩しく感じられるタイプだ。
「あ、私と話してる場合じゃないですね。お母さんのところに行かれますよね?」
「っ、」
思わず息が詰まった。
脳裏に、透明な母親の瞳が過る。体が強張る。
「謡さん?」
「……行っても、母さんは僕のこと分からないから、」
「謡さん……、」
「ごめん、怖いんだ…」
初対面の女の子に何てことを、と思いながらも言葉は止められない。
「また、あの目で見られるのが怖い……母さんの中に、僕は居ないんだって、思い知らされる気がして………、怖いんだ……」
頭を抱えてか細い声で話す謡を、晴美は悲しげな表情で見つめるしか出来ずにいた。