揺らぎ
「あんたは〜。いつまでそうやって泣いてるつもりよ?」
布団に潜り込んで泣いていた愁に、かかる声がある。姉の匂だ。
「だ、だって……謡さんは何も悪くないのに、僕を助けてくれたのに……」
言う側から涙が零れて冷たくなったシーツを更に濡らした。匂がため息をつく気配に次いで、ガバッと掛け布団をはね除けられる。
「泣きすぎ」
「っ」
姉は本当に意地悪だと思う。愁がどんな想いで泣いているかも知らないで。なのに、どうして笑顔を見ていると泣きたくなるくらい安心するのだろう。
「ほら、姉の胸に飛び込め」
「……」
愁は小さく頷いて、姉にすがり付いた。
「ね、姉さんっ」
「うん」
背中を撫で、髪をすく手が心地よい。言い様のない不安が軽くなるのを感じる。
「僕、母さんに何も言えなかった。謡さんはとても優しい人で、母さんが思ってるような人じゃないって…!でも、叩かれるのが怖くて、謡さんのこと、何も言えなくてっ…」
支離滅裂になっていないか不安に思いながらも、愁は言う。匂の腕の中で、自分の気持ちを吐き出す。匂は何も言わず、うんうんと頷いてくれている。
「謡さん、僕のせいでおじさんに怒られて……なのに大丈夫って、笑って、そんな、人なのっ、に…っ!僕は、僕は……っ」
「あんたは本当に優しい子だね」
「う、うう」
「気の済むまで泣けば良いよ。お姉ちゃん、付き合ってやるから」
優しい口調で紡がれ、愁は更に涙腺が弛むのを感じた。
手紙やカッターナイフのことを心の奥に押し込めた謡が調理を終えたのは、午後七時半頃だった。テーブルに料理を並べて誓の部屋のドアをノックしたのだが、返事がない。眠り込んで気付かないのだろうか。
「誓?入るよ?」
案の定、誓はベッドでぐっすりと眠り込んでいた。しかもヘッドフォンをつけたままだ。これじゃあ気付かないよな、と苦笑して弟の肩を揺すろうとした時だった。
「え、」
あの“手紙”が、あった。口の開いた誓の鞄から覗く真っ白な紙。ぐしゃぐしゃにされているが、ゴシック体の文字が見えたのだ。死ね、という単語が謡の目に飛び込んでくる。足元が揺さぶられた気がした。
(……誓も俺と同じ目にあってるのか?)
誓は楽しい夢でも見ているのか、ふふっと口を綻ばせた。
(………)
鞄に手を伸ばしかけて、謡は止めた。これは誓のプライベートなことだ。兄とはいえ、誓から何も相談をされないままに触れてもいいのか判断が付かない。
「む…ん、兄貴?」
「!誓、」
気付けば誓が薄目を開けて謡を見上げていた。ヘッドフォンを外し、いつも通りの締まりのない笑みを浮かべる。
「何かいい匂いがするなぁ…。飯、出来たの?」
「あ、あぁ。食べよう」
「ふ〜い」
誓は目を擦りながら立ち上がる。手紙のことを聞こうかどうか迷ったが、結局口には出せなかった。
『きっとこの海は何年経っても変わらないはずだよ。だから、僕も君も好きなこの海を目印にしよう』
私は目印、という言葉にくすぐったい気持ちになった。
『目印?』
『そう。僕たちが生まれ変わってもまた会えるように。この海を目印にしよう』
『生まれ変わって、お互いがまた出会るかしら』
彼は私の肩を引き寄せ、優しい笑みを浮かべる。私は彼のその笑顔が大好きだった。
『大丈夫。僕は君をとても愛しているから。必ず君を探し出すよ』
『……信じて待ってて良いの?』
彼の手が私の髪を優しい手付きですく。くすぐったくて、私は首を竦めた。
『ああ。僕を信じて』
『………はい』
私は幸せな気持ちで、頷く。“あれ”がすぐ側まで迫っていることに、全く気付きもせず。
「はぁ、またか」
涼子は額に手をやって、雨は止んだものの、どんよりしたままの空を見上げた。微かに頭が痛む。そして見た“夢”に、憂鬱な心持ちになる。加えて、時が経つほどに“彼”の顔を思い出せなくなっている。それが悔しくて、ベンチに座ったまま俯く。そこに近づく影。
「やっぱり、いた」
「!謡?」
芝貫謡が、いた。軽い笑みを称えて。
「こんばんは。……夜に会うのは二度目、かな…」
「…親が厳しくて夜は出歩けないのではなかったのかな」
謡の格好は夕方に会ったときのままだ。
違うのは一人だということと、夕方の穏やかな顔と違って悲しそうな顔をしている、ということ。
「父は今日泊まりみたいですから」
平坦な口調。謡は父親のことになるとあまり感情を挟まないが、今日は特に感情がこもっていない。どうでもいい、と言外に言っているような気がする。「父親と何かあったのか?」
まぁ素直に答えることはないだろうな、と思いながら涼子は軽い気持ちで訊いたのだが。
「……何か、ってないほうが珍しいですよ」
「…謡?」
「あの人は僕がロボットでいた方が喜ぶんですよ」
何かおかしい。謡にしてはひどく自虐的だ。普段の謡なら、自分は大丈夫だ、と笑って想いを封じ込める。悩んでいると思われないように平気な顔をする。
「父親…とのことだけじゃないみたいだな。今日も学校に行かなかったのか?」
謡が学校を休みがちであることは、涼子も気付いている。今日のような夕方は別にして、学生なら学校にいて然るべき真っ昼間から涼子に会いに来ることも何度かあった。だが涼子は特に咎めることも休む理由を追及することもなかった。今のは、普段と違う謡の様子にあてられて無意識に出た言葉だ。
「……やっぱり、気付いてましたか」
はは、と空虚な笑いが謡の形のよい唇から漏れる。
「何となく、だが」
「まぁそうですよね。平日の昼間から、楡乃木さんに会いに来れば誰だってそう思います」
「………今日はどうも変だな。やけに感傷的じゃないか」
涼子がそう言ったとき、
「あ、待ってってば!」
少し高い少年の声が静かな園内に響いた。
「?」
ついで、ちたちたちた、という軽い音。謡を見れば、彼もその音に気付いたようで軽く首を傾げている。
「犬?」
「…犬、だな」
まだ子供だろう小さな柴犬が、二人の足元にまで走ってきて、はっはっは、と呼吸をしながら二人を綺麗な黒目で見上げている。人間が珍しいのだろうか。微かに石鹸の匂いがする。
「す、すみませんっ。僕の犬がっ」
柴犬を追ってやって来たのは、涼子から見れば中学生くらいの少年だった。背は155あるかないかくらい。癖のない黒髪は綺麗に切り揃えられ、柴犬のように大きく綺麗な瞳が印象的だ。涼子は柴犬を抱き上げ、少年に差し出す。
「あ、ありがー!?」
涼子から柴犬を受け取ろうとした少年が、謡を見て息を止めた。
「?」
釣られて謡を見れば、謡も目を見開いて少年を見返している。
「藍田君、」
「す、すみません」
我に返ったのは藍田と呼ばれた少年が先だった。粟を食ったように慌てて柴犬を抱くと、脱兎のごとく走り去ろうとする。
「待って!」
「!」
謡の制止に、少年は素直に立ち止まった。
「あ、あの、藍田君に訊きたいことがあるんだ、」
「…」
藍田少年が恐る恐る振り返る。何に怯えているのだろう。抱き締められた柴犬が不思議そうに見上げている。
「あの日、僕と話してるところ見られたんじゃないかって不安になったんだ。君も、いじめられるようになったんじゃないかって、」
涼子は眉をひそめた。君も、と謡は言った。まさか謡が?と涼子は思う。
「大丈夫?僕の知らないところでいじめられたりなんてしてない?」
「…バカじゃないの」
藍田少年の呟きに、謡が体を硬直させるのが分かる。
「藍田君、」
「じ、自分の心配だけしてれば良いじゃない」
「……そう、だね」
「それじゃ」
藍田少年は謡をまともに見ることなく、駆けていく。謡は呆けた顔でベンチに腰を下ろす。涼子は何も言えず、横に座っていることしかできなかった。
「はぁ、はぁ、はあ」
まさか謡がいるとは思わなかった。藍田渉は、公園からだいぶ離れた路地でようやく足を止めた。
「あんなこと、言うつもりじゃなかったのに……」
大丈夫だって。心配ない、って言いたかったのに。何で、あんな言い方。
「お前が公園に入るからだ」
腕の中の犬を恨めしげに見下ろす。犬は不思議そうに渉を見返すだけだった。