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帰還~藪内奏と藍田渉4~

お久しぶりです。

藪内と渉のお話且つ長めです。

よろしくお付き合いください。

謡が倒れた同時刻、藪内奏は渉の見舞いに病室を訪れていた。

容態は安定したようで、昨日つけていた酸素マスクは外されて渉の顔色も幾分かはマシになっていた。

それでも起き上がることは辛いようで、藪内が姿を見せたときは上体を起こそうと努力はしたものの、辛そうだったので止めさせた。

「あ、あの・・・藪内さん、」

やはり渉は藪内を苗字で呼ぶ。そうなったのは自分が悪いからなのに、藪内は苦いものが心中を満たすのを感じていた。

「何?渉」

「・・・・・どうした、んですか。その、右手」

渉の大きな瞳がじっと見つめているのは、藪内の、包帯でぐるぐる巻きにされた右手だった。昨晩、洗面所の鏡で自分が行った“自傷行為”の結果がこれだ。

「何でもない。・・・気にするな」

「で、でも・・・」

藪内は渉から見えないように右手を背中に隠した。

「俺のことなんか良いから・・・お前は自分のことだけ考えてろ」

藪内の言葉に、渉は悲しそうに目を伏せる。

「・・・・・・藪内さんは、僕のこと、嫌いだったんですか?」

「は?」

いきなり言われた言葉に、藪内は頓狂な声を上げてしまう。

「何で、そう思う?」

「・・・・・なんだか、突き放されてる気が、するから・・・」

そして自分が何を言っているのか今、自覚したのか、ハッと我に返ったような顔をすると両手で顔を覆った。耳が赤い。

「す、すみません・・・僕、何を言ってるんだろう・・・すみません、」

「渉、お前……」

「は、はひ……」

噛んだのか、返事が妙だ。何だかおかしくて、藪内は笑みを浮かべた……笑う資格なんか、ないのに。

「お前、顔が真っ赤だな」

藪内のからかいに、ますます渉の耳が赤くなる。

「あ、あんまり苛めないで下さい……」

「苛めてるわけじゃないが……悪い」

本当はずっと体と言葉の暴力を加えて来たんだがな、と藪内は心中だけで呟く。それを今話したら、渉はどんな顔をするだろうか。信じるか、信じないと突っ張ねるか。

「や、藪内さん……?」

藪内が黙ってしまったことに不安を感じたのか、渉が顔から手を離して、藪内を見上げていた。ひどく不安そうに、大きな瞳が揺れる。

「……どこか、具合でも悪いんですか?」

「いや、何でもない。大丈夫だ」

「そう……ですか」

納得していなさそうな表情を見せたが、渉はすぐに藪内から目を逸らした。そして、疲れたように目を閉じる。

「疲れたか、渉」

てっきり頷くかと思いきや、あまり血色のよくない唇で言葉を紡いだ。藪内が目を見開く言葉を。

「……何だか、申し訳なくて…」

「え?」

「…藪内さんのことを思い出せないことが…、藪内さんに申し訳なくて」

「っ?」

「ごめんなさい、藪内さん……」

悲しげに、そして苦し気に謝罪され、藪内は息が詰まるような想いだった。

「お、お前が謝る必要なんかねぇよ」

「で、でも……」

何か言い掛けた渉の頬に、藪内はそっと触れてみた。

「藪内さんの手、冷たくて気持ち良いです」

「そうか?」

「はい。それに……手が冷たい人は、心があたたかいと言いますから……」

「俺の心は、あたたかくなんかねぇよ……極悪非道だ」

「そんなこと、ない」

真っ直ぐに見つめられ、少し気恥ずかしくあり……辛くもあった。もし記憶が戻っても、渉は同じことを言ってくれるのだろうかと。

「藪内さんの心は、きっとあたたかい筈です……どうしてか、僕には分かるんです。記憶、忘れてるのに………」

そう言って、また寂しそうに微笑む。

「渉・・・、泣くなよ・・・」

いつの間にか、渉の眦から涙が溢れ、頬を濡らしていた。

(・・・・また、泣かせちまったな、俺は・・・)

この関係性は二度と変わることはないのかも知れない、と藪内は自嘲する。

自分を大事に思ってくれていた幼馴染みに手を上げたあの瞬間から、自分と渉の関係は決まったのだ。

“泣かせる者”と“泣かす者”に。

「す、すみません・・・僕、全然泣くつもりなんか、ないのに・・・」

「良い。気にするな、渉」

そうだ、これはもう必然なのだから。

藪内奏に関われば、藍田渉は涙を必ず流すのだ。

「ごめんなさい、少し疲れました・・・やっぱり」

「あぁ。俺のことは気にせず、寝てくれ」

「はい・・・・おやすみなさい。薮内さん、」

「あぁ。ゆっくり、休め」

渉はこくり、と小さく頷くと、すうっと瞳を閉じた。

滑らかな頬に、涙の痕が一筋、残っていた。

(結局、俺の存在は渉の害にしかならねぇってことなんだな……)

渉の涙を手の甲で拭ってやりながら、藪内は項垂れていた。






渉が寝息を立て始めたのを見て取り、藪内は病室を出た。飲料を買いに行こうと、自販機のある待合室へ足を踏み出し、

「奏君」

「……おばさん、」

疲れきった笑顔を浮かべた渉の母親に声をかけられた。片手に大きめのボストンバックを提げている。

「今日もお見舞いに来てくれてたのね」

「………はい」

「渉、どう?」

「……記憶はまだ戻らないみたいだけど、体の方は安定してるみたいです」

「そっか……。ごめんなさいね」

「え?」

「私がしっかりして、先生にお話を聞かないといけないのに、君に又聞きするなんて。迷惑じゃないかしら」

藪内は静かに首を左右に振る。

「迷惑なんかじゃ、ないッスよ…」

藪内の言葉にホッと安堵の息を吐き、

「そう言ってもらえると、渉も喜ぶわ」

渉によく似た笑顔を藪内に向けた。

「おばさん、荷物重くない?」

「大丈夫よ。渉のだし、見掛け程、重さはないし」

何より渉の病室は目と鼻の先だ。

「奏君、もう帰るの?」

「いや、少し風にあたってくるだけだから」

「分かったわ。渉も嬉しいだろうし、また戻って来て」

「……はい」

藪内は渉の母親に軽く頭を下げ、待合室に向かって歩き出した。






その猫背を見送り、渉の母親は息子の病室へ歩を進めた。寝ていてはいけないと思い、静かに渉の枕元まで移動する。

「………な、で…」

「渉?」

母親が椅子に腰掛けた瞬間に渉が何事かを呟いたので、起こしてしまったのかと危惧していると、

「……奏くん、」

「渉?寝言、かしら…」

その証拠に、渉は起き出す気配はない。

(記憶喪失になっても、奏君の名前は言えるの?)

しかし起きている時の渉は、藪内のことが分からないらしい。

…無意識、なのだろうか。

(そんなに奏君のこと、慕ってるのね……)

だがふと、母親の脳裏に“渉は本当に記憶喪失なのだろうか”という疑いが去来した。芝貫グループの次男も渉のは“フリ”みたいなことを言っていたではないか。まさか、そんな。渉がそんな大層な演技をするわけがないし、する理由も分からない。

(気にし過ぎよね。息子を疑うなんて、母親失格だわ……)

母親は自嘲の笑みを浮かべて、自分をたしなめるように二回ほど首を軽く横に振った。

「渉、お母さんのこと、思い出してくれるのかな……?」

そう呟いた瞬間、渉の右手がぴくりと動いた。何かを探すように、緩やかに手が開閉する。

「渉、どうしたの?喉、渇いたの?」

「・・・けて、」

「え?」

「奏く・・・、たす・・けて、」

見る見る内に、渉の顔色が白くなり、苦しそうに眉が寄っていく。

「渉、どうしたの?どこか苦しいの?」

母親の必死な呼び掛けにも、渉は応えずに、ただただ幼馴染みの名前を呼び、彼に助けを求める。

「奏くん、助けて……苦しい、痛いよ……」

「渉、渉!」

「助けて……“ここ”は嫌だ、嫌だ、」

「奏君、連れて来るから、待っててっ」

確か藪内は風にあたって来ると言っていた。

母親は息子のために、彼を探しに慌てて病室を出た。

「苦しい、よ……奏くん、」






(ここは、どこだろう……?)

渉は、周囲一面真っ白で何もない空間にただ一人で立っていた。本当になにもない。自分以外の生き物の気配すらしない。

(僕は、独りぼっち…?)

胸が、嫌な音を立てて高鳴る。

(いや、独りは、嫌、)

『渉……』

「奏くんっ?」

今、大好きな幼馴染みに呼ばれた気がした。渉は顔を上げ、彼の姿を探した。でも、やっぱり周囲は白一色で影すら見当たらない。

「何処、奏くん、何処なのっ?」

『渉、俺は』

「奏くん、何処、何処ぉっ!?」

『お前なんか、大嫌いだ』

「っ!?」

心臓が止まるかと思った。頭の中さえも、白く染まって行く。

『鬱陶しいんだよ、俺のあとをいつもいつもちょこまかと』

「ど…し、て?」

どうしてそんなことを、言うの?

「奏くん、嘘、でしょう?冗談、だよね?」

確かに高校に入ってから、奏は渉に冷たくなり、謡のことがあってからは頻繁に手を上げられもした。痛かったし、苦しくて、悲しかった。でも、だけど、

「僕は奏くんのこと、大好きなのに…奏くんがいないと、何も出来ないのに、」

『止めろよ。大好きなんて、気持ち悪い』

……キモチワルイ?

「奏く、」

『俺、野郎に好かれても嬉しくないし。趣味じゃない』

「ち、ちがうよっ。大好きって言うのは、そういう意味じゃなくて、」

渉の必死の言葉を、奏の“声”は無慈悲に切り捨てる。

『黙れよ、クソが。それによぉ、周りの噂、知らねぇの?藍田渉が藪内奏を見る目は、恋してる目だっていうやつ』

「だ、誰がそんな…」

『とにかく、俺はお前が大嫌いなんだよ。もう近づくな』

奏の姿は、一向に見えて来ない。ただただ“声”だけが、渉の脆い心を追い詰めて行く。

「奏くん、嫌だ、僕を見捨てないで、独りに、しないで……っ」

『そんなの知るかよ。他の誰かに泣き付けば?』

「奏く、」

『じゃあな、渉。俺には、二度と近づくな』

「待って、奏くん、待って!!」

奏が何処にいるかも分からないのに、渉は闇雲に歩き出す。でもすぐに何もないところで、蹴躓いて転んでしまう。

「痛っ…う、ううっ」

奏の“声”は、もう聞こえない。でも渉は、奏を探すために、もう一度立ち上がろうとする。

「なにっ、」

しかし、白い空間の何処からか、何本もの黒い手のようなものが伸びて来て、渉の足や腕、体を拘束する。

「やだ、なにっ、」

ー独り、独り、お前、独りーお前には、独りが似合うー独り、独り、お前、独りー誰も、お前を見ない

“声”が方々から響いて来る。暗く、低い、呪詛にも似た声。

「はな、放して、」

黒い手たちは、渉をずるずると引き摺って何処かに連れて行こうとする。きっとそのさきには、白い光すらない、真っ暗闇だけが広がっている……

「奏くん、助けて、奏くん、助けて……っ!」

渉は、がむしゃらに幼馴染みの名を呼び、助けを求めた。たったさっき、引導を渡されたばかりなのに……。

ーすべてを忘れれば、楽になる。実らない思慕の念を捨て、安らかな眠りに就けるのだ。

だから、忘れなさい。

「奏…く、ん、」

目を開けているのが辛くなって、渉の瞼が徐々に下りて行く。

(もう、このまま眠ってしまおう。もう苦しまなくて済むように、奏くんに嫌な想いをさせないように)

お別れを言えないのは心残りだけど、仕方ないや。

(奏くん、さようなら…お母さん、ありがとう…)

黒い手が、絶対に放さないとでも言うかのように更に力をこめる。ギシッという不穏な音が、骨から響いた気がした。

(……奏くん、ごめんなさい。奏くんが僕のことを大嫌いでも、やっぱり僕は奏くんのことが……大好きみたいです)

もしかしたら友情を越えた感情なのかも知れないが、それももうどうでも良いかな…。

(だって、僕の人生はここで終わるんだから……)

ごめんなさい、奏くん。

ありがとう、奏くん。

さようなら、奏くん。

『……たるっ』

(?)

『渉、行くな!渉っ!』

奏の“声”がする。

渉を拒絶したのと同じ声で、今度は渉を引き留める。

『何処が痛い?なぁ、俺のこと、分かるのか?渉!』

(奏、くん……?)

奏の望み通り消えようとしているのに、どうしてそんなに悲痛な声を上げるのだろう。

『……渉、俺が、そばに居るから。怖くなんか、ないから』

(奏くん、奏くん……!)

一度は抜けていた力が、体に戻って来る。

(僕は、帰るっ)

奏がいる、あの世界へ。

さっきの、自分を拒絶する奏の“声”は偽物なんだと、渉は自身に言い聞かせる。

(げんきんなのかも知れないけど、奏くんは僕を待ってくれてると信じたい)

黒い手が、渉の喉に掴み掛かって来る。言う通りにならないなら殺してしまおうという気らしい。

「んっ、」

気道を圧迫され、渉は息苦しさに喘いだ。それに力を得たように、黒い手による絞め付けは酷くなる。それでも渉は足掻くのを止めない。

(放してっ、僕は奏くんのところに帰るんだっ!母さんたちが待ってるところに帰るんだからっ!)

無我夢中で、何度も何度も心の中で唱える。

(奏くんに、……もう一度会うんだからっ!)

すると、渉の気道を塞いでいた黒い手の力が緩んだ。それに気付き、渉は更に強い気持ちで唱える。

(奏くんに会いたい、……ううん、また会うんだ!!)

カッと目を見開いて、黒い手を睨み付ければそいつは怯えたように渉の気道を解放する。

(奏くん、僕が戻ったら、また昔みたいに笑ってくれるかな……?)

笑って欲しいな、と渉は思う。

(……ちょっと眠くなってきた、なぁ…)

藪内の優しい笑顔を思い出していると、不意に睡魔が襲って来た。

一生懸命唱えて疲れたのかな、と渉は苦笑する。

黒い手はいつの間にか何処かに消えて、渉は真っ白な空間に一人取り残された。

(奏……くん、眠い、なぁ)

夢の中でも良いけど、やっぱり現実の世界で会いたいなぁ……。

そんなことを思いながら、渉は久しぶりに心地良い眠りに落ちて行った……。






しばらくすると、頭痛に呻いていた渉が静かになった。ベッドの上で、ぐったりと力なく横たわる。

「渉……、」

藪内は、本当に渉が死んでしまうのではないかと気が気ではなかった。

異常なほどに頭を抱えてベッドの上で頭の痛みを訴えていた。

「先生、渉は、」

渉の母親が、真っ青な顔で担当医に尋ねる。担当医は、気難しい表情を崩さぬまま、

「・・・以前一度検査したときは脳に異常はありませんでしたが、もう一度検査をしましょう。しかし、すぐには無理ですね。体を休ませた方が良いでしょう」

「そうですか・・」

「ただ、出来るだけ早く検査します。鎮痛剤が効かなくなっては遅いですからね」

「分かりました・・・よろしくお願いします、」

勇気付けるように母親の肩を叩き、担当医は病室を出て行く。

「何かありましたら、呼んでください」

渉に鎮痛剤を打った看護士も病室を出て行った。

「・・・・・・・はあ、」

二人が去ると、母親はパイプ椅子に力なくへたり込んだ。

「おばさん、」

「・・・どうしてかしら、」

「え?」

「どうして渉ばかり、こんなに辛い目に遭うのかしらね・・・。可哀想だわ・・・・・、」

そう言って、悲しげな溜息を零した。

藪内は、何も言えない。

渉を辛い目に遭わせているのは、紛れもない自分なのだから。

(やっぱり俺は、)

此処に居てはいけない。

心の中、誰かが叫ぶ。

早く立ち去れと。

(俺・・・は、)

知らず知らず、一歩、渉のベッドから退く。

逃げ出したいと、思ってしまった。自分の“罪”から。

「・・・奏君?」

藪内の異変に気がついたらしい母親が、顔を上げて彼を見る。

「お・・・れ、」

「どうしたの?顔が真っ青よ・・・?」

「俺、帰ります・・・・」

「奏君、ちょっと、」

藪内は力なく「すみません」と言うと、病室を立ち去ろうとした。

しかし、クイッとシャツの裾を引かれ、足が止まる。

「・・・・・・渉?」

情けない掠れ声だ、と藪内は自嘲する。

よもや自分がこんな声を出すなんて、と信じられない気持ちになる。

「渉?」

「……なで、く…」

「!」

母親の呼び掛けに、渉が反応した。自分の名を呼んだ気がしたのは、やはり気のせいなのか。

クイッ、と再びシャツの裾を引っ張られた。待って、と言われた気がした。

「奏……くん、」

今度はハッキリと名前を呼ばれた。なのに、やはり体は動かない。まるで自分の体ではないみたいに。

「奏君」

母親が、藪内の前に立つ。息子の覚醒を喜んでいるように、涙ぐんでいる。

「おばさん、」

「渉が、あなたを呼んでいるわ」

「っ!」

「応えて、あげて。渉、喜ぶわ」

三度、シャツの裾を引かれた。早くこちらを見ろ、という催促なのか。

「渉……」

ようやく、体の硬直が解けて来た。さあ、振り返れ。幼馴染みの声に応えてやれ。

「奏くん、」

今にも逃げ出したくなるのを堪えながら、藪内はゆっくりと渉の方へ振り返る。

「奏くん」

振り返った先、幼馴染みの優しい笑顔があった。涙に濡れた目を、線の形に細めている。

「わた、る……?」

記憶が、戻ったのか。

嘘か現実か掴めず、藪内は恐る恐る幼馴染みの名を呼んだ。すると、幼馴染みは嬉しそうに一つ、頷く。

「ただいま、奏くん」

その言葉に、藪内の頭にはたった一つの行動しか思い浮かばなかった。

「……渉っ!」

「か、奏くんっ?」

藪内は、渉の細い体を抱き締めた。驚いた渉が粟を食ったように藪内の名を呼ぶ。

「渉、ごめん、本当にごめんな」

「ど、どうして・・・・奏くん、が、謝る、の?僕、奏くんの・・・おかげで“こっち”に、戻って来られたんだ・・・よ?」

「え?」

肩に手を置いて、一端、体を離す藪内。

そんな彼に、まだ話すことを辛そうにしながらも渉が言う。

「……もう、本当に駄目になりそうになってた時、奏くんの・・“声”が聞こえたんだ。―死ぬな、って・・・、僕を呼び止める・・“声”が」

にっこり、と微笑む。

「だから・・・僕は戻って、来られた。――――奏くんが謝る理由なんて、何もないよ」

その言葉に、藪内は不覚にも感極まってしまい、我知らず涙腺が緩んでしまった。

「か、奏くん・・?」

藪内の瞳からこぼれたものを見て、渉が目を見開く。

藪内が涙するのを見るのは、渉にとってもひどく久しぶりのことだったから。

「奏くん、どうしたの。何処か、痛いの・・?」

「ちげえよ!」

「っ」

驚いた渉が肩を竦める。

「・・・何でなんだよ、渉」

「え?」

藪内は渉から目を逸らし、懺悔するような気持ちで言う。

「・・・俺がお前に何をしてきたか、それも忘れたのかよ」

「・・・・・奏くん、」

「酷いことたくさんしただろ!お前、怪我しただろ、いっぱい傷付いたんだろ?」

出来るだけ声を抑えようとは思うものの、うまくいかない。もともと感情の抑制など得意ではないのだから。

「なのに!なんでそんな俺なんかのこと、そんなに・・・っ」

「嫌いになんてなれないよ」

渉が、静かな口調で言う。掛け布団の端を掴む手が、小刻みに震えている。

「・・・・確かに、奏くんが僕に対してしたことだって、忘れてなんてない。すごく悲しかったことも、忘れていない」

「だったら・・・!」

「でも!それでも、僕は、」

渉は、気圧される奏の顔を真っ直ぐに見つめながら、自分の想いを吐露していく。少しでも良いから、藪内に届いてくれることを信じて。

「奏くんのこと、嫌いになんてなれない。僕、知ってるから・・・奏くんが本当はとっても優しい人だって。本当は暴力なんか嫌いな人だって」

「・・・渉、」

「僕の中の奏くんは、いつまで経っても優しい奏くんだから。だから、どんな目に遭わされても、絶対に嫌いになんてなれない。奏くんは、僕にとって大事な人だから」

無我夢中の体でそこまで言った渉だったが、急に顔を真っ赤にして俯いてしまった。

「渉?」

「そ、その・・・誤解しないで欲しいのは、“大事な人”っていうのはその・・色恋っていう意味じゃないってことで・・、」

「はあ?そんなの当たり前だろ」

「そ、そうなんだけど、念のため・・・?」

「何で疑問系なんだか」

「・・・・・・」

ますます渉は顔を赤くして、茹蛸さながらのようだ。

「――――お前の気持ちは、分かった」

不意に藪内が漏らした言葉に、渉は俯けていた顔を彼の方へ上げた。

しかし藪内は固い表情をして、渉が欲しい言葉をくれないような気がした。

「奏く、」

「でも俺は、俺を許せない」

「そ、そんなこと・・・!」

渉が反論しようとすると、主治医が看護士を伴って病室へやってきた。いつの間にか、渉の母親が彼らを呼びに行っていたらしい。

(時間切れ・・・か、)

「失礼しますよ」

主治医が、診察のために渉のもとへ近づく。その邪魔にならぬよう、藪内はその場を離れた。

「待って、奏くん待って・・・!」

母親から記憶が戻ったようだと聞いたのだろう、渉が藪内の名前を親しげに呼んでも、主治医はいぶかしそうな顔一つしなかった。

「渉君、落ち着いて。診察させてもらうからね」

渉は数日前に腹部も刺されている。激しい体の動きや精神の混乱は良くない。

主治医は努めて穏やかな声を出す。

「大きく深呼吸して、」

しかし渉の大きな瞳は、不安そうに藪内の大きな背中を見ている。この場から藪内がいなくなってしまうことを酷く恐れているかのように。

「渉君」

「・・・・・・」

渉は悲しげに目を伏せ、俯く。

藪内の言った台詞が耳について離れない。

――――――――でも俺は、俺を許せない。

(そんなこと言わないで、言わないでよ・・)

キュッとリノリウムの床が音を立て、渉はハッと顔を上げた。

藪内の背中が、廊下へ消えようとしている。もう二度と会えない、そんな予感が胸に迫る。

(・・・・声が、出ない)

藪内を呼び止める声が、出てくれない。

渉の瞳に映る藪内の背中が、渉の声を拒絶しているように見えて。

(奏くんが、自分を責める必要なんてないのに・・・、)

思っているだけじゃ伝わらない、なのに、口は金魚のようにパクパクと開閉するだけで音は出ない。出てくれない。

藪内の姿が、完全に病室から消えた。

涙が溢れ出すのを、渉は止めることが出来なかった。








次回は謡に戻ります。

そのつもり・・・。

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