揺らぐ信頼と再会への階段
二時間の会議を終え、春樹と神楽は社長室に戻っていた。ソファーに腰を落ち着けた春樹に、コーヒーを淹れようとメーカーに近付いた途端に内線が鳴った。
「はい社長室です」
『お疲れ様です、総合受付の武藤です』
まだ若い女性の声。確か去年採用になったばかりの筈だ。
「どうしました?」
『社長はいらっしゃいますか?外線でお電話が入ってますが……』
「何処からですか?」
『それが、寿々城ホームの嶺近と言ってもらえば分かるの一点張りで……』
「!」
神楽が勢い良く振り返ると、春樹がどうした・と訊くように眉を片方だけ上げた。
「寿々城ホームの方から、お電話だと……」
「!」
春樹の顔が目に見えて強張る。
「春樹様、」
「出よう」
神楽から受話器を受け取り、
「私だ。繋いでくれ」
『あ…はい、分かりました』
内線から外線に切り替わる。
「もしもし、芝貫です」
『あぁ、芝貫さんっ。ようやく取り次いで貰えた……』
嶺近は、明らかに狼狽し声を大きく震わせている。
『…実は、楓様がホームを抜け出してしまったようで……っ、』
「!」
『職員が少しの間、目を離した隙に……今、職員も総出で探しているのですが、まだ見付からず…』
「春樹様?」
春樹の顔が明らかに蒼白になっている。神楽は酷く不安になって、春樹を呼ぶ。
「……警察へは」
『地元の警察に届け出ました。ですが、何の連絡も……』
「………」
『一度ご自宅にお電話しましたら、ご子息が出られて…ご自宅にも楓様からの連絡はないようで…』
「ご子息……謡…」
記憶を失い、精神的にも不安定な母親がホームから姿を消したと聞いた謡は、どう思っただろうか。
『私たちは全力で楓様を探します!とにかく、芝貫さんにはご連絡をと』
「………楓が、いなくなった?」
あんな状態で、何処に行くというのだ?
「!」
神楽が息を呑む気配が伝わって来る。
「楓……、」
『本当に申し訳ありません…っ。私たちがおりながら、楓様が出て行かれるのに気付かず……』
「謝罪は後で良い。早く楓を見付けろ」
こんな時まで高圧的な物言いになってしまう自分を恨めしく感じながら、春樹は嶺近に言う。
『は、はいっ。失礼しますっ』
春樹は無言で受話器を置いた。そしてソファーに座り直す。
「は、春樹様……」
神楽はコーヒーを淹れることも出来ず、突っ立っているだけだ。
「楓様が居なくなられたというのは……」
しかし春樹は神楽には応えず、呆然とした表情で机を見詰めているだけで神楽の方を見ようともしない。
「春樹様……」
「…………………」
春樹は何かを振り払うように、何度か首を左右に振った後で、ようやく神楽を見た。
「神楽、コーヒーを」
「あ、は、はい」
事情を説明してもらえるのかと思いきや、春樹の口から発せられたのはコーヒーの催促だった。
神楽は腑に落ちないものを感じながら、命令通りにコーヒーを淹れる。…いつもは心を落ち着かせてくれる香り高いコーヒー。だが今日はその香りを楽しめそうにはなかった。
神楽は意を決して、春樹に問う。
「……楓様が居なくなられたのですか?」
コーヒーを一口含み、春樹が微かに頷く。
「職員が目を離した少しの間に、抜け出したそうだ……何を考えているのか……」
それは、自分の妻に対する言葉か。
それとも、職員に対する言葉か。
神楽には掴めない。
「春樹様、」
「神楽、今日の予定は」
「……正午より、中央銀行の方々との会食があります。…キャンセルなさいますか?」
きっとキャンセルにするだろうと踏んで敢えて口に出したのだが……
「いや、予定通りに」
「!」
「何だ。納得出来ない、という顔だな」
神楽は動揺する。
「楓様のことは……」
「…ホームの人間が探しているし、警察にも届け出たそうだ。私がいても、何の役にも立たん」
「だ、だから仕事をされると?」
「自分の出来ることをするだけだ。私は何か間違っているか?神楽」
決然とした口調に、しかし神楽は動揺を隠せない。
「し、しかし……」
息子二人は、きっと母親を探している…神楽にはそんな確信があった。その確信に理由なんてないが、直感でそう思っている。
「………私には楓を見付けられる自信がない…そう言えば良いか?」
「そ、そういう問題では……っ」
何だ、このちぐはぐな会話は。神楽は焦る。
「…兎に角、会食は予定通りに行う。神楽、先方に余計なことは言うなよ」
余計なこと。
その言葉が、神楽の中から焦燥という感情を一気に奪い取った。心が冷えた。
目の前にいるのは、人間ではないと頭の片隅で囁くものがある。
“人の皮を被った悪魔”ーそんな言葉が脳裡を過る。…いや、一概にそんなことを思っては駄目だ。きっと春樹も愛する女性が失踪したと聞き、動揺し混乱しているのだ。
「……分かり、ました。予定通りに」
春樹が一度頷き、目を閉じた。その姿が、妻の安全を願う夫に見えるのは、自分の願望に過ぎないのだろうかと、神楽は思った。
脇坂晴美が、その女性に注意を向けたのは、やけに綺麗な人だなと思ったからだった。
「晴ちゃん?」
姉が晴美の視線に気付き、声を掛けて来た。
「お姉ちゃん、すごく綺麗な人がいるよ」
「晴ちゃん!人を指差しちゃダメでしょ」
妹を注意しつつ、姉も彼女の指の先を見た。
(?)
確かに綺麗な人だと思った。緩くウェーブのかかった黒髪、滑らかそうな白い肌、伏し目がちの瞳、整った顔立ち。自分にはないものばかりだ、と姉が嘆息していると、
「でも……なんだか、変」
晴美が呟いた。
「晴ちゃん?」
「なんか、すごくふらふらしてるし…それに、」
姉も、ようやく女性から感じる違和感に思い立った。
「靴、履いてないわね、」
そう、女性は裸足なのだ。細い剥き出しの足が道路をふらつく様は、ひどく痛々しい。
(何かに巻き込まれたのかしら、)
姉が危ぶんでいると、いきなり晴美が走り出した。
「晴ちゃん!?」
「ちょっとお話ししてみる!」
「ちょ、待ちなさい!」
姉の声を無視して、晴美は女性に走り寄った。荒い息のまま、
「あ、あの!大丈夫ですか?」
「………」
だが晴美に気付いていないのか、女性は晴美には反応せず歩き続ける。晴美は慌てて彼女の蒼白い腕を掴んだ。ひんやりとして血の気を感じられなかった。
「待ってくださいっ」
すると、女性の視線がゆるゆると自分に向けられた。やっと反応してくれた、と晴美がホッとしたのも束の間、
「うたい」
「え?」
「ちかい」
「………」
完全な片言で、しかも何を示しているのか分からず晴美は立ち尽くす。
「あなた、はるき」
「あ、あの…」
誰かの名前、だろうか。
晴美は虚ろな瞳の女性を、見上げる。
美貌を持ちながらも、年齢から来る老いは誤魔化しようがない。若く見て、三十八・九、多く見積れば四十代半ばくらいか。晴美くらいの子供がいても、おかしくないかも知れない……ちなみに晴美は高校一年生で、今日は先日行われた学祭の振替休日なのだ。
銀行員だが今日は休みの姉と、久しぶりに買い物に出た帰りにこの女性に出会ったのだ。
「はるきって、旦那さんのお名前か何かですか?」
「晴ちゃん!」
姉が咎める声を出す。
関わるな、という戒めなのだろう。しかし晴美は止めない。目の前の女性を放っておけそうにない。
「うたいもちかいも、お名前ですか?」
そうだとしたら珍しいな…と心の片隅で思いながらも、訊いてみる。だがやはり反応はなく、虚ろな眼差しを晴美に送るだけだ。
「わ、私の家が近くにあるんです。もし良かったら、休んで行きませんか?」
「晴ちゃん!あんた何を言ってんのっ」
「だって…」
晴美が姉を説得しようとすると、女性がまた呟く。
「うたいがないてる」
「え?」
「イタイイタイとないてる」
やはり“うたい”というのは人名なのだろう。いや、“ないている”というのが物の喩えならば、動物の可能性もあるか。
「うたいにあわないと。こわれるから」
全く抑揚のない口調でそう言い、女性はまた歩き出そうとする。
「そのままじゃ危ないですよ!」
「晴ちゃん、待って」
「お姉ちゃん!」
またも咎められたのかと思い、晴美は声を荒げたのだが。
「違うの、この人……前にテレビで観たことがあるような気がするの」
「え?」
「それに、はるき・うたい・ちかいというのが人名だとするなら……あ!」
「な、何?」
姉が何かに気付いたらしく、女性をビシッと指差した。先程晴美のその行動を咎めたのに。
「あなた、芝貫春樹の奥さん!?」
「えぇ?」
芝貫春樹。
今や日本になくてはならない一大企業である、芝貫グループ。芝貫春樹は芝貫グループの社長であり、時の人だ。その奥さんが、こんなところで一人、裸足でさ迷い歩いている?
「確か、芝貫楓さん……」
姉が呟いた名前に、女性が小首を傾げた。
「はい」
「返事、した!」
驚き、声を上げる晴美。
「やっぱり…。あの、お一人……ですよね?」
「うたいにあう」
芝貫春樹・楓夫妻には、二人の息子がいる。
長男・芝貫謡。
次男・芝貫誓。
謡と、誓。楓は謡に会わなければならないらしく、その為に歩き続けているのだろう。だが、正直に言って、今の楓の状態を見ていたら、無謀に見える。ますます放ってはおけない、と晴美は意気込む。
姉はそんな晴美の横で、携帯電話を取り出した。
「何処に掛けるの?」
「警察。一般人の私たちが取らなきゃいけない行動よ」
普通の状態ではない楓を、警察に保護してもらおうと考えたのだろう。当然と言えば当然の行動である。だが本音を言えば、晴美は謡に会いたいと思っていたのだ。
(すっかり忘れていた…)
確か自分がまだ小学校五年生くらいの頃だった。晴美はブラウン管を通して、謡を知った。父親に連れられ、テレビ局の取材を受けている姿を観たのだ。晴美と一歳違いだった筈だから、まだ彼も小学生だったはずだ。愛らしい顔立ちで、屈託無い笑顔を振り撒きながら父親のことがどれだけ素晴らしくて誇れる人なのかをゆったりとした口調で連ねていた。
可愛いらしい人だな、会ってみたいな、と子供心にも思ったものだ。
「あ、警察ですか?実は……」
しかしそれを今の姉に言ったところで、聞き入れられないだろう。自分は芝貫謡の実物に会えることはないだろう。
一人悶々としている横で、姉が通話を終えた。
「すぐに警察が来てくれるわ」
「うん、分かった」
女性は大人しく立ち尽くしているが、その間にも小さな声で、
「うたいにあう、うたいにあう」
と繰り返していた。
(こんな綺麗な人に、何があったんだろう……)
知りたいと思った。
謡に会いたいと思った。
だがその願いは叶わないと晴美は諦めてもいた。
その願いがすぐに実現されることも、知らずに。