母親のこと1
9月25日に、微妙に改稿しました。
早朝。
朝靄漂う街の、とある場所に、真反対の表情をした二人の女性がいた。
一人は真っ赤なリボンと片目の眼帯が印象的な、無表情な女性。
もう一人は、かなりいらだたしそうな表情をした女性だ。咽の奥が、唸るようにぐるぐると言っている。
「・・・何であんたがずっとそこにいるわけ?」
「決まってる。葉弓が下手なことをしない為だ」
無表情な女性ー楡乃木涼子の口調は、表情と同じで全くの平坦であった。不機嫌な女性が涼子の返答に、更に不機嫌になる。下から、涼子をギロリと睨み上げる。
「ウザい。今すぐあたしの前から、消え失せろ」
「無理。あなたが謡に手を出さない確証がない限り、私は消えない」
「……あたしが消してやろうか?」
朝っぱらから物々しいことを言われ、しかし涼子は涼しい顔だ。ちっ、と葉弓が舌打ちを残す。
「そんなにあいつが大事?」
そんな問いにも、涼子の表情は変わらない。
「そう思いたいなら、思えば良いよ」
「・・・・・・」
またも舌打ちを残し、葉弓は立てた膝と膝の間に顔を挟んだ。
「謡は、兄様とは違うんだよ」
くぐもった声だが、涼子の耳には確かにそう聞こえた。
「当たり前」
「だったら、なんでそんなに謡を大事にするの?あたしから守ろうとするの?・・・まさか謡を好きになったなんてことはないよね?」
「それはないな」
さらりと否定する涼子を、葉弓が顔を上げて疑わしい目付きで見上げる。
「……じゃあ、やっぱり兄様の“器”だから?」
「………そうかもね、」
伏せた瞳で、涼子が応える。
(要するに、こいつ自身がよく分かってないっつうことね……、)
「葉弓」
「何、」
「……悪いことは言わない。あの人のことは、諦めた方が良い」
途端、落ち着いていた葉弓が色めき立つ。立ち上がり、涼子の胸ぐらを掴む。涼子の色のない瞳が、葉弓を見る。
「どういう意味」
「あの人は、もういない。静かに、眠らせてあげたいんだ」
「いるじゃない!謡の“中”にっ!!」
「違う。“あれ”はもう謡だよ。あの人のように見えるだけだ」
「あんたはただ兄様を独り占めしたいだけだ!そうやって、昔みたいにあたしだけを除け者にする!!」
「葉弓、頼むから、」
葉弓は乱暴に涼子から手を放すと、
「あたしは、絶対に貴様を許さないっ!!」
そう吐き捨てて、一目散に駆け出した。
「……………」
追い掛けようとして、しかし涼子の足は止まってしまう。
(謡、)
やはり謡の自宅を張ったほうが効率は良さそうだ。昨日の今日だから、謡も学校に行こうとは思えないだろう。消耗は激しい筈だから。
(立ち直れる、かな)
立ち直って欲しい、と願っていることに、涼子は自分でも気付いていなかった。
……長い夢を見ていた気がする。
「……母さん?」
寝起きに、謡はそう呟いた。母に呼ばれた気がしたから。
しかし見慣れた自室の何処にも彼女の姿はなく、謡は力なく項垂れる。夢の名残か、頬が濡れた感触と鼻がぐじゅぐじゅになっていることに今更ながらに気付き、謡はティッシュに手を伸ばした。
(今、何時だろう……)
時計に目を遣れば、あと五分で朝の九時になるようだった。それだけ確認し、視線を下に落とす。家に、自分以外の気配は感じられなかった。
(当たり前、か……)
父は仕事に、誓も学校に行っていて当然の時間なのだから。
「………」
やはり起き上がる気力などなく、謡はベッドの中でだらりと弛緩する。
「母さん、」
無性に母に会いたかった。いつも、悲しく寂しい思いをしないために、心の奥底に封じている、母に。
(会いたいよ、母さん)
勿論、会うことは出来る。だが会ったとして、彼女は謡のことが分からないのだ。ただ悲しい気持ちになるだけだ。
『いつか必ず、謡が心から愛せる人が現れるわ』
(母さん、母さんは父さんを心から愛せていた?……僕を産んで、幸せだった?)
自分が過去形で考えていることに、謡は気付いていない。脳裡にちらつく母の笑顔を拒むように強く目を瞑るけれど、
『謡』
自分を呼ぶ声すら聞こえて来る。当然、幻聴だ。
「?」
不意に、微かな音が聞こえた。単調に響く、電子音。
「電話だ、」
親機は一階にあるが、子機が二階にある。
…しばらく経っても、音は鳴り止まない。
何か嫌な予感がして、謡は力の入らない体に鞭打って、ベッドから這い出す。すがり付くようにしながらドアを開け、壁に片手を付けながらゆっくりと歩く。情けない話、一人で真っ直ぐ立てそうにないから。
「っ、」
普段なら数秒で着くのに、今日は一分近く掛かったように感じた。
「は、はい……もしもし、」
嫌な予感はますます膨らむ。
『あなた、息子さん!?』
「えっ、あ、あの」
何処かで聞いたような声なのだが、咄嗟には分からなかった。
「どちら様、ですか?」
『あっ、失礼しました。……わたくし、寿々城ホームの嶺近と申します』
「!」
寿々城ホームという名称に、謡はハッと息を呑んだ。それは、記憶喪失になった謡の母親が、体力と精神を癒すために入っている医療施設だから。
(母さんに、何かあったんだ)
嫌な予感があたりそうな気配が犇々と犇めき、謡の精神を蹂躙しようとしている。
『お父様に連絡を取ろうとしたのですが、連絡がつかず・・・ご自宅に』
「は、母に何かあったのですか?」
頭に浮かんでしまうのは、“死”という不吉な一文字。
『・・・職員が目を離したほんの少しの間に、姿が見えなくなりまして・・・』
「!」
『今、職員総動員で付近を捜索していますが、まだ見つかっていません・・・』
ドクドクと、鼓動が激しくなる。
「母さんが・・・・」
一体何処に行ってしまったのだろう。まさか、死に場所を探して・・・・?
『警察にも連絡しています・・・ご家族の方に、お母様からご連絡は、』
嶺近の言葉が徐々に尻すぼみになる。自分がありえないことを言っていると思っているのだろう。
「ないです。・・・ありません、」
彼女の記憶の中に、自分のような矮小な存在はいないのだから。
『そうですか・・・。もし連絡があれば、こちらにも教えてください。わたくしたちも引き続き捜索いたしますので』
「はい、」
嶺近はでは失礼、と慌しい空気を背に挨拶をして電話を切った。
ツーツーという平坦な電子音が、謡の耳だけではなくて胸の中でも虚しく響く。自分を呼ぶ母の声が蘇る。
『謡』
「母さん、」
探さなければ。
母を。あの人を。
「母さんっ」
声を上げ、母を呼ぶ。
謡は電話を置き、部屋にとって返した。まずは着替えなければ。身支度を整え、母を探しに行くのだ。
そして、家に連れて帰る。記憶がなくても構わない。もう、離れるのは嫌だ。
(母さんが戻って来てくれたら、きっと父さんだって……昔みたいに)
喜んでくれる筈。笑って、くれる筈。
「母さん、何処に居るの……?」
着替えを済ませ、謡は家と自転車の鍵、財布、そして、いつの間にか部屋の机の上に置いてあった、父に没収されたはずの自分の携帯電話などの必要最低限のものだけを手にして家を飛び出した。
―――――父親によって没収された携帯電話が自室の机の上のあったことを、一切気にしないままで。