夢
「……………」
春樹にも誓にも見送られることなく芝貫家を辞した神楽と敦樹。
実家に帰宅する車内では、助手席に座った敦樹が小さな寝息を立てて眠っていた。
(……敦樹、)
赤信号にひっかかって停車している最中に、敦樹を見る。自室で眠っているであろう、謡の顔が自然に重なって、神楽は居たたまれなくなって敦樹から視線を外す。
誓に言われた言葉が気になって仕方ない。誓は何かを知っている。そう悟った。
(だが、あの様子では正直に話してくれそうにはないな……)
「兄さん……」
どうしても芝貫のことに向きそうな意識を、敦樹の自分を呼ぶ呟きが引き留める。
「敦樹、ごめんね……」
敦樹を、芝貫を取り巻く禍根に巻き込みたくなかったのに。敦樹の笑顔は、守り抜きたいと思っていたのに。怖がらせ、泣かせ、苦しい思いをさせた。全く守れなかった。
(兄貴失格なんだろうな…)
自虐的な笑みを浮かべる。また赤信号にひっかかる。
(僕は、誰も守れないんだ……)
そんな思いが、神楽の頭をぐるぐると巡っていた。
「誓、待ちなさい」
神楽兄弟を見送った後、自室に戻ろうとした誓を春樹が呼び止めた。
「親父、何?」
「…お前、何処まで知っている」
「………急にどうしたの?普段俺に興味なんてないくせに」
それは揶揄でもなんでもなく、事実として誓の中に居座っていた。自分の存在が、兄である謡のそれの足元にも及ばないことなど、幼い頃から知っていた。だから今はそれが普通になってしまい、なんとも思わない。思えない。
「………妙なことは考えるなよ」
誓の反問は無視して、春樹はそう言う。
「“妙なこと”?それは兄貴に関すること?」
「……………」
春樹は何かを推し量るように誓をじっと見つめていたが、またも誓の問いを黙殺してリビングに戻って行った。
(親父、何か感づいてる、か)
話は終わったと見なし、誓は階段を上る。二階に着くと、自分の部屋に入る前に謡の部屋のドアをノックした。
「兄貴?」
呼び掛けはしたが、兄からの返事はない。眠り込んでいるのだろう。誓は静かにドアを開けると、電気の点いてない部屋に体を滑り込ませた。穏やかな寝息が、耳に届く。そっとベッドに近づくと、謡は壁を背にして眠っていた。泣いたのか、枕元に触れると微かにひやりとした。
「兄貴、」
不意に思う。
昔はただ純粋に兄を慕っていたのに、いつからだろう…兄が悲しんだり辛い気持ちになることが普通になり、それを望むようにすらなったのは。
「切っ掛けなんか、なかったのかもね……」
殆んど口の中だけで呟く。兄を起こさないよう、そっと。
「良い夢、見なよ」
兄にとっての良い夢とはどんなものかと考えながら、誓は静かに部屋を後にした。
…あぁ、これは夢だ。
誓がまだ小さいから。
『お兄ちゃん、誓ね、お兄ちゃんのこと大好きだよ!』
『僕も誓のこと、大好きだよ』
『本当?嬉しいな〜』
無邪気な笑顔に、心が暖まる。繋いだ手の温もりは今でも忘れていない。
『兄貴』
誓が謡のことをいつから“兄貴”と呼ぶようになったのかは明確には覚えていない。
これといった契機はなかったように思うけれど、何か寂しい気持ちになったことだけは覚えてる。そんなのは自分だけだろうか。
『謡も誓も、お母さんとお父さんの大事な子どもよ』
不意に、中学の制服を着た誓の横に母さんが姿を見せた。忌々しいあの事故の時の格好で。
優しい笑顔に、胸が締め付けられる。
『謡、愛してるわ』
母さんはそう言うのに、その姿はどんどん透けて行く。まるで、霊体が天に召されるかのように。
母さん、待って!!
どうにかして母さんを止めようとするのに、母さんは笑顔を浮かべたままで透けて行く。
制止の声が、全く出ない。声を無くしてしまったのかと愕然とする。
『誓と、あの人と、仲良くね』
それは、まるで別れの言葉。
『謡、』
その先の言葉が聞きたくなくて、手で耳を塞ごうとする。
でも、手だけでなく体自体が動かない。
『お母さんは、もうあなたに会えないけれど』
嫌だ、止めて・・・!
『・・・ずっと、あなたを見守っているわ』
その姿は、完全に透けて見えなくなった。それにつられるように、誓の姿も透けて行く。
『兄貴』
誓が何か言いたそうに口を開くけれど、その先は言葉にはならず・・・・誓の姿も完全に、消えた。
まるで人など最初からいなかったかのように、真っ白な空間が目の前に広がるばかり。
母さん、誓?
ようやく出るようになった声で二人を呼んでも、返答どころか物音一つしない。
虚しさに体から力が抜け、へなへなとその場に座り込む。
母さん、誓・・・待って、僕を置いて行かないで・・・
『謡』
自分しかいないと思っていた空間に、誰かの声が響いた。
母さんでも誓でも、父さんでもない。
『何座り込んでるんだ。弱虫だな』
呆れたような、それでいて心配そうな女性の声。
『立ちなさい。しっかりしなさい。男でしょう』
耳元に、風を感じた。誰かの息遣いを、感じた。
『謡』
目に入る、真っ白な眼帯と、大きなリボン。
楡乃木さん。
相変わらず無表情で、何を考えているのか分からない。
『何泣いてるの。ほら、泣くのは止めなさい』
楡乃木さんは、いなくならない?
『何を言ってるの。誰も謡の前から居なくなってなんかいないよ』
だって、今さっきだって母さんと誓が消えた!透けてしまった!
『消えてない。謡に、見えていないだけ』
分からない!楡乃木さんが何を言ってるのか、何を考えているのか分からないよ!
『そんなことはないだろう。本当は、分かってる』
分からない、分からない、分からない!
そうやって煙に巻いて、楡乃木さんも消えるんだ。僕を置いて、消えるんだ!
母さんと同じで、優しい笑顔を浮かべて僕を置いて行くんだ。
父さんも、母さんも、誓も・・・・本当は思ってる。
僕なんて、“芝貫謡”という存在なんてあってはいけないと。あるのが可笑しいと。
楡乃木さんだってそう思ってるんでしょう!僕なんて、必要ないって思ってるんでしょう!
楡乃木さんの表情は変わらない。
その輪郭も徐々に不透明になる。
ーーー消えてしまう。
この人も、消えてしまう。
それが分かると、胸が抉り取られるような痛みに襲われる。
母さんや誓が消えたときの痛みより、深い気がする。
まるで、母さんや誓よりも長く同じ時を過ごして来たかのような。
楡乃木さん!
不安な気持ちを悟ったのか、楡乃木さんがその顔に微かに笑みを浮かべた。
『・・・・大丈夫。私は、あなたのそばに』
え?
『ずっと、あなた様のそばに・・・・・』
“あなた様”。
楡乃木さんが、僕のことをそう呼んだ。
『遥か昔から、私はあなた様のことを見守っています』
その言葉が終わると同時、楡乃木さんの姿も完全に消えてしまった。
その瞬間、脳裡がざわついた。
誰かが、僕を呼ぶ声がした。それと同時、頭を殴られたような激しい衝撃を感じて・・・
謡は真っ白な世界で、意識を失った。