苛め(いじめ)
会社は大きく裕福な暮らしが可能ではあるが、今謡が家族と暮らしている家は何処にでもある二階建ての一軒家である。少し大きいくらいで、内装が華美であるといったこともない。
「なあ兄貴〜」
そんな家のリビングに、謡と誓はいた。
「何、誓」
誓はクリーム色のソファーにだらしなく凭れてテレビを見ており、謡は誓の弁当箱を洗っていた。
「明日は学校行くの?」
何気無い問い。誓に他意がないことは、今まで一緒に生きてきて十分に分かっている。謡は微かに眉を顰めたが、返す声は落ち着いていた。
「……そのつもりだよ」
下駄箱に入っていた、脅迫文めいていた手紙は部屋の机の引き出しに突っ込んだまま。教科書の間に挟まれていたカッターナイフの刃は未だに謡の記憶の中で鋭い光を放っている。誓はそっかぁ、と気の抜けた口調で言い眠そうに目を擦った。
「ご飯出来たら呼ぶから、少し休んでたら?」
「ん〜、じゃあそうする………」
誓はふらふらと立ち上がり廊下とリビングを繋ぐドアのノブに手をかけた。そして何かを思い出したかのように、
「あ」
と呟いて謡を振り返った。謡はどうしたのかと誓を見返す。
「どうして兄貴はそんなに我慢するのか、俺には不思議なんだけど〜」
「!」
「んじゃ〜、料理よろしく〜」
動揺して皿を取り落とした謡には構わず、誓は弛い感じで笑ってリビングを出て行った。
「……我慢、か」
いい得て妙な弟の言葉に、謡は微かに自虐的な笑みを浮かべた。
「今日も芝貫、来なかったなぁ」
謡と誓が学生としての籍を置いている学校ー私立鵬命学園高等部の二年E組の教室。
そこにはまだ四人の男子生徒が残っていた。
有名私学ということで校則も厳しいためかこれと言って制服や髪型に手を加えているわけではないが、あまり普段の生活態度が良いとは思えない印象の生徒ばかりだ。特にその内の一人は目付きが鋭く気の弱い人間ならば一睨みされただけで腰砕けになりそうなくらいだ。その彼ー藪内奏はふんっ、と荒い鼻息をはいた。
「あれだよほら、あの剃刀事件。あれやりすぎだったんだよ」
舞田孝治ー身長が高くやけに細いーがケラケラと声を立てて笑う。
「確かになあ。芝貫の奴、顔真っ青にしてさぁ。ありゃあ最高だったべ」
「俺も見た。いっつも澄ました顔してる奴が泣きそうな顔してんの。笑えたなぁ」
舞田に、倉橋祐介ー恰幅がよく背は低いーが追従する。
「なぁ、渉もそう思うだろ?」
四人のうち最後の一人、藍田渉ー小柄で中学生くらいに見えるーは、ビクッと体を震わせたが、小さく頷く。
「う、うん……」
「おい渉」
「!な、何、」
藪内奏に呼ばれ、渉は顔をはねあげた。
「お前、裏切るつもりじゃないよな」
「…!」
「?何の話だ?」
舞田たちが興味津々、といった感じで割り込むが、藪内の視線は一瞬たりとも渉から逸らされない。渉は怯えながらも藪内の視線から逃れられないでいる。
「俺の知り合いがな、お前と芝貫が話してるのを見たって言っててな。随分楽しそうだったそうじゃないか」
藪内が腰かけていた机から立ち上がり、渉に近づいていく。渉はそれに気圧されるように下がろうとするが、舞田と倉橋に肩を押さえられる。藪内が近づいて来る。渉は必死で首を何度も左右に振る。
「ち、違うよ。あれはたまたま、」
「たまたま、なんだ」
高い位置から見下ろされ、渉は息苦しさに俯く。藪内の視線が痛いくらいに渉の心をさす。「そ、れは…その、」
頭がうまく回らない。渉は目の前で膨れ上がる苛立ちの気配に身を竦ませた。
『僕といたら、君まで苛められてしまうよ』
そう言って悲しげに笑う芝貫謡の顔が思い出されて、渉は更にどう言い訳をしたら良いのか分からなくなる。それでも何か言おうとしかけたが、
「…もう良い」
苛立ちの気配は一気に収縮し、渉から離れた。顔を上げると、藪内はもう渉を見てはいなかった。
「お前がそういうつもりなら、俺にも考えがある。舞田、倉橋、帰るぞ」
「あ、ああ」
妙な空気に気後れしながらも、舞田と倉橋は藪内に従う。
「……………」
残された渉は、へなへなと腰を抜かした。
「どうしよう、」
謡への苛めは激しくなる。渉はその予感を感じていた。
「………」
煮物を似ている間、謡はキッチンから出て自室に入っていた。机の引き出しを開け、奥のほうに仕舞っていた“それ”を震える手で掴み、四つ折りの状態を解いた。吐き気を催しながら、ゴシック体の黒で書かれた文面に目を落とす。
『死ね、死ね、死ね。死なないと、どうなるか分からないぞ。お前も、家族も、友人も』
誰が何のためにこんな手紙を自分に寄越したのか、謡には見当が付かなかった。
父は確かにワンマン経営者として知られ、社員を不要だと思えばバッサリと切り捨て、非合法すれすれのことも沢山していた。
だが息子である自分にまで敵意を持つものなのだろうかと思ったりもした。
だがそれが思い上がりだったことを、謡はすぐに知ることになる。
教室にいると、時たま感じていた悪意。嫉妬心。それが破裂したように感じたのは、先週の月曜日のこと。たまたま土曜日に忘れて机の中に置きっぱなしになっていた英語の教科書を開いた瞬間、人差し指に走った激痛に、謡は目を剥いた。何と、そのページの下部にカッターナイフの刃が貼り付けられ、それが謡の指に刺さったのである。痛みは指だけでなく、心にも広がった。顔が青ざめていくのが自分でも手に取るように分かった。しばらく謡は動けず、一年の教室から兄に漢和辞典を借りに来た誓に声をかけられるまで指から溢れる血も垂れ流しのままだった。
(…傷は塞がったはずなのに、まだ痛い)
刺さった痕は残っているものの、傷は塞がった。なのに、今もじくじくと痛むことがある。今手にしている手紙を思うときも。
「………」
クラスメイトの中に、自分に悪意を持つ者がいることは明らかだった。でもそれに立ち向かう気が、謡にはどうしても起こらないでいた。