過去〜藪内奏と藍田渉3〜
藪内と渉の過去話。ほんの少しですが痛い表現あり。
面会時間ぎりぎりの時間まで来てしまい、藪内は帰らなければならなくなった。
だが、
「渉、頼むから放してくれ。もう面会時間が終わっちまうんだ」
渉が藪内の指を掴んだまま、放そうとしないのだ。眠りに落ちていても、目覚めていても。
「・・・・・渉、頼むから。また明日、来るから」
指を掴む力は決して強くはなく、寧ろ弱々しいほどだ。だがその手をこちらから放すことは、出来そうにない。
「お前、本当に記憶無くしてるんだよな?」
少しの嫌味を込めて聞いてみると、ただ透明な笑みが返ってきただけだった。
「・・・・・・どっちなんだよ」
はあ、と肩を落とす。
「今まで散々苛めてきたから、その仕返しってか?」
そう呟いた時、昔は逆に守ってたんだよなぁという感慨とともに、ある過去が脳裡を過ぎった。
「面会時間終了まであと十分余りか・・・。少し、昔話でもしてやるよ」
「?」
不思議そうな顔をする渉の手をギュッと握り、藪内は残された時間で過去語りを、始めた。
・・・・・あれは俺たちが中学一年の頃だったと思う。
その頃、俺と渉は同じクラスで毎日一緒にいた。そしてそれが当たり前の日常だった。
俺はそのときからはねっ返りで喧嘩っ早く、渉もガキの頃から大人しくて俺の後ろに隠れてばかりいた。
・・・その日も俺たちは一緒に帰る約束をしていたが、ある先生に呼び出された俺は、俺を待ってるという渉を教室に残して職員室へ行った。
そして時間も五時という時間になって、ようやく俺は先生から解放された。成績は悪い、宿題は真面目にやって来ない。つまりはお説教をされた訳だ。
『もう五時じゃんか!渉、待ってくれてるかな』
三階にある自分の教室へ走って向かう。
『渉!お待たせ!』
勢い込んでドアを開けたは良いものの、渉の姿はなかった。待ちくたびれて帰ったのだろうか、と俺は残念な気持ちになったが、あるものを見つけてその考えを打ち消した。
『これ、渉の?』
肩掛け鞄が無造作に転がり、開いた口からは渉の筆箱が顔を覗かせていたんだ。
・・・なんだか心の中が不安で占められたように感じた。
『渉!?』
渉に何かあったんだ。俺はすぐにそう気付いた。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。
俺は渉の鞄を肩に引っ掛け、何か手掛かりがないかと周囲をキョロキョロ見回したけど、手掛かりになりそうなものは見付けられなかった。
こうしている間にも、渉が危ない目に遭っているのじゃないかと不安で不安で仕方なかった。俺は同級生と揉めることが時たまあり、睨まれても居た。そいつらがいつも俺の影に隠れている渉に目をつけても、おかしい話ではなかった。……先に帰ってもらえば良かったのだろうかと後悔もした。
でも後悔してばかりはいられない。俺は教室を出ると、まだ残っている奴が近辺の教室にいないかと探すことにした。
『そろそろ帰るかぁ』
『だね』
運良く、今から帰ろうとする二組の二人に出くわした。
『佐野!』
『?あれ、藪内まだ残ってたの?』
片方は時々帰りが一緒になる佐野という男子だった。
『あ、あのさっ、渉知らないか?』
『藍田?いや、知らないけど……脇田、知ってる?』
横にいた脇田という女子が、
『藍田君?……あ、そう言えば、』
『な、なに?』
『さっきトイレに行く途中で、五組の永沢君といるのを見たよ?』
『永沢!』
そいつは俺とよく喧嘩をし、睨み合っている奴だった。時々渉にちょっかいを出すから、その度に追い払っていたんだが。
『でも別に変なとこはなくて、二人でお喋りしてるだけだったよ?』
脇田はその後のことは知らないと言う。俺は嫌な予感に襲われながらも、二人に礼を言い走り出した。
『藪内、どうしたの!?』
佐野の呼び声は無視した。もう学校にはいないかと思ったけど、全ての場所を巡らなければ気が済まなかった。何処かに閉じ込められているんじゃないかという思いで一杯だった。
『渉、何処だ?!』
『こら藪内。廊下は走るな』
俺を説教していた教師に廊下でばったり出くわした。
『せ、先生!渉、見てない!?』
『藍田?いや、見てないけど。どうかしたのか?』
『・・・・見てないなら、良い』
そう応えた瞬間、いきなり構内放送のメロディが流れた。この時間帯だから、教師の呼び出しかと思ったが、次に聞こえて来た言葉に、事務室へ猛ダッシュをしていた。
『一年一組の藪内奏君、藪内奏君。電話が入っています。校舎内にいたら事務室まで来てください』
『!』
きっと渉からの電話だと俺は思った。
『だから廊下は走るな!』
『先生、ごめんっ!』
形だけの謝罪をし、俺は事務室へ急いだ。
『すみません!一年の藪内っすけど!』
『電話だよ。同じクラスの藍田君』
本来そういう電話は受けないのか、事務員はいい顔をしてはいない。それでも俺は礼を言って、電話に出た。
『渉!?』
『か、奏君』
今にも泣き出しそうな、細く震えた声。絶対何かあったのだと、俺は直感する。
『渉、今何処だ!?すぐ迎えに行く!』
『だ、駄目っ、来ちゃ駄目・・・・・っ!』
『渉!?』
切羽詰った俺の声に事務員が怪訝そうな視線を向けてくるが、そんなものに構ってはいられない。渉の身を案じながら、俺は受話器の向こうに耳を澄ませた。
『余計なこと言ったら、殺すぞ』
そんな言葉が、微かだが確かに、聞こえた。永沢の声、ではないが・・・・・。
『お前、誰だ』
『もしも~し、かなでくん?わたるくんが心配ならさ、これから言う場所に一人で来てよ』
遠くから、渉の悲鳴のような声が聞こえた。受話器を持つ手が、ぶるぶると震えた。
『・・・・渉に何かしてみろ。絶対に許さねぇ』
『はいはい。御託は良いから、黙って聞いてて。メモの準備しなくて良い?』
『さっさと言えよ!!』
げらげらと笑う声が疎ましい。
相手が軽い口調で言う場所を頭に叩き込み、俺は学校を飛び出した。
『渉!渉!!』
俺が呼ばれた場所は、中学からは十分くらい離れた廃工場だった。ドラム缶が縦横無尽に転がり、曇り硝子には蜘蛛の巣があちこちにある。
『渉!!』
『・・・・・・なで、君』
『!渉!!』
ドラム缶が一番密集している場所から、傷だらけの渉が這い出して来た。
『渉!』
俺は全速力で渉のもとへ走った。
だが、
『あぁっ!!』
『渉っ!』
ドラム缶の影に隠れていたのだろう男が、俺より早く渉に接触し渉の髪を引っ掴んだ。渉が痛みに顔を歪める。
『おっと、動くなよ。藪内奏・・・大事な大事な幼馴染に怪我させたくなけりゃなぁ』
『くそが!渉は関係ないだろっ』
この男はきっと永沢の知り合いだと俺は検討がついていた。
『永沢!!出て来い!俺がむかつくなら俺を殴れば良いだろうが!!渉を巻き込むな!!!』
『かな、でくん・・・・』
ぼろぼろと、渉が涙を零す。それに気付いた男が愉快げに吹き出す。
『お呼びですよ~?お前らできてんじゃねえの?』
『!てめっ』
俺は思わずそいつに殴りかかろうと思ったが、男が渉の咽下にナイフを突きつけるのを目にして思い留まった。男の目は一切笑わず、加えて一切の動揺もなく、ただただ他者を傷付けることに対して愉悦を感じていることを俺は悟ったのだ。迂闊に動けば、必ず渉は傷付けられる。
『・・・・俺を、どうしたいんだ。どうしたら、渉を解放してくれるんだ』
『だそうですよ。永沢?』
そう男が呼びかけた瞬間、
『ただ殴られてろ』
『永沢っ!』
どうやら永沢は外にいたようだ。いつものように着崩した制服姿で中に入って来ると、汚らしいものでも見るような目つきで、俺と渉を等分に見遣った。
『男のくせに泣きやがって』
理不尽な言葉を渉に投げ、ついで俺に歩み寄って来る。
『で、お前は大事な幼馴染を助けに来た、と』
『・・・・・悪いかよ』
『悪かねぇよ。お陰で俺はお前を好きなだけ殴ることが出来るんだからな』
俺の目と鼻の先で立ち止まると、永沢は俺の腹にパンチを叩き込もうとする。
俺は条件反射的にそれを往なそうとするが、ナイフを突き付けられたままの渉の姿が視野に入り、体が硬直する。
『奏君、避けてっ』
無理だ、渉が傷付くと分かっていて永沢の拳を避けるなんて出来ない。
『っ、』
『バカじゃねぇの?他人のために自分が痛い思いするなんて』
次は両頬に拳が飛んで来る。渉の『避けて』と懇願する声。そんなの無理だ、と俺は思う。
『ぐぁっ!』
また腹に拳が入り、俺は思わず膝を着いた。
『奏くっ、止めて、もう止めてよっ!!』
自分も怖いだろうに、渉が声を上げて必死に止めさせようとしてくれている。場違いだが、それが嬉しかったりする。
『渉、良いから……』
『奏君っ、』
『もうちょっとだから、な?』
渉が涙をぼろぼろ零しながら、嫌だ嫌だと譫言のように繰り返す。
『っねが、お願いだから、もう止めて下さいっ、永沢君、お願いだからっ』
俺を痛め付けるのを中断した永沢が、渉をじっと見下ろす。渉も永沢を見返す。
『永沢、渉をこれ以上傷つけたら……マジで許さねぇぞ……』
永沢の片足を掴んで威嚇するが、もう片方の足が俺の頭を蹴り上げた。
『がっ……!』
『かっ、奏君っ!!』
『永沢ぁ、さっきからこいつ、奏くん奏くんって煩いんだけど?それに俺はいつまでこのままな訳?いい加減飽きたんだけど』
男がナイフをぶらぶらさせながら、ぼやくように言う。永沢はふん、と鼻を鳴らすと、
『詰まんないことに付き合わせてすんません。なんか奢ります』
『おっ、じゃあ俺、帰って良い訳?』
『はい。もう気ぃ済んだんで』
『りょ〜かい』
男は急にニコニコと微笑むと、雑に渉を突き放した。
『っ!』
『わた、る……』
永沢はもう俺たちには一切の関心を無くしたのか、男と一緒に去って行く。
『かな、奏くんっ』
渉が必死の形相で俺の方へ膝這いで寄ってくる。
『何で、何で、避けないのっ?奏君なら絶対勝てるのにっ』
腹やら顔やら殴られ蹴られして辛い俺に言う台詞かよ、と俺はおかしい気持ちになる。
『なっ、なんで笑うの……?こ、こんなに心配してるのに、バカ、バカッ!』
不安と心配の裏返しだとは分かってはいるんだが。
『……渉も、大丈夫か?』
『え?』
『お前も殴られたんだろ?ここ、腫れてる』
口端が赤くなり腫れている。抵抗しないように殴られたのだろう。
『切り傷だって……。痛かったろ?』
『ぼっ、僕は平気だよ!奏君が必ず助けに来てくれるって、信じてたし……』
『………』
『そ、それに殴られたって、言っても、大したこと、ない、し……っ、奏く、に比べた、ら全然っ』
うぅっ、と最後には詰まり、
『………こわかっ、怖かったよっ、永沢君も、だけど……一緒にいた人も、冷たくて、言うこと聞かないと、殺すって、お前も、奏君も、って言われてっ…、』
止まっていた涙を再び流しながら、渉がつっかえつっかえながらも自分の気持ちを吐き出していく。
俺はそんな渉の手を引き、頭を撫でてやる。
『……奏君に、迷惑掛けたくなかった、けど……、』
『バカ渉。お前のことを迷惑なんか思ったこと、ねぇよ』
苦笑した拍子に、ズキッと殴られた頬に鋭い痛みが走った。
『か、奏君っ?大丈夫!?』
『平気平気……っ、早く帰るぞ、』
『ぜ、全然平気そうに見えないよっ』
『良いから。……それに早く帰らねぇと、お前の母さん心配してるぞ』
『奏君……、』
『おばさんには俺から適当に説明する。渉は俺に合わせれば良いから』
俺は一度渉の頭を撫でると、痛みを堪えながら立ち上がった。渉もふらつきながらも自分で立ち上がった。
『奏君、あの……ありがとう、助けて、くれて……』
『バカ。気にすんな』
俺は渉の鞄を突きだし、持つように促す。
『これ、僕の鞄……』
『教室にあったから、持って来た。また学校に取りに帰るの、面倒だろ?』
『あ、ありがとう……』
『別に』
とにかく早く帰ろう、と渉に言い、まだ心配そうに俺を見上げて来る渉とともに廃工場を後にした。
「渉のお袋さんに、渉が傷だらけになった理由とかさ説明するの大変だったんだぜ?……まぁ俺のせいでそうなったんだから、迷惑とかは思わなかったけどな」
あの時は本当に焦って不安で、渉にもしものことがあったらと怖くて怖くて仕方がなかった。
「……随分長く話しちまったな。疲れたろ」
渉は話し始めた時から全く表情を変えず、ただ無心に藪内の顔を見つめている。
「渉、俺のせいで一杯危ない目に遭ったよな……。ごめんな」
「………………」
渉がおもむろに口を開いた瞬間、
「すみません、面会時間が終わりになります」
看護師が顔を覗かせ、藪内に声を掛けて来た。
「あ、すみません。今、帰ります」
藪内がそう言うと、渉ももう引き留めるのは無理と分かったのか掴んだままだった藪内の指を放した。
「明日、また来るから」
「………うん、」
期待していなかった返事を貰えて、藪内は嬉しくなる。
「じゃあな、お休み」
「……お休み、なさい」
藪内は看護師に礼をし、静かに渉の病室を後にした。
……全く思い出せなかった。それがひどく申し訳なくて、渉は萎縮してしまう。
「藍田さん、体温計りますよ?」
看護師さんに言われ、体温計を脇に挟む。
「疲れた顔、してますね。今は何も気にせず、ゆっくり休んで下さいね」
「……………はい」
看護師に返事をし、渉は目を閉じた。
藪内奏の悲しげな顔を、脳裏に思い描きながら。