歪(ひず)み
やっぱりなぁ、と玄関に足を踏み入れながら誓は眉を顰めた。
(……嫌な空気だ)
玄関に並んだ靴を何気無く見て、神楽の革靴に気付いた。
(鳴沢の所からこっちに帰って来たのか。……どんな気分なんだろうな)
まあ、自分はいつも通りへらへらしてれば良いだけだ。誓は自分にそう言い聞かせ、いまだソースの味の残る舌で唇を軽く舐めた。
「お帰りなさい、誓様」
ダイニングから神楽が出て来た。
「ただいま。神楽さん、来てたんだ」
へらりと笑い、既に知っていたことを今初めて知ったかのように装う。
「はい」
(……俺が何も知らないと思って、平常心を装ってるか。こいつも結構な狸だよな)
今更か、と誓は思わず呟く。
「誓様?」
「あ、何でもないよ。……兄貴、今“勉強会”中だけど、会えたの?」
「……いえ、」
明らかな動揺の色が、神楽の秀麗な顔に表れる。だが誓はそれに気付いてないフリをして、
「親父は?」
「あ、あちらに」
「そう」
誓はダイニングへ移動すると、ソファーに座っている父親に帰宅の挨拶をする。
「ただいま、親父」
「………ああ」
“お帰り”という言葉を春樹の口から聞かなくなったのは、いつからだったか。不意に誓はそんなことを思ったものの、どうでも良いかとすぐに考えるのを止めた。誓は冷蔵庫へ行くと、自分専用のお茶のペットボトルを取り出した。
「誓様、御夕食は、」
「大丈夫。友達と食べて来たから」
「そう……ですか」
「神楽さん何かあったの?」
「……え?」
「気のせいかも知れないけど、何だか顔色が悪いような気がしたから」
さあ、どんな反応をする?と思いながら、神楽の応えを待つ。
「……誓様の気のせいですよ。きっと」
笑みすら浮かべてそう言われた。
「そっか。なら良いんだ」
「誓」
いきなり春樹が名前を呼んだ。
「何?」
「席を外せ。神楽と重要な話がある」
春樹は誓の“裏”を知っているのかいないのか、いつも通りの平坦な声音でそう言う。
「はいよ」
だいたい何を話すのか検討ついてるけどさ、と背を向けた拍子に舌を出す。
「じゃね、神楽さん」
「はい。お休みなさい」
「うん」
誓はへらへら笑いを貼り付けたまま、ダイニングを出た。二階には行くが、すぐに自分の部屋に入りはしない。
先に向かう場所がある。
「・・・・・・・」
二階に辿り着くと、誓は一度階下を見下ろし神楽がドアを閉める音を聞き、目的の部屋のドアをノックした。
するとドアの内側から、兄のものではない少年の、か細い声が応えた。
「・・・・・・・兄さん?」
鍵の回る音を聞き取り、誓はさっとノブを掴むと思い切りドアを開けた。
「こんばんは」
「!?」
初めて見る相手に驚いたのだろう、少年が怯んだように一歩退く。
「だ、誰ですか?」
誓はにっこりと微笑んだまま、言葉を発さずに少年に手を伸ばす。
「!」
ビクッと体を震わせて、少年が目を瞑る。今日起こった出来事が彼にそうせしめているに違いない。
「敦樹、く・・ん?」
「謡さん、」
どうやら兄である謡は目を覚ましているらしい。誓が少年・神楽敦樹を押し退けるようにして部屋に入ると、ベッドで横になっていた謡が誓の名前を呼んだ。
「・・・・・・・・誓、お帰り」
「ただいま、兄貴」
敦樹が戸惑いを含んだ瞳で自分を見上げてくるのが分かる。
「兄貴、この子は?」
寝たまま話すことに抵抗があったのか、謡が体をベッドから起こそうとするのを敦樹がかいがいしく支える。その様に、誓は内心で吹き出した。
(・・・ホント、兄貴は年下を手懐けるのが巧いな・・・)
「ありがとう、敦樹君」
「あ、い、いえ・・・」
白い頬が、微かに赤みを帯びる。
「誓、紹介する。神楽さんの弟さんの、神楽敦樹君」
敦樹が上目遣いで誓を見て、恐る恐るといった体で頭を下げる。蚊の鳴くような微かな声で、
「か、神楽・・・敦樹です」
と名乗った。
「敦樹君ね」
明らかに彼の物ではないぶかぶかのパーカーのせいで少ししか見えない指が緊張に揺れているのが分かった。
「別に取って食ったりしないから、そんなに怖がらないでほしいな?」
「……………はい」
たった二文字の言葉ですら語尾が萎んでしまう。かなりの人見知りか、対人恐怖症か。
(……でもこういう人間て、意外と他人の性質を見抜くのが巧かったりするから、注意が必要……だな)
「誓?」
黙り込んでしまった弟を心配してか、謡が呼んだ。
「え?」
「何だか難しい顔、してるから……」
「え、そう?」
へらり、と笑う。
「まあ、何はともあれ、兄貴の“勉強会”はなくなったんでしょ?」
「え?」
「?だって敦樹君はこの部屋にいるわけだし。“勉強会”中は誰にも会っちゃいけないだろ?」
「あ、う……うん、」
そうなった経緯を充分に知りながら、そして謡が動揺するのを知りながら、誓は無邪気に話す。
謡を揺さぶりたい、という幼い頃からの歪んだ想いは、ずっと自分の中で燻っている。
(兄貴は親父を恐れてはいるけど、俺に対してはさほどでもない。信頼、まではいかないだろうけど……。でももし、弟の俺が親父以上のえげつない性格って分かったら、兄貴はどう出るかな……?)
父親に怯える顔が、自分にも向けられるのだ。
(考えただけで、ぞくぞくする。兄貴が、泣いている姿を見たいんだ……)
自分がどれくらい歪んでいるかなんて、充分に承知している。だからこそ、兄のそばにいるのが楽しいのだ。
「それに、何で神楽さんの弟さんが居るの?神楽さんも親父と難しい顔してたしさぁ。今日、何かあったの?」
「あ、……うん、まぁ色々、ね…」
知ってるから洗いざらい話しても大丈夫だよ、と言ってやりたい。そうしたら謡はどんな反応するだろうか。
「ふうん?あ、敦樹君は俺が面倒見てようか?」
「っ」
急に話題が自分に向かったからか敦樹がぴくりと肩を揺らした。
「誓が?」
「何か兄貴、顔色悪いし早く寝た方が良いと思うから。あ、敦樹君は兄貴のほうが安心出来るか」
「え、あ、えっと……」
敦樹が返答に困って、謡の顔を窺う。
「敦樹君の思うことを言ってくれて良いんだよ」
「は、はい。……謡さんは、休んで下さい。うちは、もう大丈夫ですから」
「じゃあ決まりだね。敦樹君」
「はい」
「兄貴はもう寝るんだよ?」
「分かったよ、誓」
謡は苦笑すると、再びベッドに横になった。疲れが溜まっているのだろう、すぐにうとうとし出す。
(それに、目の前で人間が撃たれるのを見たんだ。精神的に参ってるに違いない)
「謡さん………」
敦樹が聞こえるか聞こえないかくらいの声で、謡の名を呼ぶ。その姿が、神薙愁に似ていて、
(……笑える)
のだ。
「じゃあ兄貴、お休み」
「……ん、…すみ」
直後、すうすうと安らかな寝息が聞こえて来た。もう眠りに落ちたようだ。
「敦樹君は、俺の部屋に行こうか」
「は、はい……」
誓が差し出した手を取るか取るまいか迷う敦樹に苦笑し、誓は身を翻した。無理に繋ぐ必要もないから。
敦樹が慌てて自分の背中を追う気配がする。あまり他者を牽引することのない誓にとって、それは何処かくすぐったい思いを彼にもたらした。
「やっぱり、此処に居たか」
思いの外、気持ちは落ち着いていた。目の前の女を罵る気はないし、彼女の頬をひっぱたくつもりもない。だが、訊いておかなければならないことがある。
「………葉弓」
「……………」
「どうしてあの時、謡を助けなかった?」
責めるつもりはない。
ただ、葉弓の真意を知りたいだけ。
「葉弓?」
葉弓は何処か遠くを眺めるような目付きで、涼子の立つ辺りを見ている。
「………あたしは、兄様に会いたいの」
「……………」
「謡の“中”の兄様は、謡が危なくなったり、謡の身近な人間が危険な目に遭った時に顕れる……。だから、見てた」
砕けた硝子の破片を触りながらそう言う葉弓は、今までにないほど弱々しく見える。
「でも、兄様は来てはくれなかった。あたしは、こんなにも兄様に会いたいのに。こんなに……兄様に焦がれているのに、兄様は……来てくれなかった」
「葉弓」
「………あんただって、兄様に会いたいでしょ?」
葉弓の問いに、
「あぁ、会いたいさ」
涼子はあっさりと応えた。じっと葉弓を見つめて。
「会えるものなら、な」
平坦で感情ののらない涼子の口調に、葉弓の眉が僅かに上がった。
「……兄様に会うために、自主的に何かをすることはない訳?」
「………謡を傷付けてまで、会いたいとは思わない」
……自分でも驚くくらいの、言葉。つまり自分は“あの方”よりも謡を優先したことになるのだろう。
「ふざけるな……っ」
唸るように、葉弓が言う。
「兄様が、どれだけお前のことを想っているか、分かっていて………お前は兄様よりも謡を選ぶと言うのか……っ。あんな、あんな軟弱な奴をっ!」
「違う、葉弓。聞きなさい」
「あたしは許さないよ……。兄様の気持ちを踏みにじるあんたを、兄様を“隠す”謡を!」
「葉弓、謡は謡だ。他の何者でもない。確かに謡の前世は“あの方”なんだろう。だが今、あの体は謡のものなんだ。それを無理矢理、」
「お前だってあの公園で兄様を待ってるじゃないか!兄様に会いたいからだろ!?なのにどうして……っ」
「葉弓、私は……」
「前世での約束が果たされることを信じてるんだろ?あんたはただ待ってるだけで良いのかも知れない。でもあたしは嫌だ!待つなんて嫌だ。あたしは、早く兄様に会いたいんだ!!謡のことなんて知ったことか!あたしには兄様が全てだ。昔も今も、ずっと変わらないっ!!」
「葉弓」
「兄様にまた会うためになら、あたしは何だってする…!!」
葉弓の言葉が、涼子の胸に重く、深く、響く。
「……ここで謡を助けた時、あたしは謡が兄様の生まれ変わりだってすぐに分かった。今世でも会えるなんて、運命だと思った!」
恐らく神薙愁の知り合いに愁と謡がからまれたのを助けたことを言っているのだろう。そう。謡と葉弓が出会ったのは、潰れて久しい雑貨屋“ペイン”の前。葉弓は今日、そこにいた。
涼子と葉弓のただならぬ雰囲気に、決して多くはない通行人が奇異の視線を彼女たちに送る。
「運命……か、」
「あたしは、兄様が好き」
「……………」
「軟弱な謡は嫌いだけど、“兄様になっている”謡は好き。だから、あたしはあんたから謡を奪うよ。あんたに、謡は絶対に渡さない」
暗く淀んだ瞳で、葉弓は涼子を睨み付ける。
「待つだけのあんたと、あたしは違う。綺麗事を言ったこと、絶対に後悔させてやるから」
そう言うや否や、葉弓はいきなり立ち上がり走り出した。
「葉弓!」
涼子は彼女を追おうとしたが、結局は止めてしまった。
今の彼女に何を言っても無駄。そう思ってしまったから。
だがその一方で言い様のない不安を涼子は抱いていた。謡から目を離さないほうが良い。
そう心に留めて、涼子も歩き出した。今日はあの公園には戻らない。