帰りたい
「!」
その車が自宅前を通過した時、愁はその排気音に大きく反応した。訳もなく、謡が乗った車が通ったのではないかと思ったのだ。
愁は居ても立ってもいられず、自室を後にすると家からも飛び出した。
「謡さんっ!」
確かに、謡は、いた。
ただぐったりと意識を失った状態で人に背負われて。
「謡さん!」
謡を背負った、男ー神楽が愁に気付く。
「待って、」
謡と話がしたい。僕を守ってくれて有難う御座いますとお礼が言いたい。その一心で愁は謡に近寄ろうとした。…しかし、
「……っ」
車の運転席から降り立った男の姿に、愁は息を詰めて足を止めてしまった。
男ー芝貫春樹は、絶対零度の目付きで愁を見ている。謡と少しだけでも話したいと望む愁を拒んでいる。
「春樹様、」
「あれに構うな。早くそれを連れて行け」
“それ”?
春樹の物言いに、愁はざわりと心がざわめくのを感じた。滅多には感じない“怒り”を、愁は感じる。
(謡さんは……物じゃないのに……っ!)
「……あいつに似て生意気な顔付きをしている」
春樹に感じた恐怖も忘れ、愁は彼に向けて言った。
「うっ、謡さんは“物”じゃないっ」
「………」
「謡さんをもっと大事にしてあげて下さいっ!!」
はぁはぁと息を荒げる愁を、春樹は相変わらず色のない瞳で見詰めているだけだ。
「お願いだから、謡さんを、もっと・・・・・、」
「話にならんな」
不意に春樹がそう零し、溜息をつく。
「お前が謡をどれだけ慕おうが勝手だ。だが芝貫に関することでお前に指図される謂れはない」
「さ、指図だなんて・・・・・僕は、」
「・・・・ふん」
弱々しく視線を落とした愁を睥睨し、春樹は颯爽と自宅へ入って行く。
「ま、待って下さいっ」
必死に声を上げるも、春樹の足を止めることは出来ない。
「春樹さんっ!」
「・・・・・お前に名前で呼ばれるほど親しくなったことはない」
「っ、」
広い背中にある絶対的な拒絶。昔の面影は、殆ど無い。
「謡と馴れ合うのは構わん。・・・・・だが余計なことに口出しはするな」
閉まっていくドア。消える背中を追うことは、愁にはもう、出来そうには無かった。
「敦樹、ドアを開けて貰える?」
「うん」
敦樹が謡の部屋のドアを開ける。
「ありがとう」
それに礼を行って中に入り、神楽は謡をそっとベッドに横たえた。目を覚ますだろうかと心配になったが、謡は瞼一つ動かさなかった。今だけでも、ゆっくり休んで欲しい。神楽はそう願う。
「敦樹も疲れたね。気分が悪いとか、ない?」
「うちは平気だよ、兄さん」
敦樹はそう言うが、小さな顔には明らかに疲労が浮かんでいる。
「敦樹、おいで」
「?」
素直に神楽に近寄る敦樹。その彼を、神楽はそっと抱き締める。敦樹が好きな、兄の匂いが鼻孔を擽る。
「に、兄さん?どうしたの?」
いきなりのことに、敦樹は驚いてしまう。
「ごめんね、敦樹」
「な、何で謝るの?」
「……怖かったね」
「!」
「不安だったね」
「……う、」
兄の優しい声が、敦樹の涙腺を緩める。
「敦樹を、守ってあげられなくて……ごめんね」
「そ、んな……こと、ない」
あの場所に来てくれただけで、充分なのに。
「兄さんは、来てくれた。うちを助けに来てくれた、それだけ、で……うぅっ」
堪えていた涙が痺れを切らしたように溢れ出した。敦樹の背中を、神楽が優しく撫でる。
「でも、二度と言わないで」
「?」
「鳴沢のもとに行くなんて、言わないで」
「っ」
見上げた兄の顔は、今にも泣きそうで。兄にそんな顔をさせていることが嫌で。
「ごめ、ごめんなさっ……、」
「恩返しなんていらない、敦樹が僕や父さんたちと同じ家で、家族としていられたらそれで良いんだから」
「………うん、うん」
「だから、もう自分を犠牲にするようなことを言わないで。勿論、しても駄目だよ」
敦樹はもう何も言えず、はらはらと涙を流しながら兄の腕の中で頷き続ける。
今、兄が自分だけのものだという現実がひどく嬉しくて。
(……このまま、家に帰りたい、)
謡のことも、春樹のことも、勿論鳴沢のことも忘れて家に帰りたい。兄と一緒にのんびり休みたい。
「兄さん、」
無理だとは分かりながら、敦樹はその願いを口に出そうとした。
だが、
「神楽」
「!」
第三者の低い声に、神楽も敦樹も思わず体をビクッと震わせた。
「いつまで兄弟で話している」
「す、すみません」
兄が離れていく。敦樹は急に心細くなって来て、兄の手を掴もうとした。
「!」
しかし春樹の冷たい視線に上げかけた手は行き場を失い、結局力なく下ろされる。
「神楽、お前に話がある。下に来なさい」
「は、はい。……あの、敦樹は、」
「お前の弟に用はない」
神楽の問いかけを一刀両断し、春樹はさっさと謡の部屋を出て行き、階段を下りてしまう。
「に、兄さん……」
「敦樹、ごめん……謡様のこと、頼むね」
気弱な笑みを浮かべ、神楽も春樹に従った。
「………兄さん、うち……早く帰りたい、」
兄を奪おうとしている謡と、あまり人間味を感じられない春樹。
彼らと早く別れ、家に帰りたい。その願いは、しばらくは叶いそうにないと敦樹は心底思い知った。