戻れない過去と、心の傷
……どうしてだろう、と謡は思う。
(父さん……どうして助けてくれないの?)
冷静な瞳で拘束された謡を見る父親に、心の中でそう問い掛ける。
(そんなに俺は駄目な人間なの?父さんは、俺がそんなに嫌い?)
神楽の義弟らしい少年には優しく労るような視線を送るのに。
どうして実の息子である自分に、優しい瞳を向けてくれない?
(もう、昔みたいな仲良しには戻れない?……教えてよ、父さん。母さん)
母は……あの人は今何を見て、何を考えているのだろう。
「お父さん、助けてよ。助けて……」
恥も外聞も、最早ない。
ただただ昔の優しく穏やかな父にまた会いたくて。
「さあ、どうしたっ!早くシンをこちらに寄越せっ!!」
テレビで何度も観たことのある男が血相を変えてそう怒鳴る。
「さあ!こいつがどうなっても良いのか?」
「……!」
一番反応したのは神楽と神楽の義弟だった。義弟の顔が今にも泣き出しそうに歪み、こちらに向かって来そうになる。
「敦樹っ」
神楽が少年の名を呼んだ。
……可愛い子だな、と謡はぼんやりと思う。雪のように白く肌理の細かい肌、肩口で綺麗に切り揃えられた真っ黒な癖のない髪、ぱっちりした瞳にふっくらした赤い唇。だが恐怖と混乱の入り交じった今の表情はひどく痛々しい。
(父さんは、俺なんかよりあんな子の方を息子にしたいんだろうな……)
『謡、将来は何になりたい?』
穏やかな物腰で謡と対等の目線で話してくれる父が好きだった。
『謡ねっ、お父さんとおんなじ社長さんになる!跡継ぎになる!』
『ありがとう、謡。でもね、謡は謡の進みたい道を選びなさい。私のあとを追いかける必要はないんだよ?』
『良いの!僕はホントにお父さんと同じになりたいのっ』
『ははは、そうかそうか。ありがとうな、謡……父さんは嬉しいよ』
『えへへっ』
………そんな会話を交わしたのは、もう何年も前。
昔と今には、大きな隔たりが出来ていた。
(俺は、あの頃は本当に、)
父を尊敬し、父と同じ道を進もうと思っていた。
今、父を尊敬していない訳ではないが父と同じ道を進みたいかどうかは最早分からなくなっていた。
「………お父さん、助けて……」
届かないと分かっているのに。自分の言葉は、願いは父には届かないと、分かっている……筈なのに。
「少し黙れ、耳障りだ」
謡に銃を突きつける男が低い声で言う。
「・・・・っ、」
息が苦しくなる。
パニックに陥りそうになる心をどうにか静めようとする。
(お願い。父さん、助けて・・・・・、)
涙で滲み切った瞳で父を見る。
けれど、父からの反応が窺えることは、なかった。
義兄がギュッと拳を握り締めるのを感じ、敦樹は思わず彼を見上げた。
唇をきつく噛み締め、辛そうに目を眇める。
(やっぱり、うちが、)
謡と引き換えに、父のもとへ行くべきではないのか。
(・・・・“良い考え”って何なんだろう、)
芝貫春樹、という男を見上げれば、端正なその顔には一切の表情がない。自分の息子が危険な目に遭っているのに、何の感慨も抱かないのだろうか。
こんな人の下で、義兄は働いているのだろうか。
そう怪訝に思った瞬間、
(え?)
無表情だった春樹の唇に他者を嘲笑するような笑みが浮かび、
「宗吾、見るが良い。・・・・これが、日本を支配しつつある芝貫の力だ」
そう言った瞬間だった。ドンッという轟音が部屋に響いたかと思うと、謡を拘束している男の左胸あたりにパッと赤い花が咲いたように見えた。ぐらりと無言で倒れる男を、謡が見開いた瞳で見詰める。
「敦樹、見ちゃ駄目だっ」
我に返った神楽が、慌てて敦樹を頭から抱き締める。
(今、の……何?)
周囲に漂う、焦げ臭さ。
胸に咲いた、赤い、花。
(気持ち悪い……、気持ち悪い)
「謡、何を突っ立ってる。また捕まりたいのか」
「おと…お父さん、何……したの?」
謡は喘ぎ喘ぎ、春樹に問い掛ける。
そんな彼を、春樹が冷たい目で見下ろす。
「誰のためだと思っている」
「あ……、」
謡に、春樹が近付く。もはや春樹に、鳴沢の姿も絶命した男の姿も目に入ってはいない。
「父さん……っ!」
春樹はぐいっと謡の胸ぐらを掴み、顔を寄せる。
「お前が不甲斐ないからだろう。そのせいでこうなったことが、何故分からない?」
「う……あう、」
謡に恐怖が襲い掛かる。
「自分では何も出来ない癖に、私の行いをとやかく言う資格があると思っているのか?良いか?お前に何かあっては困るんだ……折角大きくした会社を、私の代で潰す訳にはいかないんだ」
「………っ、」
謡は思い知る。春樹は、社長の“器”である謡を必要としているのであり、“息子”としての謡を必要としてはいない……と。
謡の瞳から、涙が零れ落ちる。
「嫌い…?」
「何?」
もう、戻れない。
父と、母と、弟と、そして自分と。
幸せだったあの日々には戻れない。
今、はっきりと分かった。
「父さんは、そんなに、そんなに俺の……っ、僕のことが嫌い……っ?」
訊くことを恐れていた問いを、謡は発した。涙でぼやけた視界の中、父の顔が強張ったことに辛うじて気付く。……否定して欲しかった。嫌いではないと。それだけで良いのに。それだけで救われるのに。
「………」
だが父から明確な答えを聞くことは叶わなかった。
春樹は無言で謡を離すと、呆然としている鳴沢に向かう。
「ふっ、ううっ……」
「宗吾。少し悪乗りが過ぎたな」
「な、何をした」
「謡を拐った時点で、貴様は芝貫の“敵”だ」
「し、しかしあれを拐ったのはシンを拐った後だ!お前は謡を拐う前に、ここにいて何処とも連絡を取っていなかったじゃないか?なのに!」
「愚かだな、宗吾。曲がりなりにも、芝貫グループの嫡男である謡に護衛役がいないとでも思っているのか?」
「!」
「まあ護衛役などいないにしても、私が何の手も打たずにお前の拠点に来るなどしないがな」
「………っ」
「さあ、まだ足掻くか?今度はお前の眉間に穴が開くぞ?」
春樹の物々しい言葉に、鳴沢はブルッと身を震わせた。
あれは撃たれたんだ、と神楽は何処かぼんやりと思う。ガタガタと体を震わせる敦樹を抱き締めながら。
(謡様、)
謡は床に崩れ落ちたまま、見開いた目から涙を零し続けていた。彼の精神状態が危ぶまれる。
「敦樹、僕は謡様を、」
「う、うちは平気だよ。兄さん……」
その声は酷くか細くて。
「敦樹も、来て」
「えっ」
敦樹の手を取り、神楽は周囲への警戒を怠らないように謡へ歩み寄る。
「謡様、分かりますか?神楽です」
謡の背中にそっと手を当て、刺激しないように静かな声で問い掛ける。
「か……ぐらさ、ん」
真っ赤に充血した目と、頬に刻まれた涙の通った痕が酷く痛々しい。
「大丈夫ですか?」
訊いてから、なんて馬鹿な問いなのだと自嘲する。
大丈夫なはずがない。
「はい……」
なのに微笑む謡。きっと神楽に心配をかけまいとするため。
「あ、あの」
不意に、敦樹が声を上げる。謡が、敦樹を見る。空虚な瞳で。
「うち、うち……神楽敦樹、です」
「君が」
謡が神楽と敦樹を見比べ、小さく
「そっくり」
と笑う。そして力尽きたように白目を向き、神楽にしなだれかかるようにして意識を失ってしまった。
「謡様、謡様っ」
神楽はこのまま謡が二度と目覚めないのではないかという不安に襲われ、何度も彼の名を呼んだ。