記憶~藪内奏と藍田渉2~
ようやく藪内と渉の話が進みます。
歪んだ本性を垣間見せる誓も登場します。
謡たちはお休み。
コンコンというノックの音が聞こえた。耳の調子がおかしいのか、酷く遠くに聞こえたけど、確かに聞こえた。
“お母さん”というらしい女の人が、椅子から立ち上がる気配がして、次いでドアがスライドされる音がした。
「奏君!・・・・と、こちらは?」
「あ、えっと」
奏、という人の声。その声を聞くと、妙に安心できてしまうのだろう。
「どうも。俺、芝貫誓って言います!」
しばぬきちかい。
しばぬき……。何処かで聞いたことのあるような言葉だと思った。
「しばぬき……まさか芝貫グループの……!?」
「はい。お初にお目にかかります」
「け、けど芝貫グループの方が、私たちに何の御用で……」
「その人が渉さん?」
その人、というのが自分のことを指しているのだろうことは予想出来た。
「そう、その人が……ね」
顔を見ていないのに、今話している人の顔が笑みを浮かべたのが分かった。
なんだか怖い人だな、と他人事のように思った。
誓は、人口呼吸器をつけゆっくり肩を上下させる藍田渉を繁々と眺めた。
(こいつが藍田渉……。兄貴と同い年には見えんな)
恐らくその顔が童顔過ぎるためと、細く小柄な体つきのためだろう。
誓はゆっくりとベッドの上の少年に近付いて行く。
「初めまして、藍田渉さん」
「……………」
呼び掛けると、虚ろな瞳がこちらを見た。
「し、芝貫さんその子は今記憶が、」
母親が言葉を濁らせ、誓に言う。
「……記憶、喪失になっていまして、」
認めたくない、と母親は言外に臭わせていた。
「ふむ。自分が誰かも分からない、と?」
「は、はい」
誓は首を傾げ、
「それはおかしいな」
と言う。
「え?」
「あなたも、ご自身の息子さんが本当に記憶を亡くしているか半信半疑なんでしょう?」
「!」
母親が息を詰まらせ、思わず藪内を見た。
「あなたが記憶喪失を疑う理由があるはずです。それを暴露したら、何らかの反応があるかも知れませんよ?」
先程から誓の口調は何処か平坦だが、彼が何かを企んでいそうなことを藪内は悟った。
「お前、一体、」
「藪内さんだって、渉さんが記憶を取り戻したら嬉しいでしょう?」
「っ!」
渉の瞳が誓から逸れ、ドア口に突っ立ったままの藪内を捉えようとする。だがそれを誓が体で遮った。
一瞬、呼吸器の下の息遣いが荒くなる。
「………記憶なんてね、意外と簡単に操作出来るんですよ。お三方?」
「お前、渉が記憶喪失のフリをしてるって言いたいのか……?」
「そんな顔で睨まないで下さいよ、怖いし。……それに、俺を責める資格、あなたにはないですよね?」
「!そ、それは…っ、」
詰まる藪内に、誓は追い討ちをかける。
「あなたは渉さんを沢山傷付けたんでしょう?もし俺が今から彼を傷付けるとして……俺はあなたと同じことをしただけってことになりますよね?」
「お、俺は……」
そうだ。自分だって散々渉を傷付けてきた。それなのに他人が渉を傷付けるのは我慢ならないと言うのか?……そんな資格、ないのに。藪内は、居たたまれなくなって顔を俯かせた。渉の顔を見る勇気がない。
「………………」
誓の口端に、嘲笑のこもった笑みが刻まれる。
「渉さん、あなたは本当に記憶を喪っているんですか?」
渉の目が、薮内を求めるかのように目まぐるしく動く。だが誓の顔がそれを阻む。
「今あなたと話したいのは俺の方ですよ?集中してください」
何を思ったか、誓が渉に向かってスッと指を伸ばした。渉がベッドの上で身動ぎする。
「渉さんのお母さん」
「は、はいっ」
今まで誓の存在に呑まれて黙って立ち尽くしていた渉の母親が、慌てて返事をする。
「渉さんが本当に記憶喪失かどうか疑っている理由を、教えてもらえますか?」
「う、疑っている、と言いますか、」
“芝貫”というブランドに、母親は完全に腰が低くなっている。
「疑問に思ったことはありますけど・・・・・その、渉が激しい頭痛を訴えまして・・・・」
「頭痛?この場所で?」
母親は一つ頷いて、
「その、奏君の名前を叫びながら頭が痛いと泣いて・・・・」
「!」
顔を跳ね上げた薮内に、母親が気遣わしげな視線を送って先を続けた。
「奏君、助けて・・・・・って、」
「な、・・・・んで、」
薮内には渉の考えが本当に理解できなくなっていた。
「なんでだ!」
大声を上げて歩き出し、誓を押しのけて、薮内は渉の前に立った。
ようやく視界に薮内が入ってきたことが嬉しいのか、渉が目を細める。
「なんで、なんで渉は・・・・!なんで、」
上手く言葉がまとまらない。頭の中が、胸の中が熱い。
気ばかりが急いて、気のきいた言葉が出て来ない。ただただ溢れそうな涙を堪えながら、『なんで』を繰り返す。
「なんで、なんで…!」
こんな俺のことを呼ぶんだ。なんで、どうして!
『大事な友達だから』
以前、渉はそう言ってくれた。だが、“友達”だからと言って何でも許せるのか?……自分だったら絶対に無理だ。
友達だなんてもう思わなくなるだろう。なのに、
「どうして、こんな俺のことなんか・・・・・友達だなんて、」
どうにか声を絞り出す薮内を、目を細めたままの渉がじっと見詰めている。渉は何を思っているのだろう。
「し、芝貫さん。・・・本当に渉は記憶喪失のふりを?」
完全なる部外者に伺いを立てる渉の母親。誓がそれに応えて彼女を振り返る。
「・・・・ふりかどうかは定かじゃないですが、“忘れたつもり”になっている可能性はあると思いますよ」
「忘れた・・・・つもり?」
「俺からはこれ以上言えることはないですが、確かなことが一つだけあります。・・・・・記憶ってね、簡単に嘘をつけるんですよ」
「うそ、」
「記憶は、人の意思で勝手に好き放題変えられるんです」
誓に顔に浮かぶ、空虚な笑み。
「薮内さん、渉さんが“あなたのことを思い出せる”かどうかは、全てあなたにかかってるんだと思いますよ」
「・・・・・・」
こいつは本当に謡の実弟なのか、薮内には信じられなくなる。謡なら口にしないような言葉を次々と重ねて来る。
他者をひどく揺さぶる、言葉を。
「それと渉さん、兄が随分お世話になったみたいで、感謝します」
ゆっくりと病室を出て行く誓だが、ドアの前で足を止めてそんなことを言う。
薮内が彼を振り返るが、誓は後ろを向いており顔までは見えない。
「兄が壊れると、“楽しみ”がなくなるので」
「!?」
「それではお邪魔しました。渉さんのお母さん、俺はこれで」
「あっ、は、はいっ」
完全に誓の言葉や表情に呑まれていた渉の母親は、ハッと我に返って慌てて返事をした。
「おい、待て!」
最後のはどういう意味だと誓に問い詰めようと思ったのだが、右手を掴まれて意識が誓から離れる。
「渉・・・?」
「い・・・・か、な・・・・で」
行かないで。そう聞こえたのは幻聴だろうか。自分の願望だろうか。だって渉は記憶喪失なのだから。
薮内のことなど分かろう筈もないのだから。
「そ・・・・ば、いて、」
「わ、分かった。分かったからそんな、哀しそうな顔するな」
ずっと笑っていて欲しい。幼い頃はずっとそう思っていた。そして、今もそう思った。
久しく忘れていた感情を、思い出す。
「そばにいる、から」
自分がどれだけ酷い人間か、知っている。純粋で優しい渉のそばにいる資格などないことも分かっている。
だけど、今だけは。せめて。渉が眠りにつくまでは。
「だから、笑え」
背後で、誓が病室を出て行ったのを感じたが薮内はもう振り返らなかった。
今向き合うべきなのは誓ではない。渉なのだと分かったから。
薮内はしゃがみ込み、渉の手を握り返した。
渉が小さく微笑んだ・・・・・気がした。
入院患者や病院関係者、見舞い客などが行き来する院内を、誓は顔を伏せ気味にして歩いていた。
何故なら、
(愉快すぎて、笑える)
からだ。一人でにやけている顔を見られることが嫌で、俯いているのだ。人間は一人で歩いている者が笑っていると無気味だと捉えるからだ。ただ誓は“不気味”と思われるのが嫌ではなく、そうすることで他者に“自分”という存在が印象付けられるのが嫌なのだ。
(なんだ、あの滑稽な“友情ごっこ”は。見ていて反吐が出そうだった)
本当はもっと渉と薮内を揺さぶりたかった。自分の中のサディスティックな部分が酷く刺激されたから。
だが彼らのことばかりに気を取られるわけには行かず、こうして辞して来たわけだが。
(・・・どいつもこいつも、なんで生きてるんだろうな)
ある一角で、入院患者らしい小学四年生くらいのパジャマ姿の男の子がぎゃあぎゃあ泣き喚きながら地団太を踏んでいる場面に出くわす。まだ日が浅いのか、真新しいナース服の看護士が必死に宥めようとしているがうまく行っていないようだ。
「お願いだから良太くん!病室に戻ろう、ね?」
「嫌だ、嫌だぁ。わああああああん!!」
「どうしたんですか?」
子どもにいいように翻弄されている大人が哀れで、誓は声を掛けた。あくまで彼の気まぐれではあるが。
「あ、その、」
胸元のネームプレートには、御厨とある。
「俺に任せてください」
誓は御厨ににっこりと微笑み、男の子と目線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
「少年」
「う、ひぐっ、ひっく、」
腕で擦っていない方の目で、男の子は誓を見る。初めて見る人間を、怪訝そうに。
「どうして泣いてる?」
謡のように、上手に宥めることが出来るだろうか。謡なら、駄々を捏ねる子ども……しかも入院をして精神的に参っている者を、どうやって。
誓の問いに、しかし素直な答えが返って来る訳もなく。すぐに両目を隠し、ぎゃあぎゃあと更に泣き喚く。
「りょ、良太くんっ」
御厨までも泣き出しそうに顔を歪め出す始末だ。
誓ははぁ、とため息をつくと良太少年の頭を鷲掴みした。
「!?」
いきなりの行為に、少年も御厨もギョッとする。だが誓は構わなかった。
「……母親が恋しいんだな?」
「……!」
「なんだ、たまにしか面会に来ないのか?」
既に子どもに対する言葉使いではなくなり、加えて誓の心は自分の“過去”に飛びつつある。
……母親に振り向いて欲しくて、いろいろ努力はしたけれど。
硝子玉のようなあの瞳には、自分は映らず、常に誓の兄ばかりを追いかけて…、
「だけど、会いに来て欲しいならちゃんと言わなきゃ。伝わらないよ?」
「だ、だって」
ようやく少年が誓と話す気になったようだ。誓が頭を離すと、乱れた髪を小さな手で直しながら、
「おかあさん、良二のことで、大変そうだから、」
たどたどしくはあるが、ちゃんと誓の目を見て話す。
「良二?」
「あの、この子の双子の弟さんなんです。生まれつき肺に欠陥があって、その……ずっとこの病院に入院してて、」
看護士がそんなに簡単に個人情報を明らかにするのもどうかと思ったが、誓はその点の言及は止めておくことにした。
「なるほど。おかあさんは良二の看病が大変だから我が儘は言えない。でも一人は寂しい。だから看護師さんの気を引くために我が儘を言ってると」
誓がそう言うと、少年は顔を真っ赤にして円らな瞳で彼を睨みつけた。
「ぼ、ぼく寂しくなんかないもん!」
「嘘つけ」
誓は苦笑し、少年の頭を撫でた。柔らかい髪が、さらさらと指の隙間を滑っていく。誓を睨んではいるが、頭を撫でられると気持ちいいのか文句は言わないし、身動ぎ一つしない。基本的に人見知りや物怖じをしない性質なのかも知れない。
(つまりは俺と“同類”って訳か)
いつのまにやら泣き止んだ少年に安堵したのか、御厨という看護士はホッとしているようだ。
「あの、すみません。ありがとうございます」
「いえ、俺は別に」
結果的に少年が勝手に泣きやんだだけで誓は特に何かしたという達成感のようなものは一切無かった。
「それじゃ、俺はこれで」
もう一度少年の頭を撫でてから、誓は歩き出した。御厨が自分の後ろ姿を、何処か観察するような目で見ていることには、気付かずに。
さて、と誓は病院前のとおりで足を止めると天を振り仰いだ。病院に入る前は茜色だった空は、来る夜に向けて徐々に藍色に変化しつつある。
(ノリで薮内に着いてったけど、これからどうするかな、)
「誓様」
いきなり誓の背後に、成宮夏が音もなく立った。声は潜まり、心なしか緊迫しているように思う。
「おう、夏。状況は?」
「・・・謡様が首相である鳴沢宗吾の部下に拉致され、鳴沢の拠点へ移送されました」
「鳴沢が兄貴を誘拐?」
何故そうなる。とりあえず世間的には芝貫グループ社長の後継ぎになっている謡を攫ってどうする?芝貫全体を敵に回すだけなのに。
(確かに鳴沢は阿呆だが、芝貫を敵に回すか?そんな愚かな話が、)
「・・・・夏。誘拐に至った経緯を話せ」
「はい」
夏がぼそぼそと口にする言葉たちを、誓は全くの無反応で聞く。
・・・・・全てを聞き終え、誓はやれやれと肩を竦めた。
「そんなことにまでなってるとはねぇ。流石に予想外だ」
神楽には義弟がおり、その義弟は芝貫の純血ということ。しかも鳴沢の実子であり、昔に彼から様々な暴行などの虐待を受けていたこと。義弟の本名は“鳴沢シン”。
その義弟が鳴沢に誘拐されたことで神楽と凛と成宮秋が鳴沢の拠点に行ったこと。
神楽の実弟の誘拐を聞きつけた、誓の父である芝貫春樹もそこへ向かったこと。
シンをどうしても手に入れたい鳴沢が交換条件の材料にすべく謡を拉致したこと。
「で?」
「今は膠着状態ですが、すぐに決着がつくでしょう。鳴沢は一時の感情に任せて、芝貫を敵に回す愚行を犯しています。その時点で、彼の“敗北”は決していますから」
夏の言葉に、誓がクスッと笑いを溢す。
「そうだな。明日は首相が入れ替わって政界もメディアも大騒ぎだろうね」
「・・・それは芝貫に迎合していない者たちだけでしょう?社長の手にかかれば、ほんの数分でもみ消せることでしょうから」
「違いない・・・・そういえば秋捕縛の件はどうなった?」
今度は夏が微笑む番だった。
「秋の罪は不問、ということで決まったようですよ」
誰が決めたのか、という質問を誓はしなかった。
「よかったな」
と他人事のように呟き、家に向かって再び歩き出した。影のように付き従う、己の護衛とともに。
藪内と渉の話、引っ張りすぎですか・・・?
次話では、謡たちのほうへ戻ると思います。
前話で春樹が言った“良い考え”とは?
でわ、また次回。閲覧、有難うございます。