救援
敦樹を助けに来たのは……。
「……可愛い寝顔だ。史哉ではないが、襲いたくなっても無理はないかもね」
眠る敦樹の頬に、蓮音のしなやかな指が這う。
「蓮音様、」
「冗談だよ、創」
蓮音は微かに笑うと、創が持ったままのスーパーの袋を指差した。
「この少年のための品だろ?食事か?」
「……はい」
「素直に食べてくれたら良いがね」
「そう……ですね」
蓮音は再び敦樹に視線を戻すと、感慨深そうなため息をついた。
「蓮音様?」
「いや、なに……こんなに愛らしい少年があの狸オヤジの息子だとは俄に信じられなくてね。創もそう思うだろう?」
なんとも返答し難い問いを投げ掛けられてしまい、創は困惑する。そんな彼の顔が愉快だったのか、蓮音が小さく吹き出す。
「答え辛い問いだったな……済まないね」
「い、いえ……」
「しかし、まぁ……可愛いらしい寝顔だ。このままで家に帰してやりたいものだ」
蓮音の力でなんとかならないのかと創は思う。だが、
「あぁ、私には期待するなよ。先の件で好き放題し過ぎた罰でな……監視がいつも以上に厳しいんだ」
「そう、ですか……」
「そんなにがっかりするな。きっとこの少年が大事に想い、そして少年を大事に想う人間が助けに来るから」
やけに核心的に蓮音がそんなことを言う。
「……………」
どうしてこの人が言葉を発すると、素直に信じることが出来るのだろうと創は思った。
「どんな気持ちだ?」
「え?」
敦樹が過去に過ごした施設の跡へ向かう車内。
芝貫家を出てからずっと静まり返っていたが、いきなり烏丸懍が神楽に問い掛けた。
後部座席の秋は、心労が祟ったのかぐっすりと眠り込んでいる。
「どんな気持ち、とは?」
「……自分の義弟が、自分の敬愛する芝貫春樹や謡と血縁者だということに対して、思うところはある筈だろう?」
「………」
確かに敦樹が、自分が尽くす芝貫の人間だと知った時の衝撃は凄かった。
そして時の首相の息子だと知った時も。
(虐待をするような奴がこの国を纏めているなど、悪寒が走る………)
「ふん」
何を感じたか、懍が鼻で笑う。
「首相に会っても下手な真似はするなよ。どんなに最低な輩だろうが、相手はこの日本国の大将だ。倍になってお前に戻って来るぞ」
「別に、自分のことなど、」
「大事な大事な義弟にも危害が加えられても?」
「………っ、」
それだけは駄目だ。例え自分に何があろうとも、敦樹をこれ以上辛い目に合わすことだけは。
神楽は一瞬だけ嫌な想像をしてしまい、慌ててそれを断ち切る。
「よほど義弟が大事なんだな。神楽樹」
「当たり前だろう……敦樹は私の大事な弟だから。義理だろうが、そんなの関係ない」
「くく。美しいことで」
先程から懍は相手を揶揄するような口調で話し続けていて、神楽は静かに怒っていた。
「……………」
「なぁ、神楽樹」
「………何だ」
「もし、謡様と敦樹を選べ……と言われたらどうする?」
懍から発されたその問いに、神楽は危うくハンドル操作を誤るところだった。
「な、いきなり何を……、」
「いや、何となく、な」
懍は質問の真意を明らかにすることなく、首を巡らせて窓の外に目をやった。
もう話す気がない、ということなのだろう。
(謡様と、敦樹の……どちらかを選ぶ?そんなこと、出来るわけがない……)
まさかそんな選択の場面など来るわけがないと、神楽は嫌な想像を必死に打ち消した。
『お前は要らない子なんだよ』
『このグズ、のろまっ!』
痛いよ、止めて。
殴らないで。蹴らないで。つねらないで。否定、しないで。
『お仕置きが必要なようだね』
お酒に酔った赤ら顔が、ずいっと近付いて来たかと思うと突然唇を奪われた。
生温い舌が口腔を犯そうとしたから、必死に身を捩って逃げようとした。
でも、貧弱な体が大の大人のお父さんに敵うわけがなくて。
涙を流して行為が終わるのを待っていたのに、お父さんの行為はさらにエスカレートした。
服を脱がされる、ことはなかったけどトレーナーの下に手を入れられ、素肌を蹂躙された。
やだ、やめて。
どれだけ訴えても、お父さんの気が済むまでは解放してもらえなくて。
仕舞いには足の間にお父さんは足を無理矢理に捩じ込んできて、
いやだぁっ!お母さん、助けてぇっ……!
下着をずらされ、一物をとんでもない力で握り締められた。
痛くて怖くて悲しくて、必死にお母さんに助けを求めたけど。
お母さんはニヤニヤと笑って、様子を眺めているだけだった。
『あんた、もっとやってやんな』
『言われんでも』
怖いよ。
助けて、もう誰でも良いから助けて。
この地獄から、解放して………。
「……………」
長い睫毛をぴくりと震わせ、敦樹は目を覚ました。
しばらくは頭がぼんやりして、何も考えられそうにない。
「起きた?」
不意に声を掛けられ、敦樹は声の方を見遣った。
だが声の主は敦樹を見てはおらず、手元の本に視線を落としている。何の本なんだろう、とうまく回らない頭で思う。
「これはギリシャの戯曲の本だよ。興味はある?」
「………?」
こちらの視線が本に注がれていることに気付いたのだろうか。
「気分は?」
ギシッ、と音を立てながらデッキチェアから立ち上がると、ゆっくりと敦樹に近寄る。
そこでようやく相手が女性だと気付いた。
「………」
敦樹は横になったままで体を硬直させ、女性の動向を息を呑んで見守る。女性の長い黒髪が綺麗だ、と緊張しながらもそんなことを思う。
「そんなに怯えるな。何もしないから」
しかし基本的に人見知りで、加えて先程手酷い目に遭わされたばかりだから、素直には信用出来ない。ただただじっと彼女を見詰める。目を閉じることは逆に恐くて出来ないでいる。「お腹すいていない?創が君のためにご飯を買ってきたんだけど」
彼女はそんな敦樹の反応を深くは考えないようで、どんどんと声を掛けてくる。
黒くて艶のある髪がさらりと彼女の細い肩を流れる。
まるで真っ黒な川のようだ、と敦樹はいまだにぼんやりした頭で見ていた。
(・・・・兄さん、)
そうだ、自分は気を失う直前に目の前の女性と義兄の笑顔を重ねたのだ。
(この人、兄さんに似てるんだ、)
そして時々義兄から香ることのあった花のような香りも。
「この、香り、」
敦樹がうわ言のように呟くと、女性は嬉しげに破顔した。
「私のお気に入りの香りなの。あまりつけてないけど、鼻が良いんだね」
香水か何かだろうか。
「あの・・・・・創、さんは」
「ちょっと野暮用だよ。ご飯は?」
・・・・・・・食欲など一切なかった。敦樹は黙って目を伏せ、必要のないことを示した。
「ちゃんと食べないと駄目だよ。あんた、ただでさえ細っこいんだから」
そう言われても欲しくないものは欲しくない。敦樹は返事すらしなかった。
「ま、仕方ない・・・ね。こんな状況じゃ」
軽く言うと、女性はコンビニの袋からお握りを取り出して食べ始めた。
「あの、あなたは、」
敦樹がおずおずと問い掛けて初めて女性は自分がまだ敦樹に自己紹介をしていないことに気付いたらしい。食べていたお握りの残りを飲み込むようにして食べ終え、指についた米粒を食みながら名乗った。
「私の名前は、芝貫蓮音。蓮の音と書いて、ハスネと読む」
シバヌキハスネ。
(・・・・芝貫、)
不意に、何処かで聞いたことのある名前だと思った。
「・・・・・そして初めまして。芝貫シン君」
「・・・・・・・・っ!!!」
一気だった。一気に目の前の女性に途方もない嫌悪感を感じ、敦樹は息を呑んだ。
「いや、」
何故か性別の違う“あの人”と蓮音の顔が重なる。
何もされていないのに、足を指が這う感触がする。
触れられていないのに、腕をつねられている感触がする。
「今は、神楽敦樹君、だっけ」
じわり、じわりと背中に、額に、嫌な汗を掻く。
一刻も早く此処から逃げなければ。
「よろしく」
スッ、と白く細長い指が敦樹の頬に伸び、敦樹はついに目を閉じようとしてー、
「どういうことだ、蓮音!!」
という怒鳴り声がしたかと思うと、部屋のドアがバタン!と開けられた。
「!!」
敦樹は思わずビクッとして、ドアの方を見た。
「こんにちは、総帥」
「蓮音、どういうことだ!神楽の弟を拐わせるなど……!」
神楽の弟、と男は言った。兄の知り合いなのだろうか、と敦樹は男を見つめる。
年の頃は四十代半ばくらいだろうか。若い頃は女性にモテていたであろうと窺わせる端正な顔立ちで、スラリとした均整の取れた体躯をしている。
やり手の社長、というイメージが一気に出来上がった。
「さすが総帥。お耳がお早い」
どこか嘲笑うような口調で、蓮音が言葉を紡ぐ。
男が渋面を作る。
「………その総帥という呼称は止めろ」
「だって言い得て妙じゃない。私のところにも届いてるんだよ?総帥がどれだけワンマンであるか、それに……どれだけ長男に手酷くしているか、という情報がね。それを聞いてたら、」
男の顔に明らかな動揺が走った。触れられたくない話題なのだろう。
「謡のことは、関係ないだろう………」
「さぁ、どうだろうね」
泰然としてクスクス笑う相手に苛立ちがピークに達したらしい。男は彼女から顔を逸らし、蚊帳の外状態だった敦樹に焦点を充てた。
「あ、」
「君が、神楽……敦樹君か?」
カッ、と革靴の音を響かせ、男が一歩をこちらに進めてきた。
「………っ、」
初対面で、しかも相手は男だ。敦樹は怯え、身を固くする。
「安心して良い。私は、君の兄…神楽樹の上司だから」
「に、兄さんの……?」
本当だろうか。兄の名前を出して安心させ、油断したところを襲いかかってくるのではないか。
そんな疑念が湧き出る。
「本当だ。私は芝貫春樹。芝貫グループを運営している者だ」
『僕は、芝貫春樹さんっていうとても偉い人の秘書をしてるんだよ』
兄が就職して数週間経ったころにかかってきた電話でそう言っていたのを、敦樹は思い出した。
「に、…兄さんから、聞いてます。とても偉い人だって、」
「………そうか」
こういうときは、確か……、
「兄が、いつもお世話になってます」
こう言うのだと教えられた。
「君は礼儀がなっているな。神楽にそっくりだ」
どこか寂しげに、男……芝貫春樹は言った。
「どこか痛いところはないか?」
敦樹は首を左右に振る。
「君の事情を多少は知っている……君が芝貫の血を引くことも」
そう。つまり自分と目の前にいる男は血縁関係にあたる、ということ。
間柄までは分からないが、男は知っているのだろうか。
「この子は連れ帰る。部下の大事な弟だ」
「部下、ね。総帥が暇を出したのに?」
「………別に解雇したわけではなく、休みを与えたまでだ」
「珍しく言い訳がましいね。そんなにあの部下が大事?上司よりも上司の息子を優先するような奴なのに?」
「蓮音には関係ない」
「………」
蓮音が黙ると、春樹は敦樹に手を差し伸べた。
「私が家に返してやる。………掴まって」
敦樹はおずおずと春樹の手を取った。大きくて、でもひやりとした冷たい手だった。
「あの狸オヤジが黙ってないよ。あいつはその子にご執心みたいだから」
「………何もかも自分の思い通りになると思ったら大間違いだと伝えておけ。神楽やこの子に関することは、私を通せ……とな」
「ふぅん。自分の息子も同じくらい可愛がってあげたら?」
「余計な世話だ」
春樹は一切の抑揚のない声で、そう言った。
「史哉、居るんでしょう。入りなさい」
「あ、ばれてました?」
ドアの向こうからあっけらかんとした声が上がったかと思うと、史哉が顔を覗かせた。
「……………っ!」
乱暴されそうになったことを思い出し、敦樹はあわてて春樹の広い背中に隠れた。
「どうせ私を監視してたんでしょ」
「へへ」
「史哉、狸オヤジの大事なお客人が闖入者にかっさらわれようとしてるわ。取り返しなさい」
「へぇへぇ」
史哉がズボンのポケットからサバイバルナイフを取り出し、刃先を春樹に突き付けた。
「し、芝貫さん、」
不安になり、敦樹が弱々しく春樹を呼ぶ。きらりと光るナイフに、小さな心臓は今にも握り潰されそうになっていた。
(兄さん助けて、助けて……!)
何度兄を呼んだだろう。
どうして一人じゃ何も出来ないんだろう。弱い自分が、本当に、嫌だ。
「ナイフで脅す、か。弱い奴のすることだな」
春樹は刃に怯むどころか、そんなことを言い出した。
史哉の柳眉がつり上がる。
「……んだと、」
「双子の兄貴が嘆いていたぞ。最近、双子の弟が何を考えているか分からない。少し前までは、史哉の考えていることは手に取るように分かったのに、と」
「創が?」
「双子だから何もかもわかるとは思うな、とは言ったが、兄貴は悲しげに笑っていた。何もかも分かるのが当たり前過ぎて、分からないことがとても怖い、と」
「何が言いたい」
「自分で考えるんだな」
「………………果てしなくうぜぇな、あんた」
「そうか」
史哉がナイフを持つ手に力を込めるのが、敦樹には分かった。
(兄さん、お母さん、お父さん………っ)
ナイフが、春樹の目と鼻の先に翳され、
「………………っ!」
恐怖に、敦樹は目を閉じた。