翳る絆
今回も藪内と渉のお話です。
“友達”。その人はそう言った。
“死ぬな”。その人はそう言った。
“ごめん”。その人はそう言った。
初めて会った筈なのに、どうしてそんなことを言うの?
どうして、そんな悲しそうな顔をするの?
どうして、そんなに苦しそうな顔をするの?
僕は、この人のことを知っている?
この人は、僕のことを知っている?
……分からない。分からない。
自分のことも。恐らく自分を想っているであろう目前の人のことも。
今自分が何処に居るのかも。どうして横になっているのかも。
何も、分からない。
「奏君、どうぞ」
病室前の長椅子に腰掛け項垂れていた藪内に、渉の母親が購買で買ったのであろうパックの珈琲牛乳を差し出す。
「あ、どうも」
こういうとき素直に“ありがとう”と言えないのが嫌になる。
「大丈夫?疲れてない?」
「俺は、別に……」
正面から彼女の顔を見ることが出来ない。
「ならいいんだけど。でも、ありがとうね。渉のこと、助けてくれて」
藪内は項垂れたまま目を見開く。
母親の言葉を呑み込むことが出来ない。
“助けてくれて”“ありがとう”。
(……俺が何をしたっていうんだ?散々傷付けて泣かせただけだ。その俺に、どうして礼なんて言うんだ?)
「あなたの言葉は、ちゃんと渉に……あの子に届いてるわ」
止めろ。自分にそんな力はない。
「記憶がなくなっても、きっとあなたとの想い出は、心に刻まれている筈だから」
想い出?綺麗なものじゃなければ、沢山残したよ。
「あなたの存在は、渉にとっては……一番おおき、」
「止めてくれよっ!」
ついに藪内は耐えられなくなって、立ち上がって渉の母親に怒鳴った。
「何度も言っただろ、俺は、散々渉を傷付けて、泣かせたって!!渉が止めろって言うたびに残虐な気持ちになって、」
「奏君、」
「ますます手を出して、ますます泣かせて」
こうしている今でも、後悔と渉を痛めつける場面とが薮内の胸に去来する。
本来自分はここでこうしているべき人間ではない。
分かっているのに、自分はこうして椅子に座っている。
度し難い馬鹿だ、と薮内は自嘲する。
「奏君、」
「・・・・・俺、帰ります」
浮かびそうな涙をグッと堪え、薮内は歩き出す。
「奏君、待って・・・・・」
薮内は、自分の腕を掴もうとした渉の母親の手を払った。
渉によく似た二重瞼の大きな瞳が哀しげに薮内を見詰める。
そのせいでますます薮内は己に対して苛立ち、嫌悪に陥る。
「・・・・・・・すみません、おばさん」
往来を行く人のことなど介錯せず、薮内は闇雲に走り出した。
その背中を、渉の母親は哀しげな瞳のままで見送るしかなかった。
ポタ、と自分の頬に何かが落ちたような気がして、渉はそっと目を開いた。
「あ。起こしちゃったのね・・・・ごめんね」
自分を覗き込む、目を真っ赤にした女の人。
何がそんなに哀しいんだろう。渉には不思議で仕方ない。
それに・・・・・・女の人のそばには、あの人がいない。
血を吐き、呼吸すら満足に出来ないでいた渉に、死ぬなと言ってくれた人。
渉に、“友人”と言ってくれた人。
恥ずかしげに頬を赤く染めながらも、生きろと言ってくれた人。
「・・・・の、人は?」
「何?渉」
「・・・・・・さっきの、男の人。僕に、・・・死ぬなって、」
途端、女の人が泣き笑いになる。
何か拙いことを訊いてしまったのだろうかと渉は少し不安になる。
「帰っちゃた」
その言葉を耳にした瞬間、渉は自身ががっかりしたことに吃驚する。
「お母さんが、怒らせてしまったから。ごめんね、渉。奏君が来てくれて、一番嬉しかったのはあなたなのにね」
カナデ。それがあの男の人の名前なんだろうか。あまり顔と名前が似合っていないなあと心なし酷いことを渉が思った瞬間、
「・・・・・・・っつあ!!」
言葉に出来ない激痛が頭全体に走った。
「わ、渉!?どうしたの、大丈夫!?」
「あう、・・・っ、ああっ!!」
女の人・・・・彼の母親が慌ててナースコールを押す。響く看護師の声。
『藍田さん、どうされました!?』
「あ、あの・・・渉が、息子が頭が痛いと。凄く苦しんで・・・!!」『分かりました。すぐに行きます!!』
通信が途切れる。
「っつ、たい、痛いよ・・・・!!」
ベッドの上で頭を抱えながら、渉が身悶える。母親は何も出来ずにおろおろするしかない。
「渉、渉!!」
「痛い、助けて・・・・なで、くん」
「・・・・・・え?」
渉は無意識だろう、有る人間の名前を呼んだ。
助けて欲しいと。
願って。
「・・・・・・・痛いよ、奏くん、助けて・・・・たす、けて」
ぼろぼろと涙を零しながら、渉がうわ言のように呟く。
頭を抱え、激痛を必死に堪えながら。
たった一人の名前を呼ぶ。
「奏くん・・・・・・・・・!!」
「!!」
鼻っ面を大型トラックが通り過ぎ、薮内は咄嗟に足を止めた。
「危ねぇだろ、馬鹿野郎が!!」
運転手の罵声も頭に響かない。
「・・・・・・」
衆人の視線が薮内を見るが、すぐに興味を失って各々で歩き出す。
・・・・病院を飛び出した薮内は、あてもなく歩いていた。街の音が殆ど耳に入らない、危険な状態で。
(渉、)
きっと渉は大丈夫だ、と思わないではいられない。
そう思わないと自我を保てそうにない。
薮内は彼らしくないふらついた歩き方をしていて、案の定・・・と言うのだろうか固まって往来を歩いていた不良たちにぶつかってしまう。
「・・・・・・・・悪りぃ」
聞く者によっては全く謝られていると感じられない謝罪だけして、薮内はそのまま通り過ぎようとする。
「おい、ちょっと待てよ」
グイッと肩を掴まれ、薮内は心底面倒そうに後ろを振り返る。
「ぶつかっといてなんだ、その態度は。ちゃんと謝りやがれや」
「謝っただろうが。放せよ」
「何だ、その態度は!!」
いきりたつリーダー格の青年に、別の青年があることに気付いて彼に話し掛ける。
「こいつ、あいつだろ。薮内奏」
「薮内?あぁ、大高の墨田を一人でぶちのめしたって言う?」
「たぶん」
仲間内で何やら雑談を興じ始めたように見え、薮内はその場を去ろうとした。彼らに脅威を感じたわけではなく、今は兎に角一人で居たかったからだ。
何もかもが面倒臭く、自分一人の世界に浸って居たかったから。
だが、
「今日は連れはどうしたの?」
連れ、という言葉に薮内は思わず足を止める。
連れ・・・・よくつるんでる二人の姿がパッと頭に思い浮かぶが、
「ほら、あの女みたいな顔したさ」
その言葉に、渉のことだと察しがつく。
「お前のあとを金魚の糞みたいにくっついてくる奴だよ」
「お前らには、関係ない」
素気無く言い放ち、今度こそ本当に立ち去ってやる、と薮内が思った瞬間、
「俺、その姿見てずっと思ってたんだぜ?薮内の野郎、男に操を立てられてるって」
そんな言葉が聞こえ・・・・・文字通り我を忘れた。
「所詮、多数に無勢だな」
「行こうぜ」
不良たちが固まって路地裏を立ち去る。
「………いっ、くそが、」
散々、殴られ蹴られた藪内は悪態を吐きながらも何とか起き上がった。
顔もだが、腹部を集中的に攻撃され、ズキズキと断続的に痛む。
奥歯が折れたらしく、口の中で欠片が漂っている。
それを路上に吐き捨て、藪内は他の怪我の具合を確認していく。
「何してんだろうな、俺……」
虚しくて、一人呟く。
渉の顔が浮かぶが、慌てて打ち消そうとする。
(俺にはこういうのがお似合いだ。両親に捨てられかけ、小さい頃からの友人にさえ優しくできない自分には、これくらいの方が………、)
そう思わないではいられない。
「………渉、」
打ち消そうとして、無理だった。病院のベッドで苦しむ渉の顔がフラッシュバックのように浮かぶ。
変わってやりたい、自分で良ければ。
……到底無理だと明らかだけれど、それでも。
「……これから、どうすっか、」
やるせなさそうに、藪内は呟く。
自宅に帰るのも嫌だし、かといって渉がいる病院に戻るのも抵抗がある。
(俺には、何処にも……)
路地裏に佇んでばかりもいられず、藪内はあてもなく歩き出した。
「…………」鎮痛剤が効いたらしく、頭の痛みを訴えなくなった渉は穏やかな寝息を立てて眠りに落ちていた。
(渉、一体何があったの……?それに、記憶喪失っていうのは本当なの?)
渉が小細工の出来る子ではないと思ってはいるが、頭痛を訴えた時の悲痛な叫びが頭から離れない。
渉は藪内奏の名前を呼んでいた。心から、叫んでいた。記憶を喪い、彼のことも忘れているにも関わらず。
渉は、記憶喪失のふりをしている?
何か目算があって?
(……まさか、ね。渉がそんなことをするわけがないわよね)
きっと、無意識だったのだと思う。それほど、藪内奏の存在は渉にとって大きいのだろう。問題はそれを、
(どうやって奏君に分かってもらえば良いのかしらね)
藪内は自責の念に駈られ過ぎて、素直に受け入れることが出来ないのだ。
(ねぇ渉。お母さん、どうしたらいいのかしら。どうしたら、昔みたいに二人が仲良く手を取り合えるのかしらね……)
答えは、なかなか出そうになかった。
今回もお読みいただきありがとうございます。でわ、また。