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幼友達〜藪内奏と藍田渉〜

前回の予告の通り、藪内と渉のお話です。

………白い。

頭の中が、白い絵の具をぶちまけたかのように真っ白だ。

………分からない。

何かの魔法にでもかけられたみたいに、何も分からない。

どうして、泣いているの?あなたは、誰?

さっき泣いてた人と、関係あるの?

お母さんと息子さんかと思ったけれど、顔が全く似ていない。そりゃあ顔の似ない親子がまったく存在しない……なんてことはないだろうけれど。

「あなた、誰?」

ワタル。それが、名前。

誰の?どうも自分の名前みたい。でも、ワタルが自分の名前という実感がない。何より自分が生きているという実感がない。

「渉、なんで」

ふわふわ、ふわふわと雲の上を歩いているかのように足元はおぼつかず、現実感がない。

「あなたは、誰ですか?」自分は目の前で顔を歪める人を知っている、そんな気がした。







ベッドの上で上体を起こし、ぼうとした眼差しで虚空を見ている渉を見た瞬間、自分の中で何かが瓦解したような、そんな感覚に襲われた。

「奏くん、」

目を真っ赤にした母親が、藪内の入室に気付いてサッとパイプ椅子から腰を上げた。

「おばさん、渉は、」


母親は、首を静かに左右に振った。

「駄目なの。私のことだけじゃなくて、自分のことも分からないみたいで……」

涙声で、すぐにでも声を上げて泣き出しそうだ。

「そんな、」

藪内はそろりそろりと足音を立てないように渉がいるベッドへ足を動かす。

渉の虚ろな瞳が、藪内に気付いて彼に向けられる。

『奏くんっ』

一昔前迄は、藪内を見つけると渉は嬉しげに彼の名前を呼んだものだった。

それが嬉しくて、気弱な幼友達を守ろうと思っていたのに。

(俺は、何を間違えた………)

手酷く渉を拒絶したのは自分。両親の不仲や、彼らが離婚を考え出した頃、藪内は不安で仕方なかった。捨てられる。いらない自分は捨てられる。

そしてその不安はいつしか苛立ちに変わり、その苛立ちを渉にぶつけるようになった。

(俺は、きっと渉に甘えていたんだ……)

自分がどれだけ酷く接しても、渉なら文句も言わず自分の気持ちを理解してくれると。いつまでも藪内の味方でいて、藪内のそばにいてくれるのだと。

「渉、俺が……分かるか?」

震えた声。情けない。自分から突き放しておいて、忘れられることを恐れている。

「………」

渉からの反応はない。ただ藪内をぼんやりと見返すだけだ。

「っ、」

母親が息を呑み、逃げるように病室を出て行く。

「俺だ、藪内奏。なぁ、わた」

「あなた、誰?」

抑揚のない、平坦な声。

「渉、なんで」

「あなた、誰ですか?」

信じたくない。

信じたくない。

ただの悪ふざけだ。

(今まで俺が好き放題してたから、渉がいい加減我慢の限界になって……、)

そうだ。きっとそうに違いない。

藪内は思わず渉の手を取ろうとした。

だが、

「……………っ!!」

怯えたように、渉がさっと手を引く。藪内から目を逸らし、俯く。

「あ、わ、悪い……」

なんでこうなった。何が、悪かったんだ。

藪内は立ち尽くし、小刻みに震える渉を呆然と見守るしかなかった。






「おばさん、」

しばらくして居たたまれなさがピークになった、藪内も病室を出た。すると出た目と鼻の先に、壁にすがり付くようにして泣いている渉の母親の姿があった。回診中らしい看護師が困ったように彼女の背中を撫でながら声をかけている。

「すみません、後は俺が」

「あ、は、はい」

看護師に礼を言って、藪内は渉の母親に声を掛ける。

「おばさん、」

「奏くん、渉は」

「俺のことも分からないみたいです……拒絶、されました」

胸の真ん中にぽっかり穴が空いたような、そんな感覚。

「ごめんなさいね、せっかく来てくれたのに」

情けなさそうに視線を廊下に注ぎ、彼女は言う。

「いえ………」

母親のことはそんなことはないが、自分のことは仕方ないと思う。

渉をたくさん傷付け、泣かせて来たのだから。

「俺は、別に……大丈夫です。仕方ないから、」

母親の視線が自分に戻って来るのを感じながらも今度は藪内が俯いてしまう。

「ねぇ、奏くん」

「………はい、」

「少し、お話する時間を貰える?」

その言葉に、藪内は悟る。自分はこれから“糾弾”されるのだと。

それも、仕方ないことなのに。

逃げ出したいと感じる自分が嫌だった。







母親は藪内を連れて屋上に出た。たくさんの洗濯物が風にはためいている。

「渉、ね。たまに怪我をして帰ってくることがあったの。……高校に入ってからは、中学に比べて格段にそういうことが多くなったわ」

いきなり言われた言葉に、藪内は硬直する。

きっと、渉の母親は気付いている。

「あの子は慌てた顔で不良に絡まれたと言っていたけど、奏くん……何か知らない?」

母親の、下界を見下ろす横顔は穏やかだ。

もしかしたら許されるのではないかと思ってしまう。自分のしてきたことを。

「俺、です」

気付けば口が開いていた。

「………」

「俺が、渉を……、あいつをいっぱい傷付けて、」

今も耳に残る、渉の悲痛な声。やめて欲しいと、懇願する声。

自分はその声を聞いて、さらに渉を傷付けて。

「だから、俺は、忘れられても仕方ないんです」

自分はそれだけのことをしてしまったのだから。嫌われたって、仕方ない。だから、

「本当に、すみません……」

泣くな。悪いのは、自分なのだから。

「……何となく、気付いてた、かな」

「え?」

意外な言葉に、藪内は思わず渉の母親を見つめてしまった。だが彼女は横顔を見せたままで、藪内を見ようとはしない。静かに言葉を続ける。

「渉はあなたのこと本当に好きだから。それは、確かよ」

「でも、俺はっ………」

「渉を、傷付けた?」

「は、い」

誰が自分に危害を加える人間を好きでいられるのだろう。藪内には考えられない。

「そうね。渉は、確かにあなたに傷付けられた。それは、事実なんでしょう」

「…………」

本当にその通りだったので、薮内は頷くしか出来ない。反論など、出来はしない。

「私も不思議よ。どうして自分を傷付ける人間を好けるのか。自分の子どもながら信じられないわ」

でもね、と母親は告げる。

「私やあなたが不思議で信じられなくても、渉はあなたのこと、好きよ。程度は知らないけど、あなたを好いて慕っていることは確か。あなたのことを話す渉は、本当に楽しそうで、嬉しそうで」

息が詰まって、胸が苦しくなってきた。

「息子を傷付ける人間を、私は許せないけど、でも・・・あの子がその人のことを好いて私に嫌悪されるのを望まないのなら、私はあなたを許しはしないけど、憎むこともしない」

堪えていたものが溢れ出しそうなのか、渉の母親は口元を手で覆い隠し、小さく呻いた。

「・・・おばさん、でも俺は、」

自分を許せそうに無い、といっても良いのだろうか。ただのお為ごかしにしか聞こえないのではないだろうか。

あっさり“糾弾”してくれれば、気持ちも楽になるのに。

どうして渉も、彼の母親も、自分を責めてくれないのだろう。

「・・・・・・・・本当にあるのね、記憶喪失って」

話の展開が急にガラリと変わり、薮内は虚を突かれる。

「ドラマとか小説の世界でだけだと思ってたけど、まさか自分の子どもがそんなことになるなんて」

「・・・・・・・・」

「自分が忘れられてしまうことが、こんなに苦しくて哀しいなんて。よりによって一番一緒にいる時間が長い相手に忘れられてしまうなんて」

母親が体を動かし、真正面から薮内を見た。泣きはらして真っ赤に充血した瞳が、立ち尽くす彼を捉える。

「渉を、助けてあげて」

「!」

「渉には、私よりも薬よりも、あなたという存在が一番よく効く薬の筈だから」

正面きっての思いも寄らぬ依頼に、薮内は激しく動揺する。謡や渉を傷付け冷酷な笑みを浮かべていた少年とは全くそぐわない。

「俺、俺には、」

俺に何が出来る、と薮内は自嘲する。

自嘲するしか、ない。

「・・・俺に何が出来るって言うんだよ。俺は、あいつに何もしてやれない」

「ただ傍にいてあげて欲しいの。渉が何の反応を返さなくても、ずっとそばにいて、あの子を見守っていて」

「見守る、」

薮内が鸚鵡返しのように呟いた瞬間、バンッという扉を開閉する音とともに先ほど廊下で母親を気遣っていた看護師が必死の形相で現れた。

「藍田渉君のお母さん、大変です!!渉君が!!」










「渉、渉!!しっかりしなさい!」

真っ赤な液体が血だということが、薮内にはどうしても理解出来なかった。茫然と見守る彼の視界の中、再び渉が細い体を大きく痙攣させて吐血する。

苦しげに閉じられた目の端に涙が溜り、時たま思い出したように雫が滑らかな頬を流れて行く。

主治医らしい四十代くらいの眼鏡の男性医師や数人の看護師が必死に渉の命を繋ぎ止めようと各々で行動する。

「渉、」

目まぐるしく動く医師たちをぼんやりと見ながら、薮内は病室の入り口で立ち尽くすしかない。

渉の母親は息子の枕もとに膝をついて、泣きながら懸命に彼の名前を呼んでいる。

「・・・・・・・っ、」

キモチワルイ。

眩暈を感じて、薮内は数歩後退した。よろよろと、彼らしくない弱々しい動作で。

脳内は赤一色で、何も考えられない。

ただ苦しくて苦しくて、薮内は喘いだ。だらだらと気持ちの悪い脂汗が次から次へと垂れる。

「奏君!」

「・・・・・」

母親が病室から出てきて、薮内の手を引く。

「お願い、渉の名前を呼んでやって。あの子の心を呼び止めて!!」

「でも、でも俺は」

何を今更。

脳内で誰かの声が響く。粘着質で、暗い闇の底から聞こえてくるような、そんな声。

今まで散々痛めつけておいて、泣かせておいて。

何を今更。別に死んだって構わないだろ?お前は、あいつのことが大嫌いなんだろう?

いつまでたっても金魚の糞みたいに自分のあとをついてまわってじゃれ付いて来るあいつが嫌いなんだろう?なら、放っておけば良いじゃないか。あいつの親や親戚は悲しむかも知れないけど、お前は痛くも痒くもないだろう?

「俺は、」

それにほら、最近芝貫とも仲良くなってたじゃないか。

渉が死んだら、芝貫は大泣きして渉の死を悼み、加えて渉が死んだのは自分の所為だと悩み苦しむだろうな。

大嫌いな渉は死んで、大嫌いな芝貫謡は嘆き苦しむ。

傑作じゃないか。

人を傷付けて無二の快楽と悦楽を手にするお前には、最高なことじゃないか。

だから、今更善人ぶってこの女に従う必要なんかないんだよ。

この女もどうせ自分が息子を喪うのが嫌なだけで、息子の命を繋ぎ止めれる方法が他にもあるのならお前なんかに頼ったりしないよ。

「渉、」

ほら、何ぼけっと突っ立ってるんだ。さっさとこんなところからはおさらばして、誰かを傷付けに行こうぜ?そのほうが遙に生産的じゃないか?

「お願いよ、奏君っ・・・・・!」

分からない。自分がどうしたいのか。渉を助けたいと思っているのか、渉のことなんかどうでもいいと思っているのか。サッパリ、分からない。

『奏くんっ』

どうしてそんな一点の曇りもない笑顔で俺を呼ぶんだ?

勝手に不安になって、勝手に苛立って、何も悪くない渉に一方的にその不安や苛立ちをぶつけて。

そんな理不尽な俺に、なんでそんなに笑いかけてくれるんだ?

『決まってるよ。奏くんが、大事な友達だから』

・・・・・そう言えば、以前にそう言われたことがあった。

それも、最近だったように思う。

愛犬のチコを抱いた渉は、真っ直ぐに視線を俺に向けていた。

そして普段の頼りない弱々しい口調とは打って変わって凛と澄んだ声音で、言ってくれたのだ。

俺なんかのことを、大事な友達だと。

「俺、なんかの声が・・・届くのか」

「きっと。言ったでしょう、あの子は君のこと大好きだって」

薮内はまだ迷っていたが、静かに病室へ戻った。そして医師たちの邪魔にならぬように注意しながら、渉に近付く。

「・・・・・・・・・」

酸素マスクを取り付けられながらも、渉は苦しげに眉根を寄せて荒い息を繰り返している。きつく閉じた瞳からはやはり時々涙が零れ落ちる。

「わ、たる・・・・・・」

彼の名を呼ぶと、閉じられた瞼が微かに動いた。

「渉、頑張れ」

もう一度瞼がぴくりと痙攣したように動き、すうっと静かに開いた。

ガラス球のように透明な瞳がゆっくりゆっくりと声のした方・・・薮内の方へ向けられる。

母親の言葉では自分のことも分からないらしいから、きっと声に反応しただけなのだろうと薮内は妙な期待はしないことにした。

涙で潤んだ瞳が妙に綺麗だと薮内は場違いなことを思った。渉がじっと薮内を見返してくる。

「・・・・・渉、死ぬな。死なないでくれ」

本音なのかどうか薮内にも自信はなかったが、そんな言葉がぽろりと口から零れ出た。

「今まで、ごめん。一杯、傷付けて・・・ごめん。悪かった」

「・・・・・・・・」

「今更謝っても遅いけど、でも・・・俺は」

俺は、俺は、

「お前に、渉に・・・・・死んで欲しくない。生きて、欲しい」

必死の思いで言葉を紡ぐと、薮内の視界の中で、渉が酸素マスクの下の口を小さく動かす。

辛うじて、渉が

『どうして?』

と口パクしたのだと分かった。

「それは、」

周囲では医師たちが忙しなく奔走し渉の救命を施してくれているのに、その音が一切合財聞こえない。この場に自分と渉だけしか居ないという気になってくる。

「お前が俺に言ってくれたのと、同じだ」

渉が不思議そうに目を何度か瞬きする。記憶を喪っているのだから当たり前か、と薮内は思う。

「良いか?一度しか、言わないからな」

とりあえず、というように渉が小さく頷く。薮内は頬が気恥ずかしさに熱くなるのを感じつつ、言った。あくまでぶっきらぼうな口調になってしまったけれど。

「・・・・・決まってるだろ?渉が大事な友達だからだ」


……恥ずかし過ぎる。

藪内は今まで発したことのない類いの言葉に照れを隠せない。じっと注がれている渉の視線を痛いほど感じる。

「だ、だから俺は……お前に、渉に、死んで欲しくないんだ。大事な友だちを、喪いたくないんだ……」

自分が自分ではない感じがする。

まるで誰かが自分に乗り移り、藪内の意思とは関係なしに口を動かしているような………。

『………』

荒い呼吸をしたまま、渉が再び目を閉じてしまう。

藪内は最悪な事態を想像してしまうが、それに気付いたのか医師が声をかけてきた。幾分ホッとしたような顔で、

「………彼は無事だよ。変なことは考えなくて良いからね」

「あ……本当に?」

「あぁ。藍田君も自分はまだ生きるんだって必死に頑張ってるんだよ。見守ってあげて」

藪内は複数回、首を縦に振る。

「お母さん。まだ予断は許さない状況ですが、今のところは落ち着きましたよ。……渉君は必死に生きようとしておられますね」

「ありがとうございます。先生……」

「いえ。では、私はこれで」

その医師は安堵のため息をこぼし、病室から去っていく。看護師たちが器具などの後片付けを始めた。

「渉、」

完全に眠ってしまったのだろう、渉はぴくりとも動かない。緩やかながらも確かに上下している胸が、彼が生きているのだと示してくれている。

(渉………、)

自分の声は渉に届いたのだろうか。死地に向かう彼の足を止めることが、出来たのだろうか。

「奏君、ありがとう」

……お礼を言われるようなことはしていない。

そう思ったのに、渉の母親のその言葉は痛いほどに藪内の胸の裡に染み渡って行った。










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