想い
さ、サブタイが……(汗)
「に、楡乃木さ、」
楡乃木涼子は、か細い声で自分を呼ぶ謡の頭にそっと手を置き、小さくため息を吐いた。
「そんなに情けない声を出さない。男だろう」
「そ、それは」
「だけどまぁ……色々頑張ったみたいだね。謡」
……正直、もう会えないと思っていた。声を聞けないと思っていた。
でも楡乃木涼子という女性は自分のすぐ目の前に立っている。赤いリボンと片目にした眼帯が特徴的な。
「葉弓。その子を放しな。その子はなんの関係もないはずだろう」
涼子の呼び掛けに、葉弓は憎しみのこもった眼差しを向けた。
「涼子。いや、涼」
(涼……?)
「……その名前で呼ぶな。その名前は、」
「兄様に呼ばれるための名前、だとでも言いたいの?」
葉弓の、愁を掴む手にさらに力がこもるのが分かる。
愁は声にならない悲鳴を上げるが、すぐに体を弛緩させ葉弓にされるがままになっている。
「愁君を放してっ!!」
謡の悲鳴じみた懇願に、葉弓が心底鬱陶しそうに顔を歪める。
「うるさい餓鬼。兄様とは似てもにつかないわ」
忌々しげに吐き捨てると、葉弓は無造作に愁の腕を放した。咄嗟のことに、謡も涼子も反応出来なかった。愁の体がものものしい音を立ててコンクリートの道路に、文字通り、落ちた。
「愁君っ!!」
悲痛な声を発して、謡は愁に駆け寄る。葉弓のそばに自分から近寄ることになると知りながら。
「愁君、大丈夫!?愁君っ……!」
「……っぅ、」
愁が小さく呻きながら、ゆっくりと目を開いた。
「謡さん、だぁ……」
「愁君、」
「謡、さん……泣いてる、んですか?」
「だ、って……僕のせいで愁君が痛い目に合って、」
愁が微かに微笑む。
「謡さんのせいじゃ、ないですよ?」
「だ、だけど」
謡が葉弓に連れられて家の外に出なければ、愁と出会すことはなかった。愁が謡たちの方に来ることも、葉弓に愁が捕われることもなかった。
愁が痛い目に合う必要なんか、なかった。
「……ごめん、ごめんね。愁君」
愁は何故謡が自分に謝っているのか、理解出来ずにいる。そして、自分を無表情に見下ろしている女性は、何者なのだろうかと。
「うた…いさ、」
そしてその女性がニュッと手を謡に向けて伸ばしたことに、愁はいち早く気付く。謡を呼ぼうとするが、それよりも早く女性が無防備な謡の髪を鷲掴みにし、引き上げた。
「謡さんっ、」
髪の毛が何本か千切れたか、ぶちっという音が愁の耳に確かに届いた。謡が痛みに息を飲んだ音に加えて。
「っ、」
「涼子!愛しの兄様との対面よ!気分はどう!?」
葉弓は謡を無理矢理立たせると、右手で前髪を鷲掴みにして顎を上げさせ、左手で片手を拘束し後ろに回させた。そして涼子に問うたのだ。兄の気持ちが自分ではなく、“姫”と崇められ持て囃されてきた目の前の女に向けられているという苛立ちを抱えて。
「……………」
だが涼子は葉弓のそんな苛立ちを知ってか知らずか、ぴくりとも表情を変えない。
「葉弓」
「何よ、」
「謡を放せ。痛がっているから」
「あんた、あたしを怒らせたいの?」
今は“謡”のことなど関係ない。今は、“兄”の話をしているのだ。
「あんたの気持ちなんて私は興味ないよ。……謡を放してやって」
謡は痛みによって自然に浮いてくる涙に目を潤ませながら、涼子を見つめていた。真っ赤なリボンに、片目を覆う眼帯。無表情に近いけれど、麗しく整った顔。服装はいつもと同じ。
「断ったら?」
「あんたは断らないよ」
「……何でそう言える?」
「別に。ただの勘」
……大抵はいつもぶっきらぼうで。
思ったことは何でも言う。容赦のない、と言えば早いのだろうけれど。
「にれ、のきさん……」
もう会えないと、勝手にそう思い込んでいた。
“明日もここにいる”と言われ、それを信じようとした。でも、やっぱり素直に信じられなくて。葉弓との会話で疑念を更に膨らませて。
「情けない声、出すんじゃない」
……同じようなことを言われてしまうほど、自分はそんなに情けない声を出してしまっているのだろうか。謡自身には意外と分からない。
「だ、って……もう会えないかと思ったから、」
「……………」
「けど、また会えたから嬉しくて、」
「……大袈裟」
ぼそり、と呟く彼女の頬が微かに赤身を帯びた、ように謡には見えた。ただの勘違い、だろうか。
「感動の対面は済んだ?」
葉弓が苛立たしそうに二人に突っ掛かる。
葉弓の手に更に力がこもり、謡は圧迫感に呻いた。
「ほら、起きなさいよ。愛しの“姫様”が目の前に居るのよ?嬉しいでしょ、ねぇ!?」
葉弓が何を言っているのか分からず、謡は苦しい体勢の儘で立ち尽くす。
起きる、とか姫様、とか。
(……一体なんの話なんだろう、)
戸惑いながら涼子を見れば、やはり彼女は無表情で。何を考えているか、掴めない。
「葉弓」
「何よ、」
「謡は、あの人じゃない」
「そんなわけない!!前にちゃんと見たんだからな。謡が兄様になるのを!」
兄様とは、誰のことなんだろう。
「あたしと兄様が再会するのが嫌なんだろうけど、あんたの思い通りになんかならないんだから……っ!」
母親に歯向かう幼子のように、葉弓が喚く。
それを涼子が無表情に受け止める。
「何を言いたいのか分からないけど、謡はあの人じゃないことは認めなさい」
「うるさいうるさいうるさいっ!!」
ムキになって何度も首を左右に振る。
「葉弓、」
「………っ!」
ぐぅっ、と謡の喉に葉弓の指が三本、食い込む。
「あんまりあたしを怒らせないほうがいいよ?謡がどうなるか分からないから」
「やめて、」
謡のものではないか細い声が足元からして、葉弓の片足が何かに引っ張られる。
「謡さんを放して、謡さんを苛めないで、」
愁だ。地面にぺたりと腰を着けている。恐怖に足が竦んで、うまく立てないのだろう。それでも気丈に顔を上げ、自分や謡に危害を加える女性……葉弓を見上げていた。
「謡さんは、すごく優しい人で、本当は傷ついちゃいけないんだ、」
「愁、く……」
「いつも、こんな僕のこと心配してくれて……面倒も見てくれて。とっても優しい、素敵な人で、」
愁は自分のことをそんなふうに思ってくれていたのかと謡は胸中が温かくなってくるのを感じていた。
「そんな謡さんが傷付くのはおかしいから、だから……謡さんを、放して、ください、」
切れ切れの言葉で、必死に訴える。
「おねが……いします、謡さんを、傷付けないで下さい……」
全て吐露したのか、愁が俯く。葉弓から一切の反応が返らないことが不安なのかも知れない。
謡も不安になりながら、葉弓の反応を待つ。
「言いたいことはそれで終わりか?餓鬼」
「え、」
「お前が謡を心底好いているのは分かった。だが、あたしにはどうでも良いことだ」
あっさり吐き捨て、謡を解放などしない。
「あたしは兄様に会うことが全てなんだっ!貴様らの気持ちなんか知ったことかっ!」
葉弓の慟哭にも似た叫びが、虚しく周囲に響いた。
祈るように握りしめていた息子の指がぴくりと動いて、渉の母親は彼の名を呼んでいた。
「渉?渉っ!!」
ずっと閉じていた目が、すうっと開く。
「渉?お母さんよ、分かる!?」
天井をぼんやり見ていた瞳が、声に反応したように母親のほうへ動いて行く。
「わた、」
「だ、れ……?」
「……え?」
渉の瞳が、ゆっくりと瞬きをする。まるで、目の前の人間が誰なのかをはかるように。
「渉?ねえ、」
色を失った唇が、聞きたくない言葉を吐き出した。
「あなた、誰……?」
頭の中が真っ白になった。
その電話が掛かってきたとき、藪内は自室のベッドで転た寝をしていた。
「………ん、」
枕元の携帯に手を伸ばし、液晶画面を見た藪内は電話に出るか迷った。何故なら、電話主は渉の電話からかけてきたから。
「……」
迷って、しかし藪内は結局電話に出た。
「もしも、」
『お願い、渉に会いに来てっ!渉が、渉が大変、なの………っ』
名乗る暇すら与えず、渉の母親が涙声で訴えて来る。
「おばさん、どうしたんだよ。渉が大変って、」
腹を刺されて手術したのだからそれだけで既に大変なのだが。
『あの子、私のこと……分からないみたいなの、』
一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。
「え?」
『先生の話だと、刺されたことのショックと出血が多かったことへの肉体的ショックのせいで、』
聞きたくない、と叫び出しそうな口を無理矢理閉ざし、藪内は彼女の言葉を聞き続ける。
『記憶、喪失……って、』
それを聞き、頭が理解した瞬間……、
(渉……っ!!)
藪内は部屋を飛び出していた。
渉に、会うために。
渉に、謝罪するために。
今更、遅いのだろうけれど……。
藪内は電話口の渉の母親に電話を切ると告げ、全速力で駆け出した。
次回は藪内と渉がメインです。話があちこちしてすみません……。でわまた。お読みいただき、感謝いたします。