どうして?
神楽が車に乗り込むのを、謡はただ見送ることしか出来ないでいる。今にも泣き出しそうなその顔を見て、神楽が、
「謡様、そんな悲しそうな顔をなさらないで下さい」
と穏やかな声で言う。
「か、神楽さん・・・・」
「大丈夫です。必ず敦樹は助け出します。僕の大事な弟ですから・・・・・」
慈愛のこもった眼差しに、神楽がどれだけ敦樹のことを大事に想っているかが謡にも伝わって来る。
「喩え血なんて繋がっていなくても、僕と敦樹の絆は・・・消えません」
だから、と神楽が先を続ける。
「必ず、助けます」
神楽はシートベルトをすると、助手席に座る烏丸凛に道案内を請う。
「分かってる。では謡様、またお会いしましょう」
後部座席に腰掛ける秋が窓越しに謡に向かって頭を下げる。彼の行く末はどうなるのだろうかと思った。烏丸凛によって、逃げ出した家に連れ戻されるのか。
(・・・・・何故か僕の周りには家に縛られた人が多い、)
謡は亡羊とそんなことを思った。
だが謡はまだ知らない。その縛りの“根”が自分の家である芝貫にあることを。
「それでは謡様、行ってまいります」
エンジンがかかった車は、立ち尽くす謡の前からゆっくりと姿を消した。
家に戻ると、玄関マットの上で葉弓が胡座をかいて不貞腐れていた。じろりと睨まれて、謡はたじたじとなる。
「謡は涼子に会いたいの会いたくないの」
「あ、会いたいですよ」
会って、訊きたいのだ。葉弓のこと、渉に何があったのか、そのとき謡に何が起こっていたのか、そして、涼子自身のこと。
「会って、訊きたい。色んなことを」
「ならさっさと、」
「あなたの目的は何ですか?」
だが涼子に会う前に、ハッキリさせておかなければならないことがある。
目の前にいる、長身の女性のことを。
「あたし?」
「あなたは、初めて会った時、不良に絡まれていた僕や愁君を助けてくれた。なのに藍田渉君を傷付けて、僕を呼び出した。あなたは、何がしたいんですか?」
そして涼子とは一体どういう関係なのか。
「・・・・・初めて会った時に謡を助けたのは、何か作意があったからじゃないよ。ただの気まぐれ」
「気まぐれ・・・・・・、」
「でも藍田渉を傷付けたのは、謡が原因だよ」
「え?」
「・・・・て言ったら君はどうするの?」
「あ、なたは」
「舌を噛み千切る?泣いて詫びる?」
葉弓の顔に、徐々に残虐な笑みが浮いてくる。悪寒を感じて謡は一歩身を引こうとするが、腕をあっさり葉弓に掴まれる。
「あたしの前で泣いてみせてよ。その可愛い顔で泣いて、どうして藍田渉を傷付けたのか訊いてよ。僕のせいですかって訊いてよ。ねえ、可愛い顔で泣いてよ」
あまりの恐怖に、謡はその場にへたり込む。
「お前はさぁ、ただ涼子に会いたい会いたいって泣き叫んで、涼子に会ってれば良いんだよ。余計なことをするから怪我をする・・・・・お前だけじゃなくて、周りもね」
「あ、」
一番に頭に浮かんで来るのは、渉だった。
断片的に浮かんで来る、血に塗れた渉の倒れた姿。そして、謡に身代わりのように薮内やその取り巻きたちに暴力を振るわれ苛められる姿。
“災厄”の源は、自分。
「・・・・・・・ぼ、僕は」
「さあ。“傷口”を抉られたくなければ、黙って私について来なさい。可愛い謡」
葉弓が妖しく笑う。
謡は、ただ彼女に従うしかなかった。
「・・・・・・・・・・僕、」
頬にあたる冷たさで、愁は気絶から目覚めた。
どうやら流しで薬を呑んだ直後に気絶し、そのままだったようだ。
気だるさを感じながら、愁は上体を起こす。
薬が効いたのか、発作は止まっている。
(今、何時・・・・・?)
微かに痛む頭を抱えながら時計を探した愁の目に、二時という時刻を示すそれが映った。
最近眠ってばかりだ、と自嘲しながら、眩暈を起こさぬようにゆっくりゆっくりと立ち上がる。
眩暈はしなかったものの、全身が酷くだるい。精神的に疲れているのか、薬の副作用か。
「咽渇いた、」
冷蔵庫からポカリのペットボトルを出し、無作法を承知で口をつけてごくごくと飲んだ。渇ききった喉に冷えた液体が心地よい。
「………はぁ、」
母の美佳子はまだ帰宅していないらしく、屋内はしんと静まり返っている。
「謡さん、」
不意に謡のことが頭に浮かび、愁は思わず苦笑した。謡の顔を見たいと思った。だが、
(こんな時間だもんなぁ。謡さん、学校だよね)
謡が“勉強会”を命令されたことを知らない愁はそんなことを思う。
(でも何でだろう、今なら謡さんは家に居そうな気がする………)
愁は強張った足を動かし、キッチンから廊下へ出る。外に出る際にはいつも着ているフード付きのパーカーのことは、一切頭になかった。
ゆっくり玄関へ移動し、外へ出た。
「………え?」
愁の目に、求めた謡の姿が映る。けれど謡は一人ではなかった。
「謡さん?」
謡は女性と一緒だった。というよりも女性が謡を引っ張っているように見える。
(……あの人は、僕たちを助けてくれた人……?)
数日前に街中で愁の同級生に絡まれた時に謡と愁を助けてくれた女性。その人が何故謡の家から出てきたんだろう。
「謡さん、」
何故か不安な気持ちが一気に膨れ上がり、愁は叫んだ。
「謡さん!!」
「しゅ、愁君?」
いつものフード付きパーカーを着ていない愁が、自分を呼んでいる。
「謡さん、」
愁がタタタッ、と走り寄って来る。謡は思わず葉弓を見上げる。彼女は色のない瞳で愁を見下ろしている。苛立っている、と謡は直感する。
「愁君、来ちゃ駄目だ!」
だがもう遅い。すぐ側まで来ていた愁に一歩歩み寄った葉弓が、彼の細腕を掴んだのだ。愁の顔が痛みに強張る。
「い……った、」
「愁君を放してください!」
謡の抗議の声を無視して、葉弓が顔を俯かせてぶつぶつと呟いている。
「……いつもこいつも、邪魔ばかり……、」
「は、葉弓さんっ!」
「どいつもこいつもあたしの邪魔ばかりしやがって!!」
いきなり激昂したかと思うと、愁の腕を掴んだまま彼を片手だけで吊り上げた。
「あぅっ……!」
「愁君っ!」
無理矢理引っ張られて痛むのだろう、愁が悲痛な声を上げる。
「や、痛いっ……」
「葉弓さん、止めて下さいっ!!」
謡は慌てて彼女にすがり付くが、敢えなく突き飛ばされてしまう。
「………っ!」
固い道路に尻餅を着き、痛みに呻く。
「うた、謡さん、助けて……」
まただ。謡は自分に助けを求める愁を見ながら、目を見張る。
(また僕のせいで、人が傷ついていく。どうして……?)
何故自分の回りには“災厄”が満ちているのだろうか。
「どうして」
もう嫌だった。自分のせいで誰かが傷つくのは。
「な、せよ」
傷つくのは、自分だけで良い。今までだってずっとそう思ってきたし、今でもずっとそう思っている。なのに、どうして。
葉弓は愁を放さない。病み上がりの愁は徐々に抵抗を見せなくなり、顔色が蒼くなっていく。
「う……たい、さ…」
「愁君を放せよ!!」
そう心から叫んだ瞬間だった。
「葉弓、いい加減にしな」
楡乃木涼子の、心底呆れ返った声が後ろでした。
「!?」
尻餅をついたまま後ろを振り返ると、感情を一切感じさせない硝子玉のような瞳をした涼子が立っていた。
成宮夏が送ってきたメールに目を通した誓は、体育館内でバスケに励むクラスメートたちに視線を戻した。ただいま体育の授業中だが、誓は仮病を使って見学にしてもらった。
(だいぶ面白いことになってるじゃんか。あぁ、俺もこの“祭り”に参加してぇなぁ)
神楽、愁、匂、父親の春樹などの顔が次々に浮かんでは消え、一番最後に残ったのは兄の顔だった。
(さぁ、兄貴。今どんな気持ちだ?悲しいか、辛いか、苦しいか?)
自分が謡に歪んだ想いを抱いていることは小さい時から気付いていた。その想いは年を経る程に膨れ上がり、
(もう、止められない)
これから先も膨れ続けるだろうと誓は思っていた。
歪んだ誓が少し顔を覗かせましたね(笑)ではまた、次のお話で。