消えぬ過去
カツン、と固いリノリウムの床を叩く音にすら敦樹はその華奢な体をびくりと震わせた。
「お、ようやくお出でなすったぜ」
耳元でねっとりと囁かれる。
「いや、遅くなってしまった。狩野くんも忙しいのにすまなんだな」
「いえいえ。貴君のためならばなんのその」
どうやらずっと敦樹のそばにいたのは狩野という男らしい。
「いっ……!」
そんなことを考えていると、いきなり髪を掴まれて体を起こされた。
「目隠しも取ってやりなさい」
「御意に」
その会話のあと、荒々しい手付きで目隠しの布を取り払われる。
「………っ、」
暗闇に慣れた目が明るい人工の光に悲鳴を上げて、頭すらズキリと痛んだ。ついでに手首を拘束しているものもほどいて欲しいが、その様子はない。
「狩野くんは少し下がっていなさい」
「はい」
脇にいた男がサッと敦樹から離れる。
「…………、」
ゆっくりゆっくりと、歩いてくる人物を敦樹はようやく光に慣れてきた目で見上げている。ちくり、と頭痛とは違う刺激が脳を苛み始める。
「やあ」
「あ、ああっ………、」
言葉にならない喘ぎが、敦樹の小さく開いた口から零れ落ちる。
「久しぶりだね」
本性からは考えられないほどに穏やかな目、優しく微笑んだ顔、しなやかな体躯。それらすべてが、昔と何一つ変わってはいない。
敦樹が、“神楽敦樹”ではなかった時から何一つ。
「いや、嫌だっ!!」
「久しぶりの再会なのに連れないな」
そして“彼”は呼ぶ。敦樹が敦樹でなかった頃の名を。
「だろう?シン?」
「………!」
一気に雪崩れ込んでくる、忌まわしい過去の記憶。
一杯一杯殴られた。
一杯一杯詰られた。
一杯一杯蹴られた。
何度も何度もご飯抜きにされた。
何度も何度も閉じ込められた。
「なぁ、私のシン。何故私の前からいなくなったんだい?」
「ひっ………」
恐怖と拘束のせいで動けない敦樹は、自分に伸ばされてきた指に怯えか細い悲鳴を上げる。
「やめっ、放して、放してっ………!」
また殴られるのではないか、また蹴られるのではないかという不安と、過去の記憶が敦樹を縛り付ける。
「相変わらず細い首をしている」
ぬるり、と気持ちの悪い感触が首を支配する。
首を舐められているのだと分かり、背筋がぞっと寒くなる。
「この首を絞めたら、死ぬんだろうね」
「う、あう……」
大きな瞳から、次々に大粒の涙がぼろぼろと零れる。今首に触れている手が、幼い敦樹を苦しめた。痛い目に遭わせた。
また同じことが繰り返されるのだと思うと、恐怖以外の“何か”が体の最奥から溢れ出してきそうだった。
「……け、て」
「どうしたシン。何を言っている?」
「兄……さん、たす……けて」
「兄さん。あぁ、春樹の秘書をしているいけすかないあの男か。あろうことか私のシンを奪い取った憎い男だ」
「ち、違う」
「シン?」
「う……うちはあなたのものでもないし、うちは兄さんに奪われてもない。あなたが、あなたが、あなたがうちをこわそ……んんっ……!」
言葉の途中で、大きな生ぬるい手のひらに口を塞がれる。ぐいっと顎を指で上げられる。
「私が優しいからって、生意気を言うのはこの口かい?」
「ん、んんぅ……っ!」
「たかが“人形”風情が、人間である私にでかい口をきくんもんじゃない」
いっそのこと指に噛みついてしまおうかとも思うが、倍返しされそうで怖い。
「なあシン。また私のもとで暮らしなさい。何一つ不自由のない生活を送らせてあげるよ?」
敦樹は拒絶しようとしたが、気配を察したのかぐっと喉を押さえ付けられた。
「ぐっ……、」
「昔のように、二人仲良く暮らそう」
「……っ、ぃや、」
「神楽の奴らなど目じゃないくらいに愛してあげよう」
……実の両親に虐待され愛を知らなかった敦樹に、“家族愛”というものを教えてくれたのは神楽家の人たちだ。敦樹を愛してくれたのは、神楽家の人たちで目の前にいる男じゃない。
「あなたに、は無理……です」
「何かな?」
曇りのない笑顔が怖い。でも、自分が取るべき行動は、
「あなたにはうちを愛することなんて、出来ない」
彼を拒絶すること。
神楽の家に、帰ること。
また、あの家でみんなで暮らすこと。
「……嘗めた口を聞く」
その言葉を聴覚が捉えた瞬間、強烈な拳が腹部を強打し、敦樹は痛みに呻き声を上げた。。
「……っ、う、…あぅっ」
「私が下手に出ればいい気になりやがって」
「はぅっ………!いぁぁっ!!」
革靴を履いた爪先が腹部にねじ込まれる。
「やめ、てやめて父さんっ………」
必死の哀願も、男には届かない。昔のように。男は敦樹の胸ぐらを掴み、苦渋の表情を浮かべる息子を恍惚の滲んだ瞳で見つめる。
「さあシン。痛いのが嫌なら私の言うことを聞きなさい……良い子だから」
それでも敦樹は頷かない。もう知っているから。自分が神楽家の一員だと。神楽家から離れられなくなっていると。
「……悪い子だ。本当に悪い子だ、」
「!」
今まで以上に暗く粘着質な声音に、敦樹は身震いする。
「悪い子にはお仕置きが必要だな」
『悪い子にはお仕置きが必要だな』
……自分が“シン”だったときに、全く同じ言葉を放たれたことを思い出す。その言葉のあとで父に何をされたかも。
「………ぁ、」
ドクン、と胸の奥が厭な音を立てる。
ぶわっ、と更に大量の汗が体中の汗腺から沸き出る。
「はっ、……はぁっ!」
こんなときに、発作か…と敦樹は思う。
「ちっ。そう言えば持病があったのだったか」
男は憎々しげに呟くと、控えていた狩野を呼んだ。
「はい」
「死なれては敵わん。休ませてやれ」
「分かりました。立て……!」
ぐいっと腕を掴まれ、無理やりの体で立たされる。
「うぅっ……、けほっごほっ……!」
「時間はまだある。ゆっくり考えるが良いわ」
男はそう言うと急に敦樹から興味を無くしたように、
「このあとは?」
「K国の視察の方と会食の予定です」
今まで敦樹と男たちのそばにいながら全く気配を感じさせなかった秘書らしい女が応える。
(帰りたい……母さんと兄さんのいるあの家に、帰りたい……僕を、帰らして……、)
母は、兄は今どうしているだろう。特に敦樹が拐われる場面にいた兄は。
(僕を、探してくれてる……かな、)
そう思う間に、発作は酷くなる。目が霞んで、いく。頭がズキズキして、吐き気がする。次第に自分の体の感覚さえ無くなっていく。
「狩野くん、それのことしばらく頼んだよ」
「はい、分かりました」足音がどんどん遠ざかり、疲労感と安堵が同時に去来する。
「・・・・い、さん・・・」
母や兄のことを想いながら、敦樹は意識を手放した。
母への言伝を記したメモを残し、神楽は謡の家を目指した。自家用車に乗って制限速度ギリギリで公道を飛ばし、神楽は目的地へ急いだ。
「神楽さん、」
神楽が芝貫家のドアフォンを押すと、“勉強会”中のはずの謡がドアを開けてくれる。
「謡様、」
謡は疲れきったような顔で、無理矢理といった体の笑みを浮かべる。また敦樹と重なって胸が痛んだ。
だが謡の背後に立つ少女に、神楽は警戒心を露わにする。少女は謡の背中に刃剥き出しの刀を突きつけていたのだ。
「・・・・どういうつもりですか?」
「あまり謡様にうろうろされても困るので」
簡潔にして明瞭な応えに、しかし神楽は釈然としない。
「とりあえず神楽さん、入って下さい。敦樹、くんでしたよね・・・・敦樹くんのこと、教えてくれるそうです。この・・・」
謡が少女を紹介してくれようとするが、神楽は先手を取って少女の名前を呟いた。
「・・・・烏丸凛」
「神楽さん、知ってるんですか?」
「芝貫にいると色んなことに詳しくなるのですよ、謡様」
「そ、そうなんですか」
「ええ」
少女、烏丸凛は無表情で二階のほうを顎で示す。
「貴様の弟のことを教えてやる」
「・・・・・・」
神楽は小さく顎を引いて、謡を先頭に二階の彼の部屋へ向かった。
義弟の、神楽敦樹という少年の“真実”を聞くために。