親と子
「…もしもし、父さん?」
「何をした」
父親の第一声はそれだった。低く押し殺したような声。不機嫌そのもの。謡は携帯を持っていない手をギュッと握った。
「神楽に車を回させたそうだな。何をした」
「…愁君が、怪我をしたから。発作もあって、具合も悪かったから、車を使わせてもらっ、」
最後まで言い切る前に、父親の怒号が謡を遮った。
「そんなくだらんことに使うなっ!!」
「……!」
「良いか、うちの車はお前の玩具じゃないんだ!神薙の息子の具合が悪かった!?だからどうしたというんだ、なぜそこにうちの車が関わらんといかんのだっ!!」
「父さん、」
「だから言っただろう、神薙には関わりを持つなと!それを無視して家庭教師はするわ、車は私用化するわ、喧嘩には巻き込まれるわ!お前、芝貫グループの名にどれだけ泥を塗る気だ!?」
「お、俺はそんなつもりっ……」
「何が“俺”だ!自分のことは“僕”と称せと言っているだろうがっ!!」
「父さん、お願いだから怒鳴らないでよ。皆に聞こえるから」
「構うものか!神薙愁にも言っておけ、不良に絡まれるのはお前の勝手だが謡を巻き込むな、とな!」
「父さん!!」
余りの暴言に、さすがに耐えかね、謡は声を荒げた。だがそれで怯むような父親ではない。さらに荒い声が返ってきただけだ。「お前は私に歯向かうのか!親にタダ飯を食わせてもらっている半人前以下のくせに、私に歯向かうのか!?」
「…っ」
謡は携帯を切った。これ以上今は父と話したくなかった。どうせ今日は多忙で家には帰ってこないだろうから。
「謡さん?大丈夫ですか?」
匂が心配そうに謡の背中に声をかける。謡は自分が皆の注目の的になっていたのだとようやく気付く。愁など、泣きそうな目で謡を見上げている。謡の父親の声が聞こえてしまったに違いない。
「う、謡さん…僕のせいでおじさんに、」
謡は無理矢理、ではあるが、どうにか微笑む。
「愁君のせいじゃないから。大丈夫」
愁はまだ何かを言い掛けたが、結局は何も言えないままに口を閉じる。
「あの、謡さん。本当にごめんなさい…愁のせいで、沢山迷惑をかけて、」
匂が頭を下げ、愁も倣う。謡は慌てて頭をあげるよう言う。
「ほ、本当に気にしなくて良いんだよ。俺は大丈夫だから」
ただちょっと殴られたり、父親から酷い言葉を浴びせられただけだ。そう、たったそれだけだ。
「それじゃ俺はそろそろ失礼するね。誓、帰るよ」
「ふぃ〜、りょーかい」
誓は勝手にごろごろと寝転がっていた。芝貫家と神薙家は謡が生まれたときからのご近所だったため、勝手知ったるなんとやら……だ。だが匂はひどく嫌そうな顔をする。
「あんたの匂いが付くとうちの犬が嫌がるのよ。だから止めて」
「ま、もう帰るし」
「あんたはあぁ言えばこう言う!」
匂がいきり立つのを、愁が制止する。
「ね、姉さん落ち着いて……っ」
「ったく、」
匂は苛々と髪を掻く。
「じゃ、愁君。安静にしてるんだよ」
「は、はい」
謡は優しく微笑み、誓を伴って神薙家を後にした。
「全く、」
苛々と指で机を叩く姿に、神楽は思わず笑みを溢す。控えめに笑ったつもりだったが、春樹はあっさり気付いた。
「神楽、何がおかしい」
「いえ。春樹さまも、謡さまのことになるととたんに心配性になられるのだと思いまして」
「心配などしとらん。あれの無能さに呆れているだけだ」
「ふふ」
「神楽!貴様も悪いんだぞ。神薙のために車を動かすなど」
「申し訳ありません」
「…にこやかに謝られてもな」
「しかし春樹さま、何分言い過ぎでは…」
「謡の話はもう良い。楢崎さんをご案内してくれ」
春樹は神楽の言葉を遮り、命令を下した。神楽は何か言いたそうだったが、何も言わずに一旦執務室を後にした。
「全くあんたって子は」
スーパーでのパートタイムを終えた神薙美佳子が帰宅して来たのは、午後六時を少し回った頃だった。息子が唇の端に絆創膏を貼っていたり、瞼を腫らしたりしているのを見て、事情を聞き出すこと五分。ため息をついた美佳子の呟きに、愁は小柄な体を更に縮めた。そんな息子に、美佳子は問いかける。
「私が呆れている理由が分かる?」
「ぼ、僕が薬を持って行かなかったから…」
「違います」
「え、」
「薬に頼らないでいようと思い、実践に移したこと、母さんは偉いと思います。とても良いことです」
「じゃ、じゃあどうして、」
美佳子の相貌に苛立ちが浮かび、愁は身を固くする。そんなことも分からないのかと言外に言われているようで、居心地が悪い。
「実践に移すときに、芝貫の人間といたことですよ!!」
「!」
「次男ならいざ知らず、よりによって長男と!しかもあなたが原因で長男が喧嘩に巻き込まれたと向こうに知れたら!あぁ、考えるだけでおぞましい!!何故芝貫の者と、あの長男といるときにそんなことを実践したのですか!」
「そ、それは……謡さんといたら、大丈夫だと、思って、」
「笑止!芝貫の人間といて大丈夫だと思うとは何事ですか!芝貫がどんな人間か、お前もよく知っているでしょう!」
確かに母や父から芝貫グループや、芝貫家の人々の実態がどのようなものか聞いてはいた。誇張も含まれてはいるだろうが、根本的なところは一致しているだろうと。でも、
「う、謡さんはそんな人じゃないっ。母さんたちが思ってるような人じゃ…」
「黙りなさい!」
「っ!」
鋭い平手打ちが、愁の右頬に炸裂した。
「よくもそのようなことが言えますね!」
もう一発平手打ち。
「お父さんが、あいつらのせいでどのような目に遭っているか分かっていてお前はそのようなことを言うの!?」
「ご、ごめんなさい…ごめんなさい」
「良いですか、愁!あの謡とは深く関わらぬように!家庭教師をされているというだけで、この家に入られるだけでおぞけが立つような人間とは深く関わらぬように!!」
「……はい、お母さん」
愁が項垂れるように頷くと、ようやく怒りの矛先を収めたのか美佳子はふぅとため息をついた。
「もう良いわ。部屋で休んでいなさい」
「はい、」
愁は立ち上がり、美佳子の部屋を出た。項垂れたまま上がる階段の途中で、自分の不甲斐なさに涙が零れて来た。
(謡さんは全然悪くないのに。僕のこと、必死に守ってくれようとしたのに、僕は……母さんに何も反論できなかった。叩かれるのが嫌で、僕は、逃げたんだ……)
謡の、心配そうに自分を見る瞳が思い出されて、愁は部屋に入るなり声を上げて泣き始めた。