謡と秋〜過去〜
母親に急かされるままに着替え、病院のロータリーからタクシーに乗り込み自宅に戻って来たのは、十一時近くのことだった。
愁は疲れに微かな眩暈すら感じていた。
「愁」
「な、何?」
美佳子はスーツに着替えていた。
「お母さん出かけてくるから、ちゃんと寝てるのよ」
素っ気無い口調で言い放ち、愁の返事も聞かぬままに美佳子は足早に家を出て行った。
彼女を呼び止めて何処に行くのか訊こうかとも思ったが、結局止めた。
「・・・・・・・・・・・・」
体も心も、酷く疲れていた。
愁はソファに体を埋め、物思いに沈んだ。
(・・・・・・・謡さん、)
学校で愁を苛めていた生徒たちに偶然街中で会ってしまい、謡に迷惑を掛けた。
それに、そのせいで謡は父親に、
「謡さん、」
姉の匂は恐らく愁が入院したことを謡に言った筈だ。彼は見舞いに来てくれたのだろうか。
「・・・なんて、」
愁は自嘲の笑みを漏らす。
謡に散々迷惑を掛けておいて、自分が入院したら見舞いに来て欲しいと思うなどと。都合良過ぎはしまいか。
「・・・っ」
また眩暈に襲われる。昨日から色々あって体がついて行っていないのかもしれない。
愁はソファから立ち上がると、ゆっくりとした動きで自室に引き取った。
次の家庭教師の日までには元気になって、謡にお礼をしたいなぁと思いながら。
・・・・どうやら転寝をしていたらしい。
遠慮がちにされたノックの音で、謡はまどろみから現実世界に戻って来た。
「ん、」
寝ぼけ眼で時計を見れば、あとニ、三分で正午だった。
「謡様、そろそろ昼食の準備をしようと思うのですが、」
戸田珠子だ。
「はい、お願いします」
本当を言えば一切腹は減っていないのだが、ここで断ればまた珠子に訊いて貰うことになるから、それは避けたかった。何度も二階に足を運んでもらうのも悪いと思ったから。
「では準備が整いましたら此方にお持ちいたしますね。お手洗いなどは大丈夫でしょうか?」
「はい、問題ありません」
「分かりました。失礼いたします」
ドア越しにも深々と礼をする彼女の姿が頭に浮かんでくる。
トントントン、と小さな音を立てて彼女の足音が遠ざかって行く。
謡は小さく溜息をついた。
(勉強をする気にも読書をする気にもなれない)
謡は寝返りを打つと、ドアをじっと見詰めた。
どうして自分はあのドアを開けて外に出られないのだろうと思う。
(・・・・・・・・)
あのドアを開けて、知りたいことがたくさんある。藍田渉の容態はどうなのか、楡乃木涼子はあの海の見える公園に居てくれるのか、愁はまだ病院にいるのか。
知りたい。知りたいのに、どうしようもない。
「くしゅっ」
謡は小さくクシャミをして、起き上がった。
壁に背をつけて、謡はじっとドアを見詰め続ける。
「兄さん、兄さんってば!!」
「えっ、」
「……うちの話、聞いてなかったでしょ」
恨めしげな視線を寄越され、神楽は居心地の悪さを感じた。
「………」
敦樹は開いていた英語の参考書を閉じた。
「あ、敦樹?」
「……兄さん、何だか心此処に在らずだし、もう良い」
いつも遠慮がちの敦樹にしては珍しく、ハッキリとした物言いだ。神楽は慌てる。
「そ、そんなことないよ。ほら、機嫌直して、」
「もう良いよ。無理しなくて」
「……敦樹、」
「うちが、我が儘言うからでしょ?兄さん、困るよね」
「我が儘なんか、」
「なんかこういうこと言うと、男女のカップルみたいで抵抗あるけど、」
微かに頬を赤らめ、
「……兄さんはうちと居ても、誰か別の人のことを考えてる」
と言った。
「………!!」
「それが誰かなんてうちには知り得ないけど、兄さんにとってすごく大切な人って言うのは……分かる」
「敦樹、」
浮かぶのは、少しだけ悲しげな笑み。謡の悲しげな笑みと、重なってしまう。重ねてはいけないと分かっている、筈なのに。
「敦樹、」
「だけど、」
敦樹の手が、神楽のシャツの裾をそっと握る。神楽がまじまじとそれを見れば、敦樹の顔が更に赤くなる。
「き、今日だけは……我が儘、する」
春樹や謡に会う前は、一番に守りたかった存在。いつしか離れて暮らし、春樹たちと触れ合うに連れて優先順位のようなものが徐々に出来上がっていた。
その間、敦樹がどのくらい寂しがっていたか考えもしないで。
「うん」
我知らず、一つ頷いていた。敦樹が小さくありがとう、と呟く。浮かんで来る謡の残像を脳裏に追いやり、弟の頭を、神楽は優しく撫でた。
……眠くもないのに目を閉じていたら、誰もいないはずの自室で空気が動いたような気がした。謡は何だろう、と思いつつ瞼を開き、
「っ!?」
度肝を抜かれた。
「な、だ……れ?」
目と鼻の先に、きらりと光る刃の先端。そしてベッドに横になっている謡を、何の色も浮いていない瞳で見つめる少女。それらが謡を混乱に陥れる。
「君は、」
「動かないでいただきます、芝貫謡様」
「!?」
どうやら目前の少女は謡のことを知っているらしい。謡には見覚えのない少女だ。まだ小学生だろうか。顔立ちや体格は幼いのに、瞳は酷く冷たく、色がない。
「………騒がれませぬよう。私はあなたを傷付ける気は毛頭ありませんから」
淡々とした口調。
刃先は一ミリもぶれず、謡の動向を冷徹に伺っている。
「私が用のあるのは、成宮秋という存在だけ」
「なり……みや、」
聞いたことがある。芝貫傘下の、警護・警備を生業とする一族だ。だがその成宮と自分に何の関係があるのか。
「そのうち成宮秋は、謡様に近づかれるはずです」
「ぼ、僕に……?」
少女はこくり、と一つ頷き、
「成宮秋は反逆罪です」
と言った。謡はギョッ、と目を見開く。
「は、反逆罪……?」
「そう。芝貫謡……あなたを“檻”から解放するために成宮一族の意向に反る行為をしたためです」
「僕を……解放、」
目の前の少女が何を言いたいのかが分からない。成宮がどうしたという。自分を、解放?何から?
父親、から?それとも、
「その……反逆罪になった人を、君は、どうするの?」
「逃げられない程度に痛め付けて成宮に引き渡せ、と命じられております」
「だ、誰に?」
少女の瞳が、一瞬だけ揺れた……ような気がしたが、
「秋様の父上……成宮夏秋様に、です」
「!!」
その名前に、一気に記憶が引き戻される。
一切の温度のない冷えた瞳。歪な形だけの笑み。猛獣を思わせるような鋭い牙に、威圧感のある大柄の体。感情を一切排した抑揚のない口調。そして、己が息子を罵倒し打ち据えた。
『無理したらダメだよ』
そんなことをのうのうと言った覚えがある。その相手が成宮秋という人物ではなかったか。
確かあの時、謡は父の春樹とともに成宮家を訪問した。本来は当主の成宮夏秋だけと対面する予定だったのだが、何を思ったのか成宮は双子の息子の次男を謡たちに対面させた。
だがそのときの次男……成宮秋は明らかに体調不良に陥っていた。
真っ赤な顔に、潤んだ瞳。かたかたと震える体。息遣いは安定しているとは言えず、目付きもぼんやりとしていた。
夏秋は、そんな息子に春樹たちに挨拶をするように命じた。
だが体が思うように動かないのか、秋の挨拶は非常にしどろもどろで口調も曖昧だった。
春樹の横で座っていた謡は具合が悪いのに無理矢理連れて来なくて良いのに、と思っていたが春樹が何も言わないのでまんじりともせずに黙っていた。
……その矢先の出来事だった。夏秋がいきなり立ち上がったかと思うと、秋の頭を蹴り付けたのである。
『!?』
謡は思わず腰を浮かせかけたが、春樹に腕を掴まれて動くことが出来なかった。そんな謡の前で、床に倒れ込んだ秋の背中に夏秋が太い足を載せた。
秋の顔が苦痛に歪む。
『おと……さ、』
『貴様、わざわざ芝貫様にお越しいただいているのになんという態度だ!』
『も、しわけ……ありま、うあっ!』
足に体重がかかったのだろう、秋が苦痛の声を上げる。外見が幼く見えるためか、余計に痛々しくて見ていられなかった。
自分の腕を掴む春樹の手を振り払い、謡は立ち上がっていた。
春樹のバカが、という呟きは無視した。
『成宮当主!!』
『謡様、これは成宮なりの躾け方。何も口出しされませんよう』
夏秋に圧倒され、怯みかけたものの、謡は拳を握りしめて、
『これは明らかな折檻、及び虐待です!』
啖呵を切っていた。
夏秋の目に苛立ちが浮かび、倒れたままの秋の瞳が大きく見開かれる。謡は更に夏秋を糾弾しようとする。が、
『僕なら、大丈夫……ですから、』
秋の弱々しい声に、開きかけた口を閉ざすことになる。
『だけど、』
実父によって背中を踏みつけられながらも、秋は自分を気遣う謡に気丈に微笑んで見せる。
何故かその姿が自分に重なってしまい、言い様のない感情が沸き上がる。
『ふん』
夏秋は鼻息荒く、秋の背中から足を退かした。
『謡、座りなさい』
父の冷たい声に、謡は従う他ない。だが一つだけ、秋に言っておきたいことがあったから、だから、
「回想は終わりましたか、謡様」
「あ、」
ちらりと眼球を刃先が掠めたような錯覚に、現在の謡は背筋を凍らせた。
「思い出した……秋っていうのは、」
「恐らく、あなたが思い浮かべている人物で合っています」
「でも、どうして……。会ったのはあの時の一度だけだし、大した会話だってしてない、なのにどうして、」
そんな人が何故、自分“なんか”を、謡を助けるためだけに一族に反するのだろう。反逆罪になったのだろう。
「どうして、」
言葉の続かない謡を見る少女の目はやはり冷たく。
「私にもさっぱり理解出来ません。成宮を、己の生家を敵に回してまであなたを助けようとする秋の気持ちが、全く理解出来ません」
「………っ」
「ですが成宮から離反したのは事実。ならばそれ相応の咎を負ってもらう迄です」
少女の唇の端が歪つに歪みかけ、
「あぁ、いけない。あれを白日の元で傷付けられるなど、想像しただけで笑えそうだ。謡様の前で粗相をした」
「………っ、」
体が強張って動かない。目の前の少女は危険だと警鐘が鳴るのに、どうにも出来ない。
「さぁ、あれはいつ謡様を助けに来るのでしょうか。それまではお辛いでしょうが、このままでご辛抱下さいね」
少女は成宮秋を痛め付け、夏秋に引き渡すつもりなのだろう。
……謡を助けるがために成宮家を裏切ったから。
…………どうして?
どうして、こんな僕なんかの為に……人が傷付くの?
「こ、ここに必ず成宮さんが来るとは、」
「必ず来ます。謡様を助けに。牢獄から救い出す為に」
少女の口調ははっきりしていて、一切の迷いがない。謡は気圧されて、口をつぐむ。
「ですから、しばし我慢下さい」
謡は刃先と少女を交互に見比べながら、ただ黙るしかなかった。