あらたな波乱へ
最悪な気分で朝を迎えた。
「ん、朝・・・・・・」
酷く嫌な夢を見ていたような気がする。謡は重い目を擦りながら、ベッドの上で上体を起こした。
ぼんやりと中空を睨みつけながら今日は学校に行くか行くまいか迷った謡だったが、直に自分がどういう状況にいるのかを思い出した。
(そうか・・・学校に行きたくても行けないんだよね・・・、今の僕じゃ、)
自嘲気味に笑みを浮かべる。と同時にケホッと咳く。体がダルい。頭がぼんやりして、考えるのが億劫で仕方ない。
「兄貴、起きてる?」
コンコン、と軽やかなノックの音とともに誓の問う声がした。
「・・・・誓?」
「朝ご飯作ったから、ドアの前に置いておくよ・・・具合悪いとか、ない?」
誓が兄である謡を心配するような言葉を出すのは珍しい。一体どうしたのかと謡は不思議に思う。今までがおかしかったのに。
「少し、熱っぽいかな・・・誓、僕と話してたら誓まで叱られるから、」
「大丈夫だよ。親父、もう家を出たから」
「そう。・・・神楽さんは?」
問うと、誓が微かに鼻で笑う気配がした。気のせいだろうか。
「来てないよ。理由は兄貴が一番分かってるでしょ?」
今まで感じたことのない棘のようなものを誓の言葉から感じ取ってしまう。ただ神経過敏になっているだけなのだろうか。
だが確かに今ドアを隔てた場所に立っている誓からは今までにない悪意のようなものを感じる。
「誓、何か・・・怒ってる?」
「怒る?俺が?真逆」
楽しげにあははっ、と笑った後、謡を嘲弄するように、
「ただ兄貴の馬鹿さ加減に呆れてるだけさ」
「っ」
誓から初めて馬鹿と言われた。腹立たしいというよりも哀しく、そして昨日までの誓とは明らかに何かが違っていることを確信した。
「誓、僕は」
「親父にばれたらどんな目に遭うか知ってて家を抜け出すんだもの、それが馬鹿でなくて何なのさ?兄貴?」
「そ、それは、仕方なくて、」
「ま、俺は兄貴がそれでどうなろうとどうでも良いけどね。結果的に神楽さんを巻き込むことにはなったけど、兄貴にあっさりほいほい従ったのはあの人だし、同情も出来ないけどね」
「誓、どうしたの。何か変だよ、」
本当に弟の誓なのだろうか、と馬鹿げた疑問が浮かぶ。声は誓のものじゃないか。
「じゃ、俺学校行くから。昼飯前には家政婦さん来ると思うからさ。トイレはまぁ、何とかして」
最後は至極どうでも良さそうに言い捨てると、ドアの前から誓が遠ざかる気配がした。
「誓、待って……っ!」
気付けばドア越しに弟を呼び止めていた。ギシッ、という床の軋む音がした直後、
「何」
という抑揚の一切ない声が上がった。
「誓、お願い。此処を開けて、」
口に出してから、自分は何を言ってるのかと自分で驚く。そして驚いたのは誓も同じだったらしい。妙な沈黙がドアで隔てられた二人に流れ、
「ぷっ、あははははははははははははっ……!」
誓が明らかに哄笑と分かる笑いを上げた。
「ち、誓?」
「ほ、本当に兄貴はバカで好き者だなっ!まだ親父を怒らせて傷付く気?どれだけマゾなのさ!?」
「誓、違うんだ。僕は会わないといけない人がいて、話を聞かないといけないんだ。だから、昼までで良いから僕を此処から出してっ……!!」「いっそ夜まで外出して、一生家から出られないようにして貰ったら?」
「!!」
あまりの言葉に、怒りや哀しみを通り越して、虚脱感に襲われる。
確かだと思っていたものがあっさり粉々に砕け散ってしまったような感覚。
自分が今誰と話しているのか、分からない。
「ち、ちか」
「なぁんて流石にそこまでは思わないけど」
「え、」
暗く陰鬱だった声が普段のふにゃ、としたものに戻る。
「ごめんごめん、少し遊んでみただけ」
何の反省もない声音で。
「兄貴さぁ、少し大人しくしてないと本当に軟禁じゃあ済まなくなるよ?」
「……っ」
誓の言葉から“監禁”という言葉を連想してしまい息が詰まる。まさか父とはいえそこまでするまいという想いと、父ならしかねないという想いが無尽に交差し表現のしようがない感覚に囚われる。
「じゃあ、俺行くから」
さっき感じた、バカにしたニュアンスがまた蘇った……ような気がした。
「……………、」
この状態が既に“監禁”ではないだろうか、と謡はぼんやりする頭で思う。だが誓は“軟禁”だと思っているようだし、父に至っては“軟禁”だとすら思っていないのかも知れない。そう思うと、自然と笑みが浮かんだ。哀しいような、もうどうしようもないような、そんな言い様のない気持ちが沸き上がり、喉元で燻る。
「……………」
謡は窓を見遣った。外は晴れているらしく、カーテンの隙間からは明るい日差しが差し込んでいる。
唯一の突破口はそこだ、とでも言うかのように、謡は窓をじっと見つめる。
渉はどうなったんだろう。
起き抜けに薮内が思ったのは渉の様子だった。
携帯を見ても、誰からの連絡も入っては居ない。(入るわけが、ないか・・・・・)
入れてもらえる資格もない。
薮内は溜息を一つ零し、ベッドから這い出た。そろそろ出なければ学校へ間に合わなくなるが、行く気にはなれなかった。
行ったところで真面目に勉強するわけでもなく、一緒にいたい友人や恋人がいるわけでもない。
今日はサボることを決めて、薮内は床に腰を下した。
「おはようございます、誓様」
朝っぱらから成宮夏に会うのは珍しかった。そして余裕のなさそうな夏を見るのはもっと珍しかった。
「どうした、悲壮感漂う顔をして」
何となく訊かずとも分かったが、誓は敢えて訊いてみた。
「・・・・・秋が姿を消しました」
「ふうん?」
「成宮の婆が秋捕縛の命を一族に下しました。秋は・・・追われる身です」
誓は愉快げに唇の端を上げて見せた。
「昨日まで寵児と持て囃されていた人間が一日経っただけで厄介者とは。人生とは面白い」
夏は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「お前は秋を探さないのか・・・・・まあ検討がついてるのかな」
「・・・・・・秋は、恐らく謡様のもとへ行くでしょう」
予想でもなく、勘でもなく、分かりきったこと。
「だろうね」
誓は軽く肩を竦め、歩を再開した。秋がどうしようと誓には一切関係がない。
傷付くのは秋か夏か謡だ。自分には一切害がない。だから誓には何の関係もない。ただいままでの生活を貫くだけだ。
「夏もしたいようにすれば良い。弟を取るか自分の人生を取るか。ただそれだけの問題だろ?」
夏が立ち止まったが、誓は立ち止まらなかった。
(さあ、無力な秋。お前は兄貴をどうやって親父の手から救い出すつもりかな?)
また波乱が起きそうな予感に、誓は一人静かに心躍らせたのだった。