安寧は訪れることなく
「…え?」
『……渉がずっと奏くんのことを譫言で呼んでるの……あなたを連れて来たら渉が起きてくれるんじゃないかと思って…』
渉の母親からかかってきた電話の意味が、藪内は咄嗟に分からなかった。
時刻は午後九時前。渉の安否を気にかけ部屋で気も漫ろに過ごしていた静寂を打ち破るように鳴った携帯電話を取って聞こえてきたのは、渉の母親の今にも泣き出しそうな声だった。
「それ、どういうことっすか?」
酷く嫌な予感がする。そしてその予感はその直後に的中する。
『渉、刺されたの…!』
ドクン、と心臓が鼓動する音がすぐ耳元で聞こえた。携帯を握る掌にじっとりとした汗を掻く。
「………」
芝貫…咄嗟に藪内の中で気弱げに微笑むクラスメートの顔が浮かぶ。あいつはどうなったのだろう。
「おばさん……渉は、一人だった?」
『一人だったって、救急隊の方は言ってたわ。奏くん、何か知ってるの!?』
「兎に角、今から行きます」
藪内は病院名を聞くと、家を飛び出した。
「ん、」
ベンチに寝かせていた謡が小さく声を上げて身動ぎしたので、涼子は閉じていた目を開けて彼を見た。というより膝枕状態なので、見下ろした、というのが適切か。
「………」
涼子の見守る中、疲労の漂う瞳が力なく開いた。すぐに状況判断は出来ないようで、パチパチと何度か目を瞬かせる。ぼんやりした目が、涼子を捉える。
「……楡乃木、さん?」
「自分がどうなったか、分かるか?」
「僕、は……」
内省するかのように目を閉じ、
「!!」
いきなり起き上がる。動きが激しい、と涼子が思えば、案の定謡は小さく呻いてぐらりと体を揺らした。目眩がしたのだろう。涼子はそっと彼を支えてやる。
「謡、落ち着け」
「藍田君は、藍田君はどうなったんですか!?」
「何処まで覚えてる?」
謡は何とか動揺を押し込め、頭を押さえながら、
「……確か、藍田君と……僕を助けてくれた人が、いて……」
思い出そうと必死に頭を働かせていた謡だったが、急に左腕に激痛が走って目を白黒させる。
「・・・・・・・っ!!」
「謡?」
「そうだ、確か・・・藍田君が暴行されて倒れてて、僕は藍田君を助けようとしたんだけど、あの女の人に左腕を殴られて、」
そう。そして起きろ、とか何とか言われて、髪を引っ張られて、
「・・・・・・それから、どうなったんだっけ」
その先がどうしても思い出せない。渉が結局無事だったのかもサッパリ分からない。
「その先は覚えてないのか」
「・・・なんだか頭に靄がかかったような感じがして、正直分からないです・・・・・僕はどうして此処に・・・それに藍田君は、あっ!」
渉はガラスで葉弓に腹を刺されたのだ。真っ赤な液体が傷口から溢れ、埃のかぶった床を朱に染めたのだ。あんな大怪我をして、ただで済むのか。
嫌な想像が容易に浮かんできて、謡は顔を蒼白にして涼子を見た。涼子の澄んだ瞳がじっと謡を見返す。
「真逆藍田君、」
「・・・死んではいない」
凪いだ湖面のような静かな口調。
「死んではいない、ってどういうことですか!?」
涼子を問い詰めたとき、携帯電話が震えた。震え方を着信相手によって変えているので、神楽からかかってきたのだと知れる。
神楽に父の足止めを頼んでいる。そのことか。
「・・・・・もしもし、神楽さん?」
苦渋を含んだ神楽の声が謡の耳に飛び込んで来た。
『謡様、申し訳ありません。あまり春樹さまを留めることが出来ませんでした。今、家の近くの道路
で信号待ちをしています』
「!」
春樹が帰って来る。長男は家にいるだろうと思っている春樹が帰って来る。もし謡が家にいないことがバレたら、春樹はどうするだろうか。
以前の“勉強会”を思い出す。
ずっと部屋から出られなかった。携帯は取り上げられ、外部との連絡を禁止された。
部屋から出られるのは手洗い。風呂は二日に一回。寝る時間は午後十一時から翌朝五時までと厳粛に決められ、勉強のノルマを達成するまでは自由に行動できなかった。許された時間以外は部屋から出られず、苦しかった記憶がある。
部屋から出ないように特注の錠まで付けられたほどだ。
謹慎を解かれた後、愁や匂に酷く心配をかけさせたと知った。それ以来父には逆らわないよう、言われたことを着実にこなして来た。
『謡様、まだ外出されているのですか?』
神楽の焦った声。普段温厚だが滅多なことでは動揺しない神楽は、謡や春樹のことになると人が代わったようになる。
「・・・・はい、」
『謡様お願いです。以前のようなことを避けるためにも、今は家で大人しくされていてください』
自分と春樹の間が険悪になることを、神楽は酷く恐れている。謡が疵付くことも春樹が疵付くことも彼は是としない。
『謡様?』
「・・・・・分かりました。至急戻ります」
『ではもう少し何とか時間を稼げるようにします。一刻も早くお戻りくださいね』
電話は神楽の方から切れた。謡は携帯を俯いた状態で見つめていたが、何かを振り切るように首を左右に振った。一体何を振り切ろうと言うのか。
「楡乃木さんは、僕に何が起こったか知ってるんでしょう?」
嫌に静かな抑揚のない声に、涼子はまだ見ぬ謡の部分を見た気がした。「・・・・・・」
「楡乃木さんっ」
「必ず話すから、今日はもう帰れ。今のは、そういう電話だったんだろう」
図星だったらしく、謡は息を呑んで苦しげに唇を噛む。
「また明日、此処で待ってる。ちゃんと学校に行って、放課後に来ると良い」
「本当、ですか?そう言って、明日楡乃木さん、いなくなってるなんてこと、ないですよね?」
謡が不安げに瞳を揺らす。涼子は微かに頬をゆがめ、何とか笑おうとする。
「嘘じゃない。・・・・・ちゃんと、いつも通り此処で待ってるから」
謡は暫く涼子を見ていたが、こくりと頷く。
「分かりました。あなたのこと、信じます」
そう言って、ベンチから立ち上がる。
「腕が酷く痛むようならちゃんと病院に行くのよ」
「・・・・はい」
謡は当然の如くまだ納得がいかないらしく、やはり帰ることを逡巡していた。
「藍田渉は恐らく救急車で何処かの病院に搬送された筈だ。生きようと頑張っているだろう・・・・・だから謡も頑張れ」
「・・・・・絶対、明日此処に居てくださいよ」
涼子は微笑む。
「ああ」
涼子がもう一度微笑むと、謡は歩き出した。
(……悪いね、謡)
謡の背中が視界から消えるまで、見送る。まるでそれが見納めかのように。
(……………)
涼子は立ち上がる。“彼”が愛した海を背に。
どこに行くの、と問い詰める母親の声を背に向かった先に、信じたくない光景が広がっていた。
「奏、くん……」
渉の母親が、涙の痕が残る頬のままで藪内を見る。
「おばさん、わた、渉は!?」
何をそんなに焦っているんだ、と思う。自分は渉を傷つけたんだぞ。どの面を下げて心配なんてしてるんだ?
「おな、お腹を刺されて……今、」
「腹、を……」
どうしてそんな目に、と考えてすぐにハッとする。
(俺は何を暢気なことを考えてる……渉をさらったあの片目の女の仕業に違いないじゃないか……)
謡が公園に行かなかったから刺されたのか?いや、謡のあの真摯な口調。嘘を言っているようには、
(……だが事実渉は腹を刺されている。どうなってるんだ、芝貫っ!!)
苛立ちがピークに達する。「奏君、渉が刺されたことで、何か知っているの?」
焦りに顔を歪め、拳を握り締める藪内に、渉の母親が藁にもすがるような眼差しで問いかける。恐らく渉を刺した人間を特定出来ていないのだろう。
「俺は、別に……」
庇うわけではないが、謡や片目の女のことを言う気にはなれない。それに、信じてはもらえないだろうから。
「………渉、死んではいないんですね」
押し殺したような藪内の口調に、母親が息を詰めたような顔で頷く。それを確認し、藪内は入ってきた方へ身を翻した。
「渉に、会ってくれないの?」
ズキン、と胸に鋭い痛みが走る。
「渉、奏君のことを呼んで、」
「俺には」
母親の言を途中で遮る。その先を聞いてしまえば更なる胸の痛みに襲われて動けなくなる。そう思ったから。それに、
「俺には、渉の……あいつのそばにいる資格、ないから」
「……え?」
一杯傷つけた。精神的にも肉体的にも。言葉と、体の暴力で。加害者に、被害者のそばにいる資格はないんだ。だから。
「……失礼、します」
「奏君!?」
母親の呼び掛けを、藪内は受け流す。病院を出て、向かう場所がある。
(渉、頑張れ……)
渉がどういう状況で発見されたのか、何故刺されたのか、そして誰に刺されたのか。それを知らなければならないという思いに捕われるまま向かう先、それは。
(芝貫、ちゃんと説明させてやる……)
謡の自宅は知らないが、自宅の固定電話の番号が分かるから問題はない。
藪内は停めておいたバイクを駆って目的の場所へ急いだ。
「お帰り兄貴…間に合ったな……って!?」
ドアを開けるなり倒れ込んできた兄の体を、誓は慌てて支えた。父がまだ帰宅していないからその安堵で体から力が抜けたのか、とまで思ったがどうやら違うらしい。
「うわっち…!」
荒く息をする謡の額に手をやれば、すぐ手を引っ込めたくなるほどに熱くて流石の誓も驚く。
「兄貴、兄貴!?」
長い睫毛を震わせ、謡が力なく目を開ける。熱に浮かされて潤んだ瞳が誓を捉える。蒼い唇が震えながら、声もなく誓、と弟の名を象ったように見えた。
「と、兎に角もう少し頑張れ……リビングに、」
謡は頷いて立ち上がろうとするが、力が入らないらしく崩れ落ちる。
「あ、兄貴っ」
「ご…め、」
真っ赤な顔。荒い呼吸。風邪でも引いたのか。
「………」
脇の下に手を入れ、謡を何とかリビングにまで運ぼうとする。
だが、
「……………」
間の悪いことに、
「お、やじ………」
神楽を伴った春樹が帰宅してきたのだ。春樹は玄関先で倒れている謡と兄を運ぼうとしているエプロン姿の誓を一瞬驚いた目で見下ろしたが、謡が靴を履いたままなのを見て目付きが変わった。
「いあっ……」
「春樹さま!」
「親父!!」
春樹はぐったりとしている息子の髪を鷲掴みにすると、
「……こんな時間まで何処に行っていた」
感情のこもらない平坦な口調。それに反して激情に燃える瞳。その対比が不気味だ。
「春樹さま、」
「神楽」
「っ!」
春樹が神楽の胸のあたりをついた。神楽はバランスを崩し、ドアに背中を強打する。
「貴様にも後から訊きたいことがある」
「っ、……はい、」
春樹は謡の髪を引っ張り、無理矢理彼を立たせた。恐怖と痛みに、謡は赤い顔を歪めている。
「……良い度胸だな。よほど私を怒らせたいのか」
「ご、ごめ…なさ、い、父さん、ごめんなさっ……」
喘ぐように紡がれる謝罪を、春樹は聞き入れはしない。「誓」
「えっ、何…」
「今から謡は“勉強会”を行う。誰も部屋に通すなよ。謡を誰かが訪ねて来ても、絶対に通すな」
誓は春樹の気迫に圧されて何度もコクコクと頷く。
「………」
勉強会という名前に、謡は絶望感に襲われる。
「私を心底怒らせた罰だ……さっさと部屋に行け!!」
家全体を揺らすような大音声に、謡は体をビクッと大きく震わせふらつく足で立ち上がる。これ以上、父を怒らせてはいけない。神楽や誓にも影響がいく。
「親父、」
誓が春樹に何か言いかけるのを謡は止める。
「ち…かい、良いから」
「だ、だけど、」
久しぶりに狼狽える弟を見たなぁ、と謡は場違いに感嘆した。
(あ、明日……楡乃木さんに、会わなきゃ、いけ…ない、の……に、)
渉のこと、葉弓のこと、涼子のこと、そして、謡自身のこと。
(聞かなきゃいけない…のに。でも、無理……かな。家から、出られなくなっちゃっ、た)
限界だった。部屋に行かなければ春樹に怒られる。だが気力も体ももたなかった。喚く春樹の声すら聞こえない。
(藍田君、無事だと……いいなぁ)
謡の意識は、渉の安否を考えたところで途切れてしまった。
また謡が可哀想なことになってきました……。