公園へ〜呼ばれて〜
強く壁に向かって突飛ばされ、渉は背中を強打する羽目になった。
「……っ、」
「芝貫謡が来るまで大人しくしといてくれよ」
渉を連れ去った女は、何処かから取り出したロープで彼をぐるぐる巻きにし、手首と足首もそれぞれ拘束した。楽しげに鼻歌なぞを歌いながら。
「どうして、こんな、」
女からは渉を傷つけようという意志は感じられない。だが、渉は女が怖かった。表面上は笑いながらも、心中では何を考えているのか分からない。不気味なのだ。笑顔という仮面の下に、何か途方もない化け物を飼っていそうで……。渉は怯む体に活を入れながら、目だけで周囲を確認する。……渉が連れて来られたのは、シャッターを下ろして久しいらしい店だった。蜘蛛の巣や埃をかぶったまま放置されたアンティークの雑貨たちが薄闇の中で渉の目に入る。喧嘩沙汰でもあったのかガラスのショウケースが割れ、破片が床に落ちたままになっている。
「芝貫謡、知ってるよね?」
身動き出来ない渉の横に来た女が、耳元でそう問い掛ける。わざとなのか、ついでのように息を吹き掛けて来る。気持ち悪くて、渉は小さく震えながら目を閉じた。すると女がぐいっと渉の顎を掴み、無理矢理自分の方に向かせる。
「……っ、」
「訊いているんだ、答えろ。芝貫謡を知っているな?」
「しっ、知ってる、知ってます、」
「関係は?」
「か、関係?」
女が何を訊きたいのか、渉には今一掴めずにいた。戸惑う渉に、女が頷いて見せる。
「そう、関係。あたしが思うに、まだそんなに親交があるわけではないように思うのだが?」
それはそうだ。自分は、謡を苛めるグループに付き従っていたのだ。謡と親しい付き合いが有るわけがない。渉は何度も首を縦に振る。
「そうか、やはりか」
「……あなたは、芝貫くんをどうする、んですか」
掠れた声しか出せない。加えて、質問すべきではなかったかも知れないと思った。だが女はあっさり応えた。
「起きて貰うんだよ」
渉には理解出来ない言葉で。当然の如く、渉はポカンと目を点にする。
「え?」
「その時にはお前にも少し啼いてもらうから」
「……?」
「あぁ、その顔は理解できない、と言ってるね。あたしの嗜虐心を大いに擽る顔だ」
嗜虐心、という物々しい言葉に渉は背筋を凍らせた。今さらながらに逃げなければ、という焦りの念が浮かんで渉はがむしゃらにもがいた。だがロープが外れてくれる訳もなく、
「暴れるな、皮が剥けるぞ」
「…っ、」
確かに少し手首を動かしただけで、手首に激痛が走った。
「さぁて、芝貫謡は来るかな?大して親交のないお前を助けに、さ」
女ー葉弓の楽しげな含み笑いが店内に虚ろに響いた。
……やはり疲れていたのだろうと思う。夕食作りは誓に任せ、自室に戻った謡はいつのまにやらぐっすりと寝込んでいたらしい。ノックの音にも気付けない程に。
「兄貴、電話」
「…ん、誰から」
寝ぼけ眼を擦りつつ、誓から受話器を受け取る。
「名前は名乗らなかった。すっげえ焦ってて、早く兄貴を出せの一点張り」
「………分かった、ありがとう」
へらり、と笑って誓が部屋を出ていく。謡は誰からか、と思いつつ受話器を耳に当て、
『お前、あの女とどういう関係だっ!!』
いきなりの出だしに、謡は相手が誰かを考えることも出来なかった。
「え、あ、あの」
『……あ、悪い、』
ばつが悪そうな口調で話され、相手が誰か分かった。そしてその彼が自分に電話をして来たことに驚きもした。番号は高校の連絡網を見たにせよ。
「や、藪内くん?」
『悪い、いきなり怒鳴られても分かんねえよな……単刀直入に言う。渉が変な女に攫われた』
「えっ!?」
『しかもそいつは、お前に用があるみたいだった』
「ぼ、僕に?」
『海の見える公園に来い……渋るようなら藍田渉はお前のせいで死ぬと伝えろ、だと』
藪内が焦りを押し殺しながら話しているのがよく分かる。そして、海の見える公園とは、どの公園なのかを。
(・・・・・・楡乃木さん?)
パッと頭に浮かんだのは、赤いリボンと眼帯をして、憂いの帯びた瞳で海を見つめる女性の姿だった。まさか、あの人が?でもどうしてあの人が渉を攫うのだ?
「あ、あのその女の人って、赤いリボンしてた・・・?」
もしこの問いに薮内が頷けば、渉を攫ったという女が楡乃木涼子という可能性は高まる。だが、
『いや、リボンはしてなかった。・・・特徴っつったら、』
一瞬の間、そして、
『左目が前髪で隠れてた。半袖のコートみたいなの着てて、』
「!?」
謡は吃驚して目を見張った。薮内が上げた特徴を持つ人物とつい最近邂逅したばかりだからだ。
神薙愁に絡んできた不良たち三人を、たった一人で倒した女性。不思議な話し方をし、何処か楡乃木涼子に似ていた。謡と愁は彼女に助けられた。その人が、渉を攫った。謡を呼び出すために。一体、何故?
『おい、急に黙ってどうしたんだよ!お前知り合いなのか!?』
「し、知り合いっていうか、つい最近会ったばかりって言うか・・・僕の思ってる人と薮内君が言ってる人が同一人物かもはっきり分からないけど、」
謡は薮内に、謎の女性との邂逅の経緯を話した。
『・・・・・・で、海の見える公園ってのは、西崎臨海公園で良いんだよな?』
「う、うん・・・そう思うけど、」
謡は壁掛け時計を見上げた。午後七時過ぎ。父の春樹はまだ帰ってきていないが、彼が帰ってくると家から出るのは困難だ。特に最近は。
出かけるなら今しかない。誓には適当に言って出るしかない。
「僕、公園に行ってみるから、」
『・・・・・一人で行くのか?』
「・・・・・指定は、無かったの?」
『あぁ、兎に角お前に公園まで来て欲しいみたいだった。誰かと一緒に来るなとか一人で来いとかいう指定はなかったな』
思い出すように薮内が慎重に答えた。藪内が来てくれるなら心強いが、
「……僕一人で行くよ」
自分を名指しで誘っているなら、そこには何か理由があるはずだ。それに自分や愁を助けてくれた人が何の理由もなく攻撃してくるとは思えない。
『平気なのかよ』
「多分…。藍田君は必ず無傷で戻すから」
『やけに自信満々だな。喧嘩できねぇくせに』
何故か自分があの女性によって傷付けられるという危惧が浮かばないのだ。それが自分でも不思議なのだが。
「兎に角、伝言ありがとう。今から行ってみるから。それじゃ、」
『待て芝貫』
「…?」
『今から俺と渉の携帯の番号を教える。何かあったらかけろ』
「あ、う、うん……」
藪内が矢継ぎ早に言う十一桁の数字を紙に書き留める。
『良いか?』
「大丈夫。ちゃんとメモしたから」
『………渉のこと、頼むな』
苦しげな口調。高圧的で乱暴な口調しか藪内からは聞いたことがなかったので、謡は場違いにも新鮮さを感じてしまった。そして藪内にとって渉がどれくらい大切な存在なのかを感じ取った気がした。例え、目に見えなくても。
「うん」
謡は藪内との通話を終えると、神楽の携帯にかけた。
「神楽、そろそろ上がるか」
「あ、はい」
春樹の声に神楽はデスクから腰を浮かしかけたが、胸元の携帯電話が震えたから春樹に断って出た。
「もしもし、」
『神楽さん、僕の名前は出さないで下さい』
相手は謡で、しかも挨拶抜きにいきなり話し出す。謡らしくない。また何かあったのかと神楽はそっと春樹に目を向けた。春樹は電話の相手を詮索する気はないようで、また財務諸表に目を落としながら難しげに眉を寄せている。
「これはご無沙汰しています、お母様」
『…すみません、』
「いえ構いません。どうされました?」
『父は、まだ会社ですか?』
「はい」
『神楽さんにお願いがあるんです……父を会社か、もしくは何処かに引き留めて帰宅を引き延ばして欲しいんです』
謡は思い詰めたような声をしていた。一体何をしでかそうというのか。不穏な気配に、神楽は眉を顰めた。
「………」
『お願いします。僕、少し出ないといけなくなって……父が帰ってきた時にいなかったら、父が激昂するのは分かっているので』
すがるような口調。何故かそれが歳離れた弟に重なって、神楽は忘れようとしている痛みを思い出してしまった。謡は一体何をしようとしているのか。「何を、されるつもりですか」
謡のことは大事だが、神楽の主人はあくまで春樹だ。謡の依頼は、春樹への裏切りになりはしないか。
『少し、散歩に行くだけです』
どうして人は明らかに嘘と分かる嘘を吐くのか。特に謡は嘘が下手だ。声の微かな震え、上擦り。彼の声が自分の言葉を嘘だと教えている。
「あまり、無理はなさらないでくださいね」
気付けばそう言っていた。
『……すみません、ありがとうございます』
「では失礼します」
神楽が通話を終えると、春樹に向き直る。以前から経理のことで気になっていたことを問い、それで時間を稼ぐことにする。
「春樹さま、実は以前から気になっていることがあるのですが………」
神楽がどのくらい父を家に近づけさせずにいられるかは分からない。だから、急がないと。
「あれ兄貴、起きたの?飯、まだだけど」
誓のエプロン姿は珍しいが、今はそれにかまう暇はない。
「少し出てくる。ご飯は、先に食べてて」
「はいよ」
特に何を訊くでもなく、誓は謡を見送った。謡は行ってきます、と呟いて家を出た。誓は兄貴が帰ってくる前に親父が帰らなければ良いけど……と軽く肩を竦めた。
謡は家を出て走り出す。渉をさらった人が自分と愁を助けてくれた人、かつ楡乃木涼子と何らかの関係がないことを祈りながら。