傷つけ合う人々
嫌なサブタイトルだなぁ……。
家を出る時間になっても、謡はなかなか学校に行く決心がつかないでいた。
(はぁ、行かないといけないのに……)
今は学校に、ではなく涼子のいるあの公園に行きたかった。どうしたんだろう。昨晩手酷く突き放されてから、涼子に会いたいと思う想いが強い。
「そろそろ、行かなきゃ……」
制服には着替えたから、後は靴を履いて玄関のドアを開けるだけ。謡はゆるゆると立ち上がり、玄関に向かった。だがその耳に、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。しかも家の前を通り、すぐ近くで止まったではないか。謡は嫌な予感がして、慌てて外に飛び出した。
「匂ちゃん!?」
「う、謡さんっ、」
救急車の後部が開き、担架に乗せられた人物が運び込まれる。
「どうしたの!?」
「し、愁が凄い熱で、意識もなくて……」
担架に乗せられていたのは愁で、姉の匂は涙で頬を濡らして謡を見る。
「ご家族の方、お付き添いを」
救急隊員の一人に言われて、匂は慌てて頷く。素足なのに、それに気付いていない。
「謡さん、」
いつも勝ち気に輝いている匂の瞳が不安げに揺らいでいる。自分も付き添いたかったが、どこから春樹や匂の母親の耳に入るか知れない。匂や愁が傷付くことになることは避けたい。
「何かあったら携帯に連絡して。授業中以外なら応じるから」
「…はい」
匂はこくり、と頷き救急車に乗り込む。謡には彼女を見送るしか出来なかった。
その頃、私立鵬命学園では藪内奏が謡の下駄箱に封筒を入れようとしていた。だがそんな彼にかかる声。
「か、奏くんっ、」
彼を下の名前で呼ぶのは、たった一人の幼友達だけだ。普段から下の名前で呼ぶなと言っているのに。藪内は冷たい目で幼友達ー藍田渉を見た。渉はビクッ、と怯んだようだが藪内から目は逸らさない。
「……あの、あの、」
「何だよ。言いたいことがあるなら言えよ」
言いたいことは察していたが、藪内は意地悪く訊いた。彼は加虐心が強く、本人もまたそれを自覚していた。渉は何度か口を開閉させた後、この世の終わりに直面したかのような顔をして言った。
「も、もう止めようよっ奏くんっ」
「…へぇ」
藪内は謡の下駄箱に入れようとしていた封筒を握りつぶしながら、渉に近づいて行く。しり込みするように一歩退く渉。
「何を?」
「し、芝貫くんを苛め……ること、」
藪内の足は止まらない。退き続ける渉の背中がガラス張りの扉に当たる。渉が恐怖に竦むのを知りながら、藪内は殊更に不敵な笑みを浮かべる。
「いつも俺の後をぴいぴい言いながらくっついてきた奴が、随分デカイ口を聞くようになったな……」
「……っ、」
「芝貫にどうやってたらしこまれたんだ?」
「ち、違う…そんなんじゃ、」
昨晩に偶然会ったときの謡の言葉。自分が苛められて辛い筈なのに、自分と話した渉が苛められてはいないか懸念していたという。それが、胸から離れない。たらしこまれたのじゃない。渉ははっきりそう言おうとした。だがその前に藪内から発された言葉と冷気に、渉は開けかけた口を塞がれる。
「……裏切り者」
「………!!」
「良いぜ。芝貫を苛めるのは止めてやるよ……それで良いだろ?みんな」
みんな?渉が眉を寄せる中、いつからいたのか倉橋、舞田が姿を見せた。二人ともニヤニヤ笑って渉を見下ろしながら、口々に言う。
「良いぜ」
「俺も構わん」
「だってよ、渉。満場一致で芝貫を苛めるのは止めだ。約束する」
藪内は口にしたことを取り消すことがないのは長い付き合いで渉も知っている。その彼がはっきりと謡を苛めないと宣言した。嬉しい筈なのに、素直に喜べない。急速に膨れ上がる不安。藪内の手が不意に伸びてきて、渉は咄嗟に逃げ出そうとした。だが、呆気なく捕まる。
「奏く、」
「標的変更」
ニヤリと笑う藪内の蹴りが、渉の腹に直撃した。
校門が見えてきた所で、謡は足を止めそうになった。だが歯を食いしばって歩き続ける。
「お、芝貫。風邪はもう良いのか?」
「はい。お陰様で」
「そうか。あまり無理はするなよ」
「ありがとうございます」
昇降口で会った顔見知りの教師と会話をし、謡は階段を上がる。二年E組の前で、ドアの取っ手に手を置いて躇う。
「…んなとこに突っ立ってたら邪魔だ」
「っ!」
すぐ真横に、自分より少し背の高い生徒が立っていた。鋭い視線が謡を見下ろす。二人の間に走る緊張。謡は足が動かない。
「風邪はもう良いのか」
「えっ?」
藪内奏から発された気遣う言葉に、謡は思わず間抜けな声を上げる。
「何だよその顔は、」
「あ、その…」
「とにかく入れよ、俺が入れん」
「えっ、あ、うん」
謡は押されるようにして教室に入った。当たり前だが三日前と何一つ変わっていない。変わっているのは黒板に書かれた日付くらいか。
「おっす、芝貫」
「久しぶり〜」
藪内の友人、倉橋と舞田にもにこやかに挨拶をされた。ほんの三日前には近づくだけで嫌悪に顔を歪ませていたのに。
「あ、おは…!?」
謡は目を疑った。
「藍田…君?」
倉橋と舞田が囲っている席に俯いて座っている生徒ー藍田渉の机には油性ペンで様々な落書きが施されていた。奇妙な絵や、死ね、汚い、といった暴言などが。
渉は謡が声をかけても反応しない。ただ細い肩がカタカタと震えているだけだ。その様子で、謡は悟る。渉が自分の代わりになったのだと。涼子の言葉が蘇る。
ー自分のせいで苛められているなら、助けなきゃ。
『だが藍田はお前が苛められているのを見ても助けてはくれないのだろう?』
涼子の言葉が胸を刺す。確かに渉は謡が苛めを受けていても助けには入らなかった。でも、それでも、
「……藍田君、君が身代わりになる必要はない」
ビクッと渉が体を震わせる。
「ふうん?」
面白げに鼻を鳴らす藪内を、謡は精一杯の虚勢で睨み付ける。
「苛めの、何が楽しいの」
倉橋と舞田も睨み付ける。何の効果もなく、三人ともニヤニヤと自分を見てくる。それでも、謡の口は止まらない。渉がシャツの裾を掴んで来たのに気付いても、止まらない。止めない。「他人を傷付けて、何が楽しいのかって訊いてるんだよ!藍田君は、君のこと慕って、いつも一緒にいたんだ。そんな人を何でそんな簡単に苛められるんだよ!」
「芝貫君、もう…」
「良くないよ。良くないっ」
いつも自分が使う言葉だ。父に虐げられた自分を庇ってくれる匂に、もう良いと言う。自分は大丈夫だと。……大丈夫な筈がない。こんなに、苦しいのに。こんなに、息苦しさに胸が張り裂けそうなのに。謡にとって『もう良いから。僕は大丈夫だから』という言葉は魔法の言葉だった。周囲と自分を隔てることの出来る魔法の言葉。その魔法のおかげで、“芝貫謡”という存在を守ることができた。謡を傷付けようとする人からも、守ろうとする人からも。でも、もしかしたら違ったのかもしれない。その魔法の言葉は、謡を救うのではなく追い詰めるものだったのかも知れない。
「ふぅん、お前やけに渉の肩持つな…」
口元は笑いながらも目が笑っていない藪内奏が、謡の肩を押した。
「っ!」
謡の体はバランスを崩し、倒れそうになる。
「芝貫君っ、」
渉が慌てて支えてくれたお陰で、倒れるのは防ぐことができた。
「あ、ありがとう…藍田君」
「べ、別に…、」
渉が藪内を上目遣いに見て、居心地悪そうに再び腰を落とした。
「何か興が覚めたな。お前ら、一時間目フケるぞ」
倉橋と舞田がおう、と声を揃えて藪内に従う。彼らの姿が消えて、謡は突き詰めていた息を吐いた。
「……本当は優しいんだ…、」
ポツリ、と渉が吐き出した言葉に、謡は何の事かと怪訝に思った。
「奏君は、本当は優しい人なんだ。だけど、家が少しゴタゴタしてて、少し疲れてるだけなんだ、誰かに中らないと、やってられないんだ、」
ギュッ、と瞑った瞳から涙がポロポロと零れる。男女問わず涙の苦手な謡は、慌てる。周囲の生徒たちが泣いている渉を不思議そうに見ては、机の落書きに気付いて腑に落ちたような顔をする。渉が泣いているのは、机の落書きのせいだと思っているのだろう。
「あ、藍田君っ、泣かないでよ、」
「ごめ、こめんなさい」
一体誰に謝っているのか、謡には分からなかった。
謡に電話をしたかった。謡に側にいて欲しかった。けれど匂は我慢する。謡さんは学校に行ってる。最近休みがちだった謡さんが学校に行ってる。迷惑はかけられない。かけたくない。匂は呪文のように迷惑をかけたくない、とぶつぶつ口の中で呟きながら処置室の前の椅子に座っていた。どうしよう、何か悪い病気だったら。愁が死んじゃったらどうしよう。……ダメだ、そんな風に思っちゃダメだ。愁は、大丈夫だ。
「お姉さんですか?」
「えっ、あ、はいっ」
いつの間にやら、白衣を着た中年の医師がいた。心配そうに匂の顔を覗き込んでいた。
「弟さんー愁君ですが、大丈夫ですよ。熱も下がりましたし。…ただ精神的に疲れがあるようなので、必要なら精神科の受診も出来ますが」
「精神的に…」
「今日は安静をとって入院していただきます。親御さんへのご連絡をお願いしますね」
「あ…はい。あの、弟に会っても……?」
「すぐ病室に移しますので、それからお願い出来ますか?」
「は、はい」
匂は医師に導かれ、一端待合室に戻った。
藪内の怒りを痛いほどに感じたのは、二時間目の数字の時間だった。だが謡は授業に集中出来ずに、窓の外をぼんやりと眺めていた。救急車で運ばれた愁は、彼に付き添う匂は大丈夫だろうか。
「芝貫、芝貫っ!」
「あ、はいっ!」
どうやら教師から呼ばれていたらしい。
「2日振りに来たと思ったらぼけっとして…。ほら、この問題、前に来て解いて」
謡は顔を赤くしながら立ち上がる。
「………」
謡は黒板の前に立ち、教師から渡されたチョークですらすらと数式を書き、答えを導く。
「よし、正解。応用だが、ちゃんと理解できているようだな」
謡はありがとうございます、と一言残して自分の席に戻ろうと振り返った。
「……!」
だがある一人と視線がかち合い、謡は身を強張らせた。
「……………」
藪内奏が、謡を睨んでいた。腕を組み、椅子の背に凭れてふんぞり返り、今まで謡が見たことのないような鋭く、どろりとした目付きで。謡は動けなくなる。怪訝に思った教師が声をかけてくる。
「芝貫どうした?」
「あっ、いえ……」
睨み付けられたまま、謡は席に戻る。渉の方を見遣れば、彼はずっと俯いていた。