第五十二話
……男は闇の中にいた。
自身の名前も年齢も何もかもを思い出せず、ただその闇の中を目的も無く歩いていく。
そのうちに、自分は思い出せないのではなく、最初から何も無かったのではないかと思う様になっていった。
であるなら、今在る自我や思考に使っている言語、闇の中を歩いている事実に一体どういう説明がつけられるだろうか。
すべてが闇に飲まれ、溶けていく感覚が襲ってくる中でさえ、自分が歩いている事と思考している事だけは確かなものとして意識できた。
……一体どこに向かっているのだろう……一体何を考える事があるのだろう……身体に纏わりついてすべてを溶かそうとする闇に対して、一体何故抵抗しようと思ってしまうのだろう……このまま無に帰れば楽になれるのでは無いだろうか? では何故そうしないのだろう……
“お前は今から俺の下僕だ”
不意に聞こえたその声と共に、纏わりつく粘着質な闇が透明な水へと変質していく。 闇が消え光が差してくる。
その水に反射する光があまりに眩しく、綺麗で……目を瞑る。
……自分にあまりにふさわしく無いものだと……
“目を覚ませ”
再び聞こえる声。
しかし目を開ける事はできない。
この眩しい光は、自分にはそぐわないものだ。
闇に溶かし尽くされそうだった自分が、今度は光によって焼き尽くされてしまう。
“目を覚ませ”
さらに呼びかける声。
……自分は目を開けていいのだろうか。
闇に飲まれていた自分が光を浴び、この澱んだ目に光を取り戻してもいいのだろうか。
今までの自分との決別がそこにはあるのだろうか……
「いい加減とっとと起きやがれ!」
反射的に目を開ける。
途端に大量の水が自分の中に入ってきた。
「ガボボボガガボボボ」
水桶の中に沈められている自分を知覚し、一瞬パニックになりそうになるも記憶が甦る。
「ぷはっ! な、何をするんでヤンス旦那!」
「お前が水をぶっかけても起きないから沈めてみただけだ」
見ればもう夜は明けて朝になっていた。
雨が降り、薄暗い光が射す陰気な朝だ……しかしスケルトンには十分に眩しい朝に感じられた。
「どうした、何をボケっとしてるんだ」
「夢を……夢を見ていたんでヤンス……長い……夢を」
そう言うスケルトンではあったが、どんな夢だったかは思い出せない。
ただ夢の残滓が自身の中を巡っている様な気がした。
「何だ、アンデッドが陰気羊の夢でも見たのか? まあ、動けるなら良い」
何だか妙に優しい雰囲気のシュンに意外なものを感じたスケルトンだが、すぐに自分が気絶していた理由を思い出す。
「あっ!そうでヤンス、旦那、なんて事してくれるんでヤンスか! アンデッドのあっしにあろう事かあんな凶悪なポーション振り掛けるなんて、おかげで死にかけたでヤンス!」
「ああ、流石にすまなかったと思ってる。 まさかこれほど効くとは思わなかった」
「……旦那? 熱でもあるんでヤンスか、『もう死んでるだろうが』とか言いながら踏んづけられると思ったでヤンスよ?」
「……俺を何だと思ってるんだ、一応お前は俺の下僕なんだから心配ぐらいはするし、やり過ぎれば謝罪もする」
確かに、無理矢理下僕の軛を付けられ、その上虐待を受けたとあればあまりに居た堪れない。
しかしアンデッドは存在的に生者の敵だ。
アンデッドは基本的に呪いにより生まれる存在で、世界の外にある呪力が動力源となり、その行動理念は生者への羨望、嫉妬、憎悪だ。
さらに高位のアンデッドになると、生者の生命力を取り込む事により自我を保ち、思考も会話も可能となる。
つまりアンデッドにとって生者は食事なのだ。
生者側の理屈では許さざる事だが、アンデッドにとっては自然な事である。
もっともこれだけなら、ただの食物連鎖だ。
アンデッドの厄介なところは、たとえ低位の者であっても一定の確率で犠牲者をアンデッド化させてしまう事にある。
さらに言えば、矛先は総ての生者に向かうので、そそもの生態系自体が壊れ、食物連鎖もへったくれも無くなってしまうのだ。
故に退魔師などの者たちが存在するし、聖職者もその神聖魔法によって仮初めの魂を浄化する。
そんな事はアンデッド自身が根源的に理解している事である。
だから、虐待を受けるなどは可愛いものであり、本来ならば即消滅させられて当然なのだ。
「へへ、まさか旦那からそんな言葉が出てくるなんて信じられないでヤンスね」
そう言うスケルトンは、自身の内心から生者に対するネガティヴな感情が起こらない事に気がついた。
不思議だった。 アンデッドとしての活動が始まってから初の事だ。
だが、悪くない。
そう思う。
「まあそう言うな、お前が寝ている間にミラ……退魔師の少女が言っていたんだが、今のお前からアンデッド特有の呪力の波長が感じられないそうだ。 それ故に彼女はお前を家に入れても嫌悪感を抱かなかった様だ」
シュンには思い当たる節がある。
このスケルトンを陣紙に見立てて魔法を組み込んだ事だ。
このスケルトンを動かす呪力を漢字の配列に整え、この世界の正常な力の流れへと転換したのだ。 無論シュンはここまでは気付いていない、ただ自分の漢字魔法の影響だろうとだけは分かっていた。
「言ってみりゃ今のお前は“知性ある頭蓋骨”ってとこだな、まあマジックアイテムみたいなモンだろう」
「そんな、いや……あっしは、アンデッドで、幽霊狩猟一味……の裏切り者で……」
「俺が無理強いした事だ」
「大勢の人間を手にかけた……旦那の敵で……」
「アンデッドならば当然だろう」
「呪われた存在でヤンス……」
「だがもうお前はアンデッドではない、そうだな……このまま骨と呼ぶのも可哀想だ。 名を付けよう」
「あっしに……名を?」
名を授かる……それはこの世界に一個の存在としての楔を打ち込む事だ。
自分以外の誰かからその存在を個として認められ、許され、受け入れられた事の証だ。
自ら名乗る者もいるが、アンデッドは名など持たない。
しかしヴォーエンスイエーガーと首領は別格だ。
誰から授かったものかは不明だが、軍団の中で名を許された者達だ。
スケルトンは名が欲しかった。 ヴォーエンスイエーガーになりたかった。
たとえ呪われた存在であっても、世界に自分を刻みたかった。
「そうだな……よし、お前は今から“ゲスデヤンス”と名乗れ」
「いやそんな旦那……もうちょっと脳ミソ使ってほしいでヤンスよ」
「……冗談だ」
本当に冗談かは疑わしかった。
「うーむ……じゃあ、リュ……リュックだな、よしお前は今から“リュック”だ」
「あっしの名……リュック……あっしはリュック」
リュックがそう言葉を発した瞬間、その姿に変化が訪れた。
眼窩に灯る火が目に変わり、口の端にはタグの様なつまみが現れ、下顎から後頭部にかけて二本の帯状のものが生えてきた。
「だ、旦那……一体これは?」
「さあ? 俺にも分からんが……名は体を表すって事なのかもな」
「あ、あっしの名って……」
「背負い袋……背囊の意味だ」
口がチャックになり、閉じればお喋りも封じ込めそうだし、生えてきた帯状のもの……肩紐を腕に通せばガイコツデザインのちょっと悪趣味なリュックサックで押し通せそうだ。
「は、背囊って……うう、あっしの感動を返してほしいでヤンスー!」
人ん家の庭先に、朝っぱらから若干ウザい叫び声が響いた。




