第60輪「藤」
「私が先を走ります。お二人はしっかり付いてきてください。
フィンレイ、背後の敵は任せましたよ」
「ああ」
「私が何者で何が起こるのか。それは着けば分かります。貴方は自分のことを考えなさい」
マリーの言葉に傍らを走っていたフィンの顔が曇る。走ることで精一杯の私に考える余裕などなかった。
闘う人の波を縫いながら数多の死体に目を瞑る。追悼する余裕もない私は只管恐怖と戦っていた。
再び刺されて死ぬかもしれない。
今、隣にいるフィンが殺されてしまうかもしれない。
だから文書を出すべきだと言ったのだ。
書類の上でどうにかなれば、亡くなった者達だって命を落とさなかったかもしれないのに。
頭の中でベルナールを責め立て、自らの浅はかさを悔いる。
結局、私はただの姫でしかなく、何も分かってなどいなかった。景色と共に移ろいでいった民の顔を思い浮かべ、涙が光る死体に悔恨する。
「レイニー様、戦とはこういうものです。悼むのは終わりを告げてからにしましょう」
「ええ」
「俺もいつ死ぬか分かりません。なので護衛の戯言として受け流してください」
「珍しく弱気なのね」
「レイニー様も弱ってるじゃないですか。でもそこも好きですよ」
声が出なかった。心臓が騒いでいるのはもとからだ。なのに彼の言葉に揺さぶられたような気がして、私は言葉を失った。
「女性として好きでした。アンタに誓いを立てた日からずっと。お慕いしておりました」
「なんで、こんな時に……」
「俺は許してもらえないと思うんです。きっとアンタに許してもらえない。
だから一生覚えていてもらえるように、今言いました」
「フィンレイ着きました。貴方は此処までで構いません。あとは私が旦那様のもとにお連れしますから」
豪華に装飾された観音扉の前で彼女は立ち止まる。騒がしい他の場と違い、喧騒の薄れた廊下は不気味だった。
「すみません。レイニー様」
マリーの声に呼応しない彼が、私の首に腕を回す。抵抗する間もなく彼に捉えられた私は、気づけば血塗られた刃を喉元に突きつけられていた。
「どういうことだフィンレイ!?」
「はじめから大人しく従うつもりはありませんでした。早く扉を開けてください。レイニー様と、あらゆるものを交換するんですから」
耳介を撫でる吐息が冷淡な言葉を運ぶ。愛を囁いた時とは違う抑揚ない声音に身体が震えた。
「どうして……」
「すみません」
「どうして……謝るの……?」
「すみません……」
やはり無知が一番恐ろしい。一番、心を傾けていた相手が、私の命に手を掛けるのだから。
全て嘘だったのだろうか。誓いの言葉も。過ごした月日も。愛の告白も。
涙と共に感情も洗い流せたら楽なのに。抵抗しない私を押さえつける力が痛い。背に感じる柔らかな温もりが痛い。涙を零すことが許されない、この場が痛い。
痛いのは触れられた身体じゃない。熱くなる喉でもない。行き場のない心だ。
大人しく従うマリーは、扉に手を翳し開け放つ。前に進むよう促された私は両足を叱咤し入室を果たした。




