第58輪「射干」
幕開けの合図を私は聞いていない。楚々とした背を見送ったのが、夜明け前の話だ。
大丈夫? そう問い掛けようとしてやめた。戦うのは彼らだ。私が不安を煽ってどうする。
だから笑った。莞爾として笑い、彼らに手を振ったのだ。
勝利の女神は微笑むものらしい。だから不安な心根を隠し、ただ笑った。
瞼に口付けを落とすフィン。頬に唇を寄せるユアン。額にリップ音を響かせるベルナール。私の唇に自らの口唇を近づけ、口端に軽く口付けたヴィンス。
挨拶にしては異様な光景に、ロビンは頬を染め、ベルナールはそんな彼女の旋毛に口付けを落とし、頬を引っ叩かれていた。
彼らが戦場へ赴いてから、もう3時間が経つ——いや、まだ3時間と数えた方が正しいのだろうか。
ベルナールより二階で待機するよう言われた貴族の面々は、ロビン監視の下、身を寄せ合って勝利の知らせを待っていた。
落ち着かない面々を眺め、窓から差し込む朝日に目を細める。そうしていれば扉の開閉音が微かに聞こえた。
音のした方向は裏口だ。私とロビンは視線を絡め、目つきを鋭くする。「誰だ?」とアイコンタクトを交わし、私は耳を澄ました。
足音は1つ。静寂に溶けそうなほど静かなそれが謎を呼び、恐怖を煽る。
ピストルを構えたロビンが、素早く入口の壁へ張り付くと同時に扉が蹴破られた。
「お嬢様、やっと見つけました」
警戒を強める私達のもとへ、女性の声が降り注ぐ。そこに現れたのは町娘のような様相のマリーで、私は驚きを隠せなかった。
「どうして……マリ―1人で……」
「やはり旦那様の読みは正しかったようですね」
辺りを見渡したかと思うと胸元からナイフを取り出す彼女。空気がざわつき、私の心臓は暴れていた。
マリーはただのメイドだった筈だ。気弱で心優しい彼女とは、もう三年の付き合いになる。
「どういう意味かしら?」
「お嬢様、私がどうしてヴェーン家のメイドをしていたと思います? 紛れ込んでいたのはフィンレイだけじゃないのですよ」
「どういうことですの……?」
しかし、私の目の前で言葉を連ねているのは、アンティークドールのように冷たい瞳の女だった。
「私は間諜で王族側でしたが、紆余曲折あって今では旦那様にお仕えしております。
もしも今回のレジスタンスの騒動にお嬢様が関わっていなければ救出を、そうでなければ城まで貴女をお連れするように仰せつかっております」
「マリーが間諜……?」
「ベルと一緒?」
「成る程。あの人はまだその名前を使ってらっしゃるんですね……リーダーはベルナールですか。では、お嬢様参りましょう」
ロビンが囁く。その一言を拾った彼女は合点がいったというように抑揚なく告げた。
「嫌だ、と言ったら?」
「気絶させてお連れするか、ここのことを王族軍に伝えるか、この場にいる人間を人質にお嬢様を脅します」
「分かったわ。だからこの場の人間には手を出さないでちょうだい」
「さすがです」
研いだナイフのように冷たい声だ。いつもならば優しい笑みを見せるマリー。しかし、今日の彼女は一遍たりとも笑うことはなかった。




