第32輪「桜」
「ねぇ、貴女がエレアノーラ様?」
ユアンに連れられ廊下を歩む。そうしていれば背に嫋やかな声が投げ掛けられた。
勿論、首だけ振り返るなんてことはしない。ゆっくり時間を掛けて胸を相手方に向けるのだ。
これは礼儀であり、作法であり、貴族としての矜持でもある。しかし、彼女の姿を見止めた瞬間。私は目を瞠った。
「まぁ、とてもお美しい方! ずっとお話してみたかったの。私、ヴィンセント様の妻でカタリーナと申します」
にこにこと愛らしい微笑を携え、彼女は幼い所作で頭を下げる。
ドレスの裾を持ち上げる仕草に品もなければ、歩き方にも教養があるとは思えなかった。
「勝手にファーストネームを呼ばないでくださる?」
「あら、気に障ってしまったかしら。ごめんなさい」
「本当に謝罪の気持ちがあるなら〝申し訳ございません〟という言葉が出るのではなくて?」
「あ、あの私、貴女を怒らせるつもりじゃ……」
「それなら何のつもりかしら? 奥方様直々に、こんな場所に出向くだなんて。よっぽど大事な用がおありなのね?」
抜き身のナイフを鼻先に引っ提げるかのように言葉を連ねていく。
私はヴィンスの〝愛人〟だ。それ以外を悟られてはいけないし。我儘なエレアノーラ嬢であるべきである。他国の姫だろうが物怖じしない強さが必要だった。
いっそ彼女の国が攻めてくれば面白いかもしれない。その波に興じて私達はコトを起こす。あとは国ごと丸め込んでしまえばいい。この頭がお花畑な女ごと。
そんな考えが頭を過った。杜撰過ぎる計画ではあるけれど、これも一つのプランとして成立させるのも悪くない。
さて、どう出るつもりだ、と彼女を見据える。目端では蒼褪めたユアンが何か言いたげに灰色の瞳を細めていた。
「ええ。とても大切なお話ですわ」
「聞いて差し上げてもよろしくてよ?」
「では有り難く。エレアノーラ様はヴィンセント様を愛してらっしゃるの?」
「それはもう……愛しく思っているわ。ヴィンスも私のことを〝我が君〟と言ってくださってるしね。私達は愛し合っているのよ」
嘘八百だ。けれど、そう思わせておかなければ後々面倒なことになる。割り込んだり、詮索したりせぬよう釘を差しておく必要があった。
「それは……本当?」
「嘘を言ってどうするの?」
まぁ嘘だけど、と内心舌を出す。俯いた彼女の表情は伺えないが、肩を震わせているのだから涙していないにしても相当ショックなのだろう。
「お話はそれだけかしら? では、これで失礼するわ。貴女も愛して貰えるといいわね」
極上の笑みと共に毒を吐く。私はそのまま彼女を置き去りにするべく身を翻した。
「お待ちになって!」
「な、なにをなさるの!? 触らないでちょうだい!」
唐突に腕を掴まれ千鳥足を踏む。ヒステリックに叫びながら腕を振り解こうとするも叶わなかった。
「エレアノーラ様」
「離してくださる?」
「エレアノーラ様!」
「離してちょうだいって言ったのよ」
「エレアノーラ様!!」
「貴女、私の話聞いてらっしゃる?」
「私と友達になってくださいまし!」
「今、なんて?」
「私と友達になって欲しいと言いましたの!」
「貴女、御自分が何を仰てるか分かってるかしら?」
「勿論です!」
「カタリーナ、だったかしら?」
「まぁ、もう呼び捨て? 私、嬉しいわ!」
「癪だからカタリーナ様と呼ぶわ。貴女、私が憎くないの?」
「どうしてそんなことを仰っるの?」
なんだこの女は。人の腕に絡みつき、無邪気に笑うカタリーナ様。先程の修羅場一歩手前の雰囲気など既に霧散している。
私は嘆息を零し彼女を見据えた。




