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3.

 トール軍曹が戻ってきて、第三分隊は北へと行くことになった。

「歩きすか?」

「歩きだ」軍曹がこたえた。

「前線に行くわけじゃねえの?」

「違う。北の後方強化地点に行く。すぐに出発だ」

 後方強化地点というのは、六角形の塹壕を掘り、その角からジグザグに連絡壕を掘って、機関銃ポストへつなげたもので、コンクリートの掩蔽壕や対戦車砲陣地、バズーカを蓄えた倉庫もあった。それは空から見ると、戦争のみなしごといったところだが、戦線にはそんなみなしごが何百とあるからたまったもんじゃない。

 トール軍曹を先頭に分隊はのろのろと歩き始めた。最初のうちはおれたちもあれこれ冗談や不平を交わしていたが、そのうちしゃべるのに疲れて、ただ黙って歩くようになった。

 おれたちの行く道では戦争の初期に撃破された戦車や墜落した攻撃機の残骸が砂に溺れて、今にも沈みそうになっていた。崖にあいた丸い穴を縫い糸のように通っていくと、予備隊が散らばった斜面に出た。ゆるやかな斜面にはつっかえ棒をしたマントの即席休息所が発疹のように浮いていた。窪地にはシミッタレのケツみたいに冴えない色をしたカモフラージュが山と積まれてあり、赤い岩のそばには連隊司令部があり、無線通信機と作戦地図の入ったプラスチックの入れ物が見えた。

 岩の陰から大きなものがぬっと姿を見せた。連隊長らしい口髭の男が馬に乗って、自分の連隊を見回っていた。

「ありゃ一体どういうことだ?」〈教授〉が目を丸くした。「なんだって、あいつは馬に乗ってるんだ? ここはいつからポロ・クラブになったんだよ?」

「お前ら、どこの隊のもんだ?」歩きながらアザレムがマントの陰に寝そべっている黒人兵士にたずねた。マントの陰に入りきらない大柄の兵隊で半ば眠ったまま、目をしょぼつかせてこたえた。

「九三連隊だ」

「お前ンとこの連隊長、頭がおかしいんじゃねえのか?」

「見たまんまだ。だが、そう悪いやつじゃねえ。従卒は馬の世話で苦労させられるが、それを除けばいいやつだ。炊事車の捕まえ方がうまくてな。食いっぱぐれることはそうそうねえ」

 だが、馬に乗った連隊長など! てっぺんに赤いビロードを張ったケピ帽にネクタイまで締めた礼装姿でしっかり油を擦り込んだ革のゲートルをつけているところなどは地球西暦一九一六年の撃墜王といったところ。ゲートルの革はおそらく本物の牛の革に違いないとおれたちは言い合った。金のかかった代物で、あの連隊長は相当の金持ちに違いなかった。軍が連隊長に払う給料だけでは、とてもではないが、馬など持てない。連隊長は自腹を切っているのは間違いない。

「どうも、おれは好きになれねえな」ヤロスレフが言った。「戦場に馬だなんて」

「お前は骨の髄まで革命家気取ってんだな」

「こんな場所で馬が何の役に立つんだ?」ヤロスレフが反論した。「草なんて生えてねえんだから、馬の食う草は当然、後方からの持ち込みだ。馬に食わせる草を運ぶ余裕があるんなら、本物の牛の肉を持ってくるのが筋だぜ」

「でも、そう悪いやつじゃねえって言ってたじゃねえか。うちの大隊長よりゃあマシだよ。あいつは勲章屋だからな。あいつが自分の隊をなくしたのは部下全員に地雷原を走らせたせいらしい。将軍どもが一刻もはやく地雷原をなんとかしなくちゃいけねえだなんてきいたもんだから、先生、てめえの部下全部を生贄に差し出したんだ。そのおかげでやつは勲章をもらえたし、シャンパンをおごってもらえたってよ」

「そりゃ南部戦線の話だ。北部戦線じゃそうはいかねえ。南部じゃ兵隊なんてスロットマシンのコインみたいにみるみるうちになくなっちまうらしいが、ここは違えぞ。そんなに大きな戦闘もねえわけだし」

 午後三時、見渡す限り、何も無い丘の上に小休止にへたりこみ、タコツボを掘る。掘るそばから砂が流れて落ちてくる精神的拷問をなんとか終わらせると、みなで集まって、今日の分のジンを飲み、今日の分の煙草を吸う。

「一番は刺激剤入りのドライ・ジンだな」戦争前にバーテンをしていたヴィルケットが言った。「頭をしゃきっとさせるドライマティーニに使うなら、あれが一番手っ取り早い」

「ホワイトバスタブ?」

「まあ、銘柄はその手の安物になるな。おれだって最高級ホテルのバーテンだったわけじゃない。おれのいたキーオイルって街はちゃんとしたメーカー物のリキュールを探すのにちょいと苦労する土地だった。マフィアが酒の卸を牛耳ってたからな。でも、グリーン・ムーンじゃ密造酒は出さなかった。これはおれの自慢だ。ホテルの屋上にあるのにフレイムリザードの赤しか出せないようなシケた店もあったが、グリーン・ムーンはウィスキーだけでも二十種類はあったんだからな。ライムもレモンも合成物じゃなくて、きちんとした温室製だから、ちゃんと輪切りにしたもんさ。合成レモンは所詮化学薬品だから汁だけしか出せないがな。そうさ。グリーン・ムーンには品格があった。品格ってもんは大事にしねえといけねえ。でねえと、あっという間に潰れちまう。でも、そのために苦労する価値はあるぜ。おれのとっておきレシピで作ったトム・アンド・ジェリーを飲めば、一杯の品格のために命を捨てられるって思うもんさ」

 ヴィルケットはもうキーオイルの三番街にあるバー〈グリーン・ムーン〉にいる気分になっていた。強いが口当たりのいいカクテルを舌で玩ぶような心地だ。模造大理石のカウンターにはメーカー製のリキュールが閲兵を待つ兵士のように整列していて、オリジナルのラベルが色とりどり。ヴィルケットは黒のベストに白のワイシャツ、ほっそりとした黒のネクタイを結び、袖には真珠層のカフスをつけて、シェイカーを振るのだ。

「おれはスタウトなら何でもいい」教授が言った。「墨みたいに濃くて、絹みたいにやわらかい泡のスタウト。まあ、一番はレッドキャッスル・スタウトだけど、ランディラも悪かない。少なくとも巷で言われてるほど悪かない。スタウトに、そうだなあ、それに黒胡椒とビネガーをかけたインゲン豆があれば、文句はない。大学のまわりにはちょっとした食事とスタウトを楽しませるパブが何十軒とあったし、醸造所ブルワリーもかなりあった。いくつかは話にならない洗剤工場だったが、レッドキャッスル醸造所ブルワリーは本物だ。まあ、リーゼレに行くことがあったら、試してみるといい」

「おれは筋金入りの密造酒野郎ムーンシャイナーだから」カルカイヤじいさんが言った。「密造酒じゃねえと酒を飲んだ気がしねえ。おれのいた造船所じゃ職工たちは一人一人密造装置を家に隠し持っていて、自分の飲む酒は自分でこさえたもんさ。大切なのは芋選びだ。芋のときからきちんと選んでおかねえと蒸留した後にコクが出ねえ。密造酒こそ本物の男の燃料だぜ。密造装置も自分流にこだわる。納得のいく螺旋管を探して片道五時間もある鉄クズ屋に行ったくらいだ。ただ一度、深刻な芋不足に悩まされたことがある。どこの店に行っても芋がねえ。八百屋も国営スーパー・マーケットも芋がねえと来てる。あんときゃ、正直きつかった。人間、喉が渇くのが一番辛え。だが、国営造船所でいっぱしの精密工を名乗る以上、半端な酒は飲むもんじゃねえってことで、おれたちは何とか禁酒して芋飢饉を乗り越えた。その年だけは、酒で死ぬやつが出なくて、救貧病院もだいぶヒマをしたもんだ。そのうち、また芋が売られるようになると、飲兵衛どもがバタバタ死に始めたんだがな」

「おれの故郷のヴールじゃ」アザレムがジンを舐めながら言った。「酒は持参金代わりだ。娘が生まれたら、まず大きな甕に椰子の実の焼酎を仕込む。そこいらで売ってる安酒でいいから、甕にたっぷり入れて、甕の口を紙で三重に塞いで紐でぐるぐる巻きにして、粘土をつけて、絶対に外気に触れないようにする。そうやって二十年寝かせれば、コクが出て一財産だ。それが持参金になる。元手は安い焼酎だから、そんな金持ちでなくても、娘に立派な持参金をつけてやれる。顔まずくとも酒うまし、ってことわざがあってよ、ブスでもうまい酒がつけば、いい縁談はいくらでも転がってきた。うそじゃねえ。逆にいくら美人でも甕の酒がないんじゃ、なかなか貰い手が見つからねえ。たとえ、嫁の貰い手が見つかっても、甕の酒がないってことで低く見られて、蹴るわ殴るわで結局別れちまう。そのころには女ざかりは過ぎて、哀れ一人身の苦労を背負うってわけだ。娘を幸せにしたけりゃ、酒を必ず甕に寝かさねえといけねえのさ」

 アザレムは濁った空を見上げると、ヴール語で酒にまつわる詩を唄うように吟じた。


  男を魅了するのは黒い瞳か 甘いささやきか

  それとも甕の酒の馥郁たる香りか


  林檎のごとく甘く 火の神のごとく荒く

  舌を焼くのはどの甕の酒か


  椰子の実の精よ 酒に変じ給え

  甕の酒の精よ 楽園を教え給え


  どの姫の美しさも一つ所にとどめなかった

  勇者ララムは美酒の地を最期の地に選んだ


  甕の酒よ 泡まで愛おしいその滋味よ

  杯の酒よ 渇きを癒す万水の長よ


「そっから先は忘れた」

 アザレムは寝転がった。

 詩の余韻は飲めぬ酒の夢とともに砂漠の風にさらわれてしまった。

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