エピローグ:それぞれの結末
夢を見た。
何処か覚えがある。だが、確実に違う場所。それは、僕がメリーに想いを告げた公園だった。
軽い音を立てて、その真ん中に座り込んでいる女性がいる。
夜でも街灯の光を受けて輝く亜麻色の髪と、宝石みたいな青紫の瞳。身に纏うは、闇色のドレス。――偽メリーだ。
『…………帰って、これたのね』
彼女はそう呟きながら静かに息を吐き、身震いするように肩を抱く。目を閉じて暫くの間じっとしていた彼女は、軈てふらつきながら立ち上がる。
『……行かなきゃ』
最期の仕事が待っている。
映画の早送りをするかのように景色が流れていく。透明の霊体になれる力を利用して、彼女は堂々と新幹線に乗り込んだ。……無賃乗車だ。と、僕が思わず呟くが、彼女は気づいた様子はなかった。
夜を切り裂くように、新幹線は疾走する。指定席には座らず、偽メリーは車窓の近くで景色をぼんやりと見つめながら、ただ佇んでいた。時折、寿命が尽きかけた電球のように身体が点滅し、ノイズが入ったアナログテレビの映像を思わせる揺らめきをみせる。それを彼女は窓越しに確認しながら、小さく呟いた。
もう少しだけ……。
時間はあっという間に流れた。いや、寧ろこれは、短縮された映像とでも言うべきか。気がつけば新幹線の映像は切り替わり、偽メリーはゆっくりと、目的地に降り立っていた。
僅かに潮の香りがするのは海が近くにあるからだろう。なんの変哲もないその場所は住宅地からは適度に離れ、周りを木々に囲まれている。
少しだけ寂れた、郊外の墓地。
その一角に、偽メリーはたどり着いた。
『お花も、お線香もないの。許してね……貴方にあげるものに、盗品は使いたくなかったし』
静かに、愛おしむように偽メリーは墓石に話し掛ける。
帰ってこれたよ。
もう、大丈夫。
そんな言葉が、彼女の口から漏れる。目の前にある墓には『滝沢家』の文字が刻まれている。その横には、先祖代々の戒名と生前の名。享年を刻んだ碑が置かれ、不思議な気分だがそこには僕のものも記されていた。
死後の自分の名前を知るなんて、貴重を通り越して意味がわからない体験だとは思う。
『雲の海を行く、銀色の龍だなんて……貴方にぴったりね』
口元を手で抑えながら、偽メリーは笑う。
次にその目は墓前へと向けられる。
最近誰かが来た後なのだろうか。不思議なことに、供えられているのが奇抜なものばかりだった。
花やお菓子。蜜柑等に混じり、恐山とデカデカと書かれた羊羮に、焦がし醤油のカップラーメン。何故かあるピノキオ人形。よく分からない木の実。他にも、ああもしかして……。というものが沢山。
最後に、見覚えがありすぎる小洒落た煙管を眺めながら、偽メリーは表情を曇らせた。
『全部全部……私が奪い、捨て去ってしまったものばかりだわ』
自分であり、自分でない者達。その縁や思い出を踏みにじったことを自覚し、悔いるように、偽メリーは自分の腕に爪を立てた。その手が再び曖昧に歪んで揺らめいたのを無感動に眺めながら、彼女は決意を固めるように目を閉じて、立ち上がる。『…………もう、本当に時間がない』そう小さく呟いて。
場面が再び変わる。
彼女は、何処かの高原で、薪を積んでいた。一つ一つ丁寧に。まるで自分の罪を数えるように。傍らには、ポリタンクに入れられた灯油と、着火材が置かれている。全ての準備を追えた彼女は、消えかけた身体にむち打ちながら、薪全体を湿らせた。
鼻をつく独特の香りに一瞬だけ顔をしかめてから、彼女は己の拵えた棺の上に寝転んだ。
まさか……。という、嫌な予感はした。だが、僕は止めることが出来ない。近くに行こうとしても、金縛りにあったかのようにこの場から動けなかったのだ。
すると彼女は自嘲するように。あるいは、〝僕が視ているのを心得ている〟といった風に。まるで存在を主張するかのように両手を空に伸ばした。片手には、マッチの箱が握られている。
その手や身体は、既に透明になりつつあった。
『ギリギリ……セーフ』
カシュッ。と、無機質な音が夜空に響き。
その瞬間、夜空に届かんばかりに炎の柱が立ち上った。
悲鳴も漏らさず、彼女は懺悔する修道女の如く。紅蓮のなかにて、祈るように両手を組む。
『既に消える定めは確定している。
存在が忘れ去られた世界に怪奇が戻るとはそういうこと。
これで狂った私はいなくなる。
だが、何の痛みも無しに塵のように逝くことは許されない。
だから私は、この場で〝私を殺す〟ことにより。罪を償おう。
怪奇たる私の死に様を刻むことで、狂いかけた私がまた現れそうになった時。そのブレーキになるように……!』
名を叫びたかった。だが、声は届かない。
世界が結末だけを残し、暗転していく。
その刹那。僕は地獄の業火を思わせる火刑の中で、偽メリーが確かに微笑んでいるのが見えた。
『私、メリーさん。〝お願いよ〟もう二度と誰も……狂気なんかに負けないで……!』
それが、僕が聞いた彼女の最期の言葉だった。
※
俯瞰的な視点。さっきまで夢だと思っていたそれは、多分だけれど幻視なのだ。
ここに来て僕は、それにようやく気がついた。
まずは怪奇としての偽メリーの終焉。そして、次は……。
「んほぉ! あへぇ……しゅ、しゅごいぃ……しゅごい、のぉぉおっふぅ!?」
畳張りの部屋……。恐らくは旅館だろう。
そこで、仲居さん姿の女の子がのたうち回っていた。
次に視たのは、まさかのミクちゃんだった。
さっきまでの風景とのあまりの落差に、身体があるならずり落ちそうになるが、生憎とはだけているのはミクちゃんの和服だけ。それから全力で意識を逸らしながら、僕は辺りを見渡す。
仕事中? いや、違う。和室にはもう二人分の人影があった。
「何かうら若き乙女が絶対にしちゃいけない顔してるんだけど!?」
「古今東西どこを探しても、アへ顔ダブルピースしながら降霊する霊媒体質者なんて、ミクちゃんだけだろうね。巫女さんじゃなくてホント良かった」
「巫女さんじゃなくても問題よあれ!」
僕と、綾がそこにいた。
ミクちゃんのあれを見た、誰もが一度は思うであろう事を素晴らしい突っ込みで代弁しつつ。綾はそこにいるもう一人の僕の目をミクちゃんの痴態からガードすべく、全力で塞いでいた。
そういえば、ミクちゃんとのファーストコンタクト……もとい、降霊の初見で、僕もメリーに同じ事をされたっけ。
今にしてみればアレ、「他の女に鼻の下伸ばさないで!」的な、ちょっとしたメリーの乙女心だったんだなぁと気がついた。
いや、実際は唖然としてて、欠片も伸ばしてなんかいなかったけど。
「あばばばば……ピェ、ピョ……キエェエエェイ! ダメぇ! 入るぅ! 入ってくりゅうぅ! れ、霊媒にィ……霊媒に、なっひゃうぅ……! んあっ!」
そんな思い出に浸っていると、やがて一際大きな悲鳴が上がり、ミクちゃんがへたりと倒れ込む。どうやら降霊が完了したらしい。服を整えながらゆっくりと起き上がった彼女からは、ミクちゃんの気配が完全に消失していた。戸惑いながら綾が弱々しく「メリー……?」と、呼び掛ける中。もう一人の僕は静かに。言葉を紡いでいた。
「〝君が一番影響を受けた本はなんだい?〟」
「〝銀行の預金通帳よ〟……バーナード・ショーって、中々にユーモアがある人よね」
それを聞いた時。僕は確信した。
多分ここは……コウトの世界だ。彼も……ちゃんと戻れたのだ。
ほっと僕が胸を撫で下ろしている中で、綾はメリーに積極的に話し掛ける。オカルトが苦手な筈の綾だが、ここでは普通だ。もしかしなくても、僕らの事情を知っていたのだろうか。
残念ながら、全ては分からない。ただ、何となくだけど、僕が切り札にしたミクちゃんの降霊を見て、コウトも偽メリーにお別れを告げようとしている。それだけは読み取れた。
綾とメリーの間にはフランクな、女友達同士みたいな雰囲気。ところがそんな中でコウトとメリーの会話はない。
まるで、何を話すべきか迷うような様子に、二人の間に立つ綾は呆れたような顔で、長い長いため息をつく。そして……。
「メリー、御冥福を祈るわ」
彼女はそう言って、コウトに発破をかけるような視線をぶつけてから、そっけなく。二、三メリーと別れの言葉……に見せかけた言い争いを経て「しばらく辰を貸してあげる」そう言って颯爽と部屋を出ていった。
我が幼馴染みながら実に男前だなぁ。なんて思いながらも、その頬にチラリと涙が見えた時、僕は思わず唇を噛み締めた。
偽メリーの言っていた、綾とメリーが不思議な友情で結ばれていた世界。それはもしかしたら、コウトの世界を指していたのかもしれない。
僕がそんなことを考えていると、二人きりになったコウトとメリーは最後の言葉を交わしていた。
「……アミュレット、ありがとう。ちゃんと帰ってこれたよ。ホントはこれからも持っていたかったけど」
「……まぁ、もう必要ないでしょう? 貴方、今あり得ないくらい霊感が弱いもの。以前と比べたら、天と地の差ね」
その言葉を聞いた時。僕は全てを悟った。
一時的に偽メリーと同等な怪奇になり。彼女を止めるために奔走した代償。
それは恐らく、僕と同じようにコウトにもメリーから贈られていたであろうアミュレット。それを身代わりにして、それでも足りなかったのだろう。
結果彼は、長年連れ添い。身体と魂の一部でもあった霊感。それを……失うことになったのだ。
刹那、僕の中で過去の出来事が次々とよみがえる。
多分コウトは暗夜空洞にもう行けない。非日常側の知り合いも全て失い、彼らからの呼び掛けにも答えられなくなったのだろう。メリーとの思い出の場所を訪れても……きっと何も感じない。
彼が失ったものとは、それほどまでに重いもの。
それを思えば、僕は胸が締め付けられるようだった。
「……そんなに、必死にならなくてもよかったじゃない。平行世界よ? 貴方にはこう言ったらなんだけど、関係ない話なのに」
「うん。でもさ。見ちゃったら、ほっとけなくて。君が……他の世界ででも君が生き延びる未来があるかもって知ったら……止まらなかったよ。結局霊感も。幽霊に干渉できる手も。メリーの素敵な脳細胞と視神経も。形見のアミュレットも……。全部なくなっちゃったけど、後悔は無いんだよ」
コウトがそう言って笑うと、メリーは少しだけポカンとしつつ、やがて察したように柔らかく微笑みながら「どうしてか聞かせて」と、問う。
僕はそれを黙って聞いていることしか出来なかった。
「だって、僕には綾がいる。君を……別世界とはいえ助けれた。それならこれくらい惜しくない。何より……君がいないのに、オカルトが視れて、追えても意味がない」
それは分かる気がする。同じ立場ならば、たとえ僕の中にメリーの力が残されて。僕一人で自己完結した所で……。欠片も魅力は感じないだろう。とはいえ、それにしたって……あまりにも無謀だ。
魔子に腕を取られそうになった僕だからこそ分かる。
悪魔に願うとは、それほどまでに危険なのだ。なのに彼は。大切な人がいながらも、あの選択を選んだ。その真意は……。
「そう、なら。よかったのね」
「そう。……よかったんだ」
何故だろうか。その時僕は身を刺すような切なさに襲われていた。
コウトとメリーの目が合う。
沈黙は数秒で。コウトの目から途端に涙が溢れ出した。
「いい訳……ない、だろっ……!」
か細い、唸るような慟哭が、部屋に轟いた。それは、最後まで僕が読みきれなかった、彼の本当の心だったのかもしれない。
「少しだけ、無理だと分かっても期待したんだ。もしかしたら、別世界で君を救ったら……君は帰って来るんじゃないかって……」
全てが繋がった時、僕が感じたのはやるせなさだった。
きっとコウトは僅かな可能性に掛けていたのだ。時間を遡るかのような旅だからこそ、もしかしたら……と。
綾というコウトにとって大切な人と同じくらい、かけがえのない相棒ともう一度。
奇しくも偽メリーと似た願い。その為に、彼は沢山の代償を差し出した。見えていないだけで、霊感やアミュレット以外にも彼は何か失っているのかも。
そうまでしても、彼は相棒を取り戻したかったのだ。
だが、それは結局叶わぬまま。そして今まさに他ならぬメリーによって否定された。「そんな都合よくいく筈がないじゃない」と、メリーは声を震わせながら項垂れた。
わかっていた。わかってはいたのだ……! けど……!
コウトの声にならぬ叫びと無念が、僕の方までひしひしと伝わってくる。メリーは拳を握り締め、その嘆きを受け止めていた。
「霊感も、オカルトも……もういらないよ。僕は……僕はもっと、もっと君と相棒でいたかった。時に背中を預けて。軽口言いあって……!」
恥もなく、コウトは泣いた。想いは叫びになり、部屋にこだましていく。
「もっと一緒にいたかった。笑い合っていたかった」そう短く喘ぎながら、もう実現することがない望みを吐き出し続けるコウト。その身体を、メリーはふわりと優しく抱き寄せた。彼女もまた、泣いている。「我慢できなくなっちゃった」そう言って二人はただ抱きあって、嗚咽を漏らしていた。
「君と……そうしているだけで……!」
「ええ。他には……なぁんにも、いらなかったの……!」
ただ、傍に、後ろに。いたかったのだ。
それを聞いた時、僕はふと思った。都市伝説のメリーさん。あれもきっと……「貴方の後ろにいるの」で終わっているのは、ただそれだけの事実だったのかも。ただ、傍にいたくてやってきた。今ならそう思えた。こんな解釈も、ありなんじゃないだろうか。
「ねぇ、顔、見たいの」
「泣き顔だよ? 酷い顔だ」
「お互い様よ。いいじゃない。全部、見せて」
甘えるような声でコウトに囁くメリー。それに僕も弱いと気づいたのはいつからか。抱き合っていた状態からそっと身体を離す二人。案の定、顔は涙と鼻水まみれで酷い有り様だった。だけれども、僕はそれを笑えなかった。
軽口を交わしていく二人は、残り少ない時間を惜しむかのようにも見える。その時点で僕はもう、耳を塞ぎたかった。
これはコウトと。彼の相棒たるメリーの別れだ。無粋な傍観者は退散したい。なのに……。まるで最後まで見ろというように、僕の視界は一向に暗転しなかった。
どうしてだ。だってこんなの……あまりにも……!
「〝さよならと言えるだけでも、幸せ〟と思うべきなんだ。君とこうして話せただけで。でも、でも……〝またねと言えたら、もっと幸せ。久しぶりねと言えたら、もっともっと幸せ〟だった、のに……」
「島田洋七。『がばいばあちゃん』ね。〝行く手に美しい希望があると、別れもお祭りのようだ〟……ねぇ、辰。貴方には、あるでしょう? 可愛くてヤキモチ焼きで。でも、とっても気高い希望が」
「ゲーテ、だね。ああ。そう……だよ。お祭りだったと、思える日が来るかな?」
「今すぐにでも……よ。まるでそう、恋人と過ごす、クリスマスみたいにね」
随分と大きく出たね。と、コウトが吹き出せば、メリーは涙に濡れた瞳でにっこりと美しく。それでいて可愛らしく笑った。
「だって……だって今私、あり得ないくらい幸せだもの。本来なら、もう逢うことも出来ない筈なのに、こうして辰に抱き締めてもらえて……だから、泣かないでよぉ……」
白い指が、コウトの目元を拭う。泣かないで。笑ってさよならしたいの。そう聞こえた。でも、残念ながら二人には無理そうだ。どうやっても涙は止まらないようで。だからもういいとばかりに彼と彼女は、僕らがいつもするみたいに指を絡めて手を繋ぐ。
「ねぇ、返事はいらないわ。最期に言わせて。……私、貴方が好きです。愛してます。……これ、ね? 綾にも負けないくらいなんだから」
もう、タイムリミットだ。幻視もまた、終わりに近づいている。何となく僕はそう察した。
身体が現実に寄せられているのだろう。さっきから震えが止まらない。拳は血が出るくらい、ぎゅっと握られていた。
「メリー、僕は……僕は――!」
何か言わなきゃ。コウトはそう思ったのだろう。だが、その言葉はメリーの一指し指で封じられた。
聞かないわ。と、彼女は悪戯っぽくウインクして。
「私、メリーさん。今……いえ。これからずっと……ずうっと、大好きな貴方の後ろにいるの」
それが最後だった。
蜃気楼が立ち消えるかのように。メリーは今度こそこの世から消失した。
パタリと力が抜けたミクちゃんを、コウトが支える。
彼はしばらく、そこから動けなかった。涙は止まることを知らず雪解け水のようにコウトの頬を伝っていく。
同時に僕の視界がまた暗くなり、僕は幻視の終わりを感じた。闇に意識が落ちていくなか、僕は今まで視たものを、決して忘れはしないと心に刻む。
見届けたのは、結末だ。
それぞれの世界での、僕らであって僕らでない二人が行き着いたもの。
そして……。
「頼んだよ。〝僕〟……君のメリーを泣かせたら――絶対に許さないからな……!」
受け取ったのは、願い。
もう二度と交わりはしないだろう世界を繋いだ、二人のドッペルゲンガーモドキの心。猿の手ではなく、僕らの手で掴むべき幸福だった。
※
雀の囀ずりと、ほんのりと感じる朝の日射しを感じながら、僕は眠りの世界から帰還した。
目の前が、少しばかり滲むように歪んでいて。僕が静かにまばたきを繰り返せば、それは滴となり、頬を伝い落ち、僕の視界がようやくクリアになる。
「……お礼くらい、言わせてくれよ」
今更ながらそんな悪態が漏れる。いきなり現れて。こっちを警戒させて、やることだけやったらさっさと幻みたいに消える。人がどれだけ感謝してるかも知らないで。
「……きっと、彼は彼で、自分の相棒を何よりも想ってたのよ。それが全てで、他にはいらなかった。だからこうして、何も言わず。言わせずに消えてしまったのね」
「一つしか、見えてなかったと。……確かに土壇場での猪っぷりはいかにも僕だなぁ」
独白のつもりが、返事が返ってきた。
確かな愛しい温もりが胸の中にはある。身じろぎしながらゆっくりと僕の胸に埋めていた顔をあげる彼女。多分……いや、絶対に僕と同時に起きて間違いなくあの幻視を共有した筈。だって彼女の頬にもまた、涙の通り道が輝いていたから。
「おはよう、メリー」
「……うん、おはよ」
挨拶を交わす。
その瞬間、僕はなんとも言えぬ衝動から、彼女をもう一度、強く抱き締めた。
ハチミツの香りで満たされていく。ふわふわのわたあめのような柔らかさに僕は溢れんばかりの幸福を噛み締める。
メリーもまた、何も言わずに、僕の肩に腕を回す。
互いの鼓動を感じ合っていると、不意にメリーがビクンと身を震わせた。
「メリー?」
「……っ、ダメ。このまま」
涙声で、彼女はそう囁いて。しばらく僕らは体温を共有する。
五分。いや、十分はそうしていただろうか。先に口火を切ったのは、メリーの方だった。
「……終わった、のよね?」
「うん、きっと」
「いいのよね。一緒に、生きても……幸せになっても」
「許可なんかいらないよ」
今のメリー、慣れない環境に戸惑う猫みたいだ。そんな感想が浮かぶが、口には出さなかった。
思えば九月の半ばか末くらいから、占いから始まる一連の騒動に振り回されていたと思う。ここまで規模が長いのは初だろう。
「偽の私は……」
「僕らならさ。きっと死後の世界があるって知ったら……喜んで探索すると思うんだ」
きっと天国から地獄まで、たっぷり調べ尽くすに違いない。
お盆には戻ってきて。その辺を浮遊しているかも。
「だから、きっと大丈夫。君なら罪を全部償うだろうし。僕はそれまで、何千年だって待つに違いない」
これからは、それぞれの物語。あの幻視はそんな意味もあったのだろう。
コウトは綾の元へ。
偽メリーは行かねばならぬ方に。
僕らは、いつもの日常へ歩き出す。
そう僕が締め括れば、不意にメリーの顔が、真っ正面に来る。潤んだ瞳が僕を捉え。そのまま彼女は僕の両頬に手を添えた。
「離さないでね?」
「離さないよ。まだ、怖いかい?」
問いを封殺するように、メリーは唇で僕の口に蓋をする。
そのまま軽く三回くらい啄むようなキスを交わしてから。彼女は小さく首を横に振った。
「前も言ったでしょう? 私、貴方と一緒にいられるなら……基本的に幸せなのよ。天国や地獄。この世から外れた、異界の中でさえも、笑って暮らせるの」
そう言って、メリーは再び僕に抱きつくと、そのまま甘えるように身体を擦り寄せてくる。それを受け止めながら、僕は彼女の髪を指先に軽く絡ませ、優しく梳かす。
幸せか……。
ふと、僕は考えて、思わず吹き出してしまう。キョトンとした顔で「どうしたの?」と、聞いてくるメリー。その首もとに顔を押し付けながら、僕は何でもないと呟いた。
「僕はさ、君が笑ってくれたら、もう幸せなんだ。……参ったな。この分だと一生幸せでいれそうだ」
おどけるようにそう言えば、恥ずかしかったのかメリーは即座に僕を黙らせにくる。
鎖骨を甘噛みされたので、お返しに耳をフニフ二し。指を弄られれば、こめかみにキスを落とす。じゃれるような愛撫にメリーはくすぐったそうに身をよじると、そのまま僕の耳に唇を寄せながら、熱っぽく囁いた。
「跡、つけて。貴方の好きな所に」
そんな蠱惑的なリクエスト。身体が熱くなるのを感じつつ応えれば、メリーも僕の全く同じ場所に自己主張してきた。
マーキングみたいだ。と僕は笑う。まぁ似たようなものね。と、その部分を愛しげに指でなぞり、メリーもまた悪戯っぽく笑う。
ここだけでいいの? 他に触れたいとこはないの?
そんな誘惑に、頭がクラクラするくらいの痺れを感じ、僕は思わず彼女の額をつついた。
それ言ったら全身にキスマークをつけなきゃいけなくなる。なんて冗談っぽくも本心を言えば、メリーは「ばか……」と、顔を赤らめながら、僕の両頬をつねり、引っ張り。そのまま肩に優しく腕を回してきた。
視線が交差して、そのまま糊付けするかのような濃厚な口づけが始まる。耳まで途中塞がれて、僕は五感全てが彼女に塗りつぶされているような錯覚に陥りそうになる。
「なんか……底無し沼か、蜂蜜を入れた壺に沈んでいく気分だ」
「恋人をなんてものに喩えるのよぉ。でも……貴方とドロドロに溶けるの、ちょっといいかも」
「……君が溶かす。の間違いじゃないかな?」
「……昨日の夜、キスと声と指だけで散々私を蕩けさせた人が何か言ってるわ」
何だよ。何よ。と言い争い。少し笑って。また熱を交わす。
丁度週末なのをいいことに、甘やかなせめぎ合いは延々と続いていき。
「私、メリーさん。もうちょっとだけ、貴方とイチャイチャしてたいの」
結局、僕らがベッドから這い出したのは、そこからたっぷり一時間後だった。
※
以上が僕ら渡リ烏倶楽部が、延べ二ヶ月強かけて乗り越えた、大きな試練の全てである。
占いに悲観的になった相棒のところに平行世界からもっと悲観的どころか絶望的になったもう一人の相棒が現れて、存亡をかけた大騒動に発展した。そんな物語。
きっと僕らの前にはこれからも色々な事件や試練が立ち塞がるだろうから、敢えて最大は付けないでおこう。
ともかく、これを機に僕らは関係性に新しいものが追加されたのは勿論のこと、少しは成長できたのでは? なんて、柄にもなく浮かれていた。
僕らが生き残ったこと。その本当の意味も気づかずに。
その日、僕らがほぼお昼ご飯に等しい朝食を食べていた時のこと。
何の気なしに見ていたニュースが、僕らを少しだけ凍りつかせた。
変哲もない、事故の話だった。
ただ駐車場で車のドライバーがアクセルとブレーキを踏み間違えて暴走。恋人と、近くにいた子どもを庇った大学生の青年が、重症を負った……。そんなニュース。
僕らが命を繋いだ瞬間に起きた事件。あたかも偽メリーの過去に起きた僕の死因に近いもの。偶然で片付けるには、少し出来すぎな気もするが……幸いにして、青年は一命をとりとめたので、後味の悪いことにはならなかった。寧ろ勇気ある武勇伝に賞賛の声が上がった程だ。だが……問題はそこではない。
現場のリポーターから、目撃者としてインタビューを受けていた男性。僕らが注目したのはそっちの方だった。
彼もまた、少し立ち位置がずれていたら、車に跳ねられていたという。
「いやぁ、肝を冷やしましたよ。本当に」
と、笑顔を見せる男性。実はこの時、既にお茶の間でニュースを観ていた、僕ら以外の大勢の人が映像に起きた異変に寒気を覚えたという。
それもその筈。男性の後方。本当に目を凝らさねばわからぬ位置に、それは立っていた。今まさにインタビューを受けていた男性と全く同じ顔の男が……。じっと無表情で男性を見つめ続けていたのだから……。
「……怪奇は、語られれば力を増す。考えてみたら平行世界の私って、ドッペルゲンガーの事例をいくつも抱えた、いわば歩く怪談だったのよね」
それが僕らやミクちゃんみたいな特異体質。深雪さんや魔子などの怪奇と触れ合った。
つまり密度の濃い話になった。
結果、ドッペルゲンガーという概念は力を持って現れて……。
「……偽メリーみたいな件は、珍しくないってこと?」
「〝すべての人間の狂気は、一人一人違っている〟狂気を狂気だと思わずに生きている人なんて……案外ざらにいるのかもしれないわ。知らないところで、いつも接していた人が、人知れず別人になっていた……とかね」
無表情だった男のドッペルゲンガーが、不意に微笑んだ瞬間に、ニュースは次へと切り替わる。
この映像は、暫くネット上の掲示板で大いに話題になった。
ドッペルゲンガーだ。双子だろう。偶然だ。果てはニュース側が話題を求めて映像を捏造した。なんて推測が飛び交い、暫くは話題を独占していたらしい。
因みに。
これだけ一部の間で騒がれたこの騒動の主。インタビューを受けた男性はというと。本人が名乗り出ることもなく。特定しようと躍起になった情報通が挫折し。結局最後は、謎のままに終わってしまった事を追記しておく。
男の行方を知るものは誰もいない。
ドッペルゲンガーの微笑みが何を意味していたのかも。知る術は失われた。ただ……。
『ドッペルゲンガーは、執行猶予を与えるの』
そんな言葉を口にしていたという偽メリーの姿が、不幸な交通事故を見聞きする度に、今も僕らの脳裏にはちらついている。




