一つの恋が終わるとき
少し考えれば、わかることだった。
どうあっても自分は、あの二人の間に入る余地などなかったという事が。
彼女といるときの会話のテンポ。距離感。何よりリラックスした彼の様子。全てが私といる時とは違っていたのだから。
勿論、私といる時の彼が自然体ではなく、つまらなそうかといえば、そういうわけではない。言葉にするならば、ベクトルの違いというべきだろうか。
同い年なのに変な話だが、まるで可愛くてたまらない妹か、親戚の女の子。あるいは、お嬢様に仕える執事のように。彼は私を大切にしてくれる。つまるところ、彼が私といるときのリラックスとは、家族といるそれになってしまっていた。
嬉しいけどそうじゃないのだ! 寧ろ色々段階踏んでからその領域に行きたいのに! なんて、心の中で叫んだことは何度もある。
それでも結局そこから好転しなかったのは、そんなお姫様みたいな扱いに、私も酔いしれていたから。
否定できない事実だった。
私は特別を履き違えていたのだ。
人間関係だなんて、それこそ星の数あると、気づきもせずに。そうして彼は、あの人に出会ってしまった。
全てが手遅れ。そこから必死に頑張っても、もう覆せないと何となくわかっていた。わかって、いたのだ。けど……それでも諦め切れなかった。
そんな気持ちがしっかりと固まったのは、いつかの春休み。彼とメリーさんが故郷を後にしてからのこと。
フラリと。ララちゃんが『ぬらりひょんごっこ』と称してうちに遊びに来た。
こう神出鬼没だったり。たまに突拍子もなく訳のわからない遊びをする辺りが彼の妹だなぁなんて思う。
ともかく。ぬらりひょん――ララちゃん曰く家に勝手に上がり込む妖怪なるものになりきった彼女は、「どうしたの?」と、首を傾げる私の胸にいきなり飛び込み、むぎゅ~。っと抱きついてきた。
「ララちゃん?」
「…………綾お姉ちゃんが寂しがってると思って」
顔を上げずにそう言ったララちゃんに、私は苦笑いする。
お兄ちゃん大好きな彼女のことだ。顔には出さないが、きっと本当は……。
「そうだね~寂しいよ。アイツ、こっちの気も知らないでいつもフラッと現れて。蜃気楼みたいに消えちゃうの」
ララちゃんの言葉に私もまた、自嘲するように答える。近くて、遠い。触れられそうで、触れられない。
切ないくらい距離を感じたのは事実だった。そんな思いを込めてちょっと批難する風に呟けば、いつの間にかララちゃんは私の身体から顔を剥がし、じっとこちらを見つめていた。
「……本当にこのままだと。綾お姉ちゃんが欲しいの、消えちゃうよ?」
感情の起伏が見えづらい、静かな声。彼がごくごくまれに真面目な雰囲気を纏う時のものだ。それによく似た響きは、私の身体を硬直させる。
弾かれたように腕に抱く彼女を見れば、曇りのない鳶色の双眸が私の顔を覗き込んでいた。
何もかもを見透かすような目に私が言葉をつぐんでいると、ララちゃんは目を伏せた。
「ララちゃん、メリ姉に聞いたよ。お兄ちゃんをどう思ってる? って。そうしたらね。大好きって。私だけを見てもらいたいって」
メリ姉。その響きに、私の胸がズグン。と、重石を乗せられたかのような錯覚に陥る。驚きはしない。メリーはこんな短期間で、ある意味彼以上に人見知りなララちゃんの心を、しっかりと掴んだのだろう。
震えながら「そう……」と、呟く私に、ララちゃんは話を続けた。
「ララのお兄ちゃんってとこ以外、全部欲しい。そう言ってたよ」
「似たようなことは、私も聞いたよ」
「…………いいの?」
「ララちゃんは……?」
「ララじゃないよ。綾お姉ちゃんに聞いてるの。ララはもう答えを出したから」
迷いなくそう呟くララちゃん。それがとても眩しくて、羨ましかった。もし私がララちゃんだったら。そんな不毛な妄想に浸りそうになり、すぐに止めた。正直想像はつかない。けれども、ララちゃんが何をしに来たかだけは何となく想像がついた。
彼女は、覚悟を問うているのだ。
「よく、ないよ。いいわけないじゃない」
このまま、変な胡散臭いクォーター鳶ガールに、油揚げを取られたままなんて認められるか。
だから、発破をかけに来てくれたのであろう小さな友人に私は宣言する。
「私だって……辰が大好きだもん」
その途端、ララちゃんの笑顔が花開いた。「ララちゃん日記。綾お姉ちゃんが、やっと言ってくれました。よきかなー……まる」なんて呟きながら、再び私に抱きついてくる。優しいミルクみたいな香りがした。
「……多分、それだけじゃあないでしょう?」
ララちゃんの頭を撫でながら、私がそう聞けば彼女は小さく頷いた。きっとここに来たのは、私の想いの確認と……。
「ララちゃんはね。あくまでちゅーりつなのだ。それをお伝えに来た次第である……まる」
抱きついたまま、彼女はまた抑揚のない、真面目な声を出す。これは多分ララちゃんなりの決意表明なのかもしれない。
「どっかの馬の骨だったら、迷わず綾お姉ちゃんを全力で応援するんだけどね。……綾お姉ちゃんは嫌かもだけど、ララちゃん、メリ姉も好きになったから」
切なげな声を出すララちゃんの背中を優しく擦る。複雑なのは否定しない。けど、それを正面から言ってくれた純真さが、今は嬉しかった。
「どっちにも笑って欲しいし、泣いてほしくない。けど、そうもいかないでしょ? だから、ちゅーりつ」
後はあのヘタレお兄ちゃんと、二人次第。そう締めくくりながら、ララちゃんは悪戯っぽく笑う。それは、見るものを幸福にするようなエネルギーに満ちていて。
「頑張ってね。綾お姉ちゃん。ララはお兄ちゃんをちゃんと見てくれる二人が、大好きなのだ。それだけは忘れないで……まる」
彼がいつかに妹を天使だと評していたが、成る程。その目に狂いはなかったらしい。
感極まった私は、ララちゃんを思いっきり抱き締めていた。
不安で泣き叫びたくもある。相手は強大だ。だが、同時に誇らしくも暖かい、素晴らしいものが胸に広がっていく。
それは多分、想いの再確認だった。
「ありがとう、ララちゃん」
「……うん」
いつもの甘えるような声色の返事と一緒に、まるで猫みたいにララちゃんは身体を擦り寄せてくる。気がつけば、お膝枕をした状態に。可愛いなぁ。なんて思っていたら……。
「ララちゃん日記。うーむ。甲乙つけがたい抱き心地よ。メリ姉はもう全身がふわふわに柔らかいけど、それでいて無駄な肉がない。綾お姉ちゃんはきゅっと筋肉が引き締まってて。でもしなやかな柔らかさもあって……ぐぬぬ。お兄ちゃんズルくね?」
こういうストレート過ぎるとこは似てないなぁって思う。……いや。知らないだけで意外と彼、むっつりなのかな?
でもメリーみたいな美人さん隣に侍らせといて、欠片も手は出してないみたいだし……うーむ。
「ま、いいや。これから知れれば」
コツンとララちゃんの頭に顎を乗せながら、私は遠くに行った彼に想いを馳せた。
見てろよ……。と、闘志をメラメラ燃やしながら。
※
後は知っての通り。
絶妙に妨害を入れてくるメリーと論争したり。時に鈍感すぎる彼の愚痴を言い合ったり。
そんな事を繰り返しながら、私は虎視眈々と彼の隣を狙い続けた。大丈夫。彼もメリーもヘタレだし。よっぽどのことがない限りは……。そう思っていたら、そのよっぽどのことが転がり込んできた。
メリーが通り魔に刺され、意識不明の重体。
ニュースを観た私は慌てて辰に連絡を取ろうとしたが、彼は大丈夫の一点張り。声からして大丈夫じゃなかったが、彼のごめんね。また後で。の言葉で、私は引き下がらざるを得なくて。
そんな時に限ってのレポート等の嵐に追われ、私が完全に解放され、余裕ができたのは一週間後。
奇しくもメリーが意識を取り戻した辺りからだった。
再び彼に電話をかけ、集中治療室から出るまでもう数日かかる。そんな話を聞いた私は、そのまま新幹線に乗り込んで故郷を飛び出した。
その道中では、色々な感情が渦巻いていたものだ。
まずは彼に。
無反応過ぎて心配だ。ちゃんとご飯食べてるか。……本当に、よかったね。辛かったよね。お疲れ様。
次はメリーに。
心配かけやがってこのやろう。萎め! 何処とは言わないけど病院食で痩せて萎んでしまえ! ……でも、最悪な事にならなくて本当によかった。
そして最後は……私自身。
すぐに否定したが、チラリと浮かばなかったと言えば、嘘になる。
もしこのまま、メリーが目覚めなかったら……。
バカな。と、自分を叱責した。
なんて浅ましく、無様で醜いのだろう。そうなっても、彼が私の元に来る保証などないのに。
それどころか、大好きな彼は間違いなく傷つき、悲しみ。そして苦しむ筈なのだ。
その日の私は深い自己嫌悪に陥りながら、フラつくように彼の部屋を目指した。我ながら酷い顔だったと思う。
そこから玄関で彼に「いらっしゃい、綾」と、優しく出迎えられたものだから、私は限界だった。
取り敢えずハイキック。ぐへぇ!? と、床に倒れた彼を見ていたら、自然に涙が込み上げてきて……。最後にはわんわんと泣き叫びながら、私は彼の胸にすがり付いた。
「ごめんね。心配してたよね。ごめんね」
そんなはた迷惑な私を、赤子でもあやすようにポンポンと背中を叩きながら、彼はそう謝罪する。
余裕もなかったんだよ。と、彼が珍しく弱さの影を垣間見せたものだから、私の涙腺は完全に決壊していた。
違う。違うのだ。それもあるけど……。
結局私は言い出せなかった。自分の中の汚い部分を。
彼からしたら、今の私は親友の怪我に心を痛めてくれた優しい幼馴染に見えたに違いない。
実際は他にも色々な感情を抱えていたなんて知らずに。
結果私は、ますます落ち込んだ。
「ご飯食べようか」
泣き止んで、調子を取り戻したのはどれくらいたってからだったか。
彼は変わらぬ暖かさで、そう言ってくれた。
浮かべるは見慣れた大好きな笑顔。だが、何故だろう。私はそれが、わずかに違うように見えて。
不意に鼓動が跳ね上がった。
「あったかいスープに。ミックスサラダ。ナスとトマトのミートグラタンなんてどうだろう?」
「あ、うん。それでいい」
「オーライ」
謎過ぎる胸の高鳴りに戸惑いながら、私が辛うじて返事をすると、彼はエプロンを装備して、せっせとキッチンで支度を始めた。
その後ろ姿をぼんやり見つめていたら。ああ、そういえばメリーの得意料理も、グラタンだったなぁ……何て事を思い出していた。
いつかに三人でゴールデンウィークを過ごした時、キッチンに立つメリーを見ながら「もう少し大きい台所だったら僕も手伝えるんだけどね」と、苦笑いする彼にムカついて。内心で当てつけか! と彼の脛を蹴ったことに始まり。
丁度その時、エプロンしてるメリーの後ろ姿に匂い立つような色気を感じて。そのまま何故か彼の手伝う発言が悪戯するに変換。あらぬ妄想を広げた私のエルボーが彼に炸裂したことまで。
その実、結構今はどうでもいい思い出ではあるが、何気ない日常の尊さを再認識した私は、こっそりまた鼻を啜った。
「ほい、出来たよ~。悪いけど、運ぶの手伝ってくれるかい?」
「う、うん」
そうこうしているうちに、夕食が完成する。
振り返り、手招きする彼。いつも通りだ。やっぱり記憶にあるいつも通りの彼な筈なのに、何故かドキドキが止まらなくて。私は暫くその場で、ぽーっとしていた。
「……綾? 大丈夫?」
「ふゃ!? だ、大丈夫よ。大丈夫……」
上手くは言い表せない。
しいていうなら、謎。
どうしてかわからないけど、彼が晴れやかな顔をしているというか、吹っ切れたような雰囲気で。私は下世話な話だが、ちょっとクラリときていた。彼の中に、今までにない男の色気というべきか。そんなものを感じていたのだ。
だから、私は夕食の席で思いきって聞いてみた。
「何か、あったの?」
「……え?」
「いやだって辰、嬉しそうっていうか。何だろ。雰囲気がいつもと同じようで違うもん」
「う~ん、嬉しかったって言えばメリーの意識が戻ったのと……。面会が楽しみなのと……」
もう一つ。何か言いかけた彼が口を紡ぐ。煮え切らない態度なのは珍しい。私がもう一度。何かあった? と聞けば、彼は少しだけ。あの困った顔を見せてから、小さく「うん」と頷いて。言葉を選ぶように語り始めた。
「色々、問題があってね。自分でも驚く位に本気で頑張ったんだ。それで一応……。解決した。その最中でまぁ、自分を見つめ直す機会があったから……。何か違うって言うなら、それじゃないかな」
「……問題、解決?」
それって、何? と聞こうとして止めた。彼がフラッといなくなる時。行き先や何をやっていたかなんて話してくれた事はない。
メリーが大変な時に何やってんだお前。とも思ったが、真剣そのものな彼を見たら口は挟めなかった。もしかしたら、メリーも関わってたのかな?
漠然とそう考えた瞬間。私の中でパズルは完成して……。その瞬間。私は小さく息を飲んだ。
ああ、まさか。
「我ながら、自分のバカさ加減に呆れてね。けどようやく。ほんのちょっとだけ前に進めたんだと思う。……これから後退か停滞も大いにありえるけど」
「最後でヘタレんな、ばか」
さっきまでキリッとしてたのに、だんだん尻すぼみな声になり、あっさり三枚目へ豹変した彼に、私は辛辣な一言をお見舞いする。
それは精一杯の抵抗で。ほんの少しのエールだった。
だって気づいてしまったから。
道理で男の子らしさを感じるわけだ。
貴方は今、恋をして。覚悟を決めたのだろう。貴方が大好きな私だからこそ、それを敏感に察してしまったのだ。
ミートグラタンは、優しい味だった。けど、私は……。
そこでふと、さっきの最低な思考を思い出す。
ああ、これはきっと……。
※
「私の負け……か」
勝負だったの? なってたの? なんて思うけど。あと個人的に恋愛は勝ち負けじゃないが持論だが……。まぁ、そう喩えなきゃやってられなかった。
だって仕方ないもん。
そりゃあ、大好きだ。そばにいて欲しい。愛してるって言って欲しい。けど……。
「あれを引き離せとか……無理だっての」
実はこっそりついてきた病室。
そこで見たのは、抱き締め合いながら、子どもみたいに大泣きする、普段とはかけ離れた二人の姿だった。
あんな風に泣いてる辰なんて初めて見た。メリーもメリーだ。可愛いげがない? 冗談でしょ。普段からそれくらい素直なら充分だ。難しいんだろうけど……女の私から見ても、今のメリーは涙でぐしゃぐしゃで。だけどとびっきり綺麗で、可愛らしかった。
「……あー」
よしメリー。貴女お見舞い品なし。決定。
私はそう自己完結し、踵を返す。
外に出たらトークアプリで、彼もといあのバカヤローに、ごゆっくり。とでも言っておいてやろう。
「うん、大丈夫。……多分」
想いは告げない。
きっと彼は戸惑うし、困るだろう。それは何か嫌だ。断ることで私が傷つくと感じて、変に苦悩して、ギクシャクするかも。それは私が望むとこではない。
繰り返すが、彼が大好きなんだ。鈍感で、残酷で。でも世界一私を可愛がってくれる人達の一人。
それは、未来永劫変わらないから。だから……。ああ。でも、もし言うとしたら、完全に想いが風化した頃に言ってやろう。
あの頃私も好きだったんだよ。ざまーみろ。なんてね。それから……。それから……。
「どうしよう?」
当てなんて、ここでは他にないことに気がついた。取り敢えず、近場に喫茶店があったら、そこに入ろう。
とびっきり苦いエスプレッソを、砂糖なしな美味しくないやり方で飲み干して。きっと涙は出るから少しだけ泣いて。結衣ちゃんにも電話して……。
ハハッ、なんて言ってたらため息が出てきた。
「彼氏が……欲しいな」
そうしたい人なんて一人しかいないくせに言ってみる。
出来れば彼よりかっこよくて、料理ができて、優しくて、いい匂いがして。鎖骨のラインが素敵で、メリーが悔しがる……は、なさそうなので却下。それから……。フラッとどっかに行ったりしない。行ってもちゃんと帰ってきてくれて。
私を。家族を一番にしてくれる人がいい。
理想が高すぎる? やかましい。知ってるよ。でも、これ位しないと……。
「ああ、やば……。泣いちゃい、そう」
それは、一つの恋の終わり。
いつか私も一歩踏み出せる事を信じて。エスプレッソを飲みに行こう。




