望んでいたもの
静かに目を開ければ、見慣れぬ木の天井が視界に入る。鼻をくすぐる爽やかな匂いと一緒に、幽霊を思わせる靄が空中を揺らめいていた。
これは、お香だろうか。ライム……いや、レモングラス。どちらにせよ、疲労した身体には絶妙に心地よくて、僕は暫くの間ぼんやりと天井を見つめていた。
息を吸って、吐く。そこでようやく、自分は布団に寝かされている事に気がついて。どうしてこうなっているのか、直前まで自分が何をやっていたのかを思い出した。
心臓が、一際大きく拍動する。血の気が引くのを感じながらもゆっくりと両手を上げれば、そこには……。
「……腕、ある……よね?」
恐る恐る、魔子が持って行こうとした右手を振る。ほんの一週間程前に拳が負っていた傷は、今や瘡蓋が完全に皮膚と同化をし終えていて、ほとんど目立たなくなっていた。
無事。それだけ確認した僕は、途端に脱力して両手を布団に投げ出した。が、そこで不意に横合いから伸びてきた白い手が僕の手を引き上げた。
「んぇ?」
『うん、どうやら変に後遺症はなかったみたいですね』
優しく僕の手を撫でてから、またゆっくりと下ろしつつ。そこにいた人物は安堵の息を吐いた。
カーテンのような前髪から覗く深緑色の目は、心なしか潤んでいるようにも見えた。
「…………深雪、さん?」
『はい、深雪さんですよ~』
そこにいた存在が発した声は、確かに深雪さんのもの。だが……。その姿は、普段見られる深窓の令嬢。あるいは、上品な若奥様を思わせる格好からは、明らかに逸脱していた。
簡単に言葉で表すならば、平安時代の文官を思わせる服装だ。確か……女房装束。赤と緑を主体とした色艶やかなその姿は、美しくも神々しく。和室に座しているだけで絵になるようだった。
だが、そんなものすら脇役に押し退けてしまう、衝撃的なものを彼女は持ち合わせていた。具体的には、濡れ羽色の髪を有した頭……その、ちょうどこめかみに当たる部分に……。二対のカールした角があった。
角があった。あと、よく見れば獣の耳までピョコンと飛び出している。
「…………ちょっと狙いすぎな感じは否めませんね」
『ウフフ……はっ倒すわよ辰ちゃん?』
僕がそう言えば、深雪さんはいつものニタリとした笑みを浮かべながら、おイタした子どもを軽く叱るように、コツン。と、僕の頭に可愛い拳骨をお見舞いした。
軽く謝りつつ周りを見渡すと、どうやら『暗夜空洞』の居住スペース。多分寝床か、客間に当たる部屋なのだろう。
僕の寝る布団がど真ん中に敷かれたそこは、畳張りの六畳程の和室だった。枕元に、お香の煙を吐きつづける、高そうな香炉が置かれ、足元には火鉢があり、心地よい暖をもたらしてくれる。障子が張られた襖は今は閉じられているが、明かりが差さない辺り、まだ夜は明けていないのだろう。あと、部屋の壁には『炭水化物』と書かれた謎過ぎる掛け軸があった。つくづく変な所に遊び心を発揮する女性だ。
「暗夜空洞で寝てるってことは……助けてくれたんですか?」
『んーん。辰ちゃんは、勝手に助かったのよ。私はそうですねぇ……。ちょっと欲張りになった悪魔ちゃんに、キツ~イお仕置きをしただけ』
「……お仕置き? って、魔子に?」
『ええ。――取り敢えず、ミイラの指全部へし折って契約も解除しましたから。ご安心を』
サラリととんでもない悪魔との契約破りを聞かされた気もするが、詳細を訪ねるのは憚られた。
少なくとも目の前の女性から、知らない方がいいわよぉ? という凄みを感じたからだ。
「……実は、魔子が腕に噛みつこうとしてから、記憶がないんですよ」
『まぁ、そうでしょうね。何が起きたかを簡単に説明しますと……ん、見せた方が早いかしら』
そう言って、深雪さんは懐から小さな紙袋を取り出すと、おもむろに手の上でひっくり返す。
じゃらじゃらという音を立てながら出てきたのは、引きちぎれた鎖と、バラバラの金属片が多数。
何だろう? と、身体を起こしてそれに顔を近づけた僕は、思わず「あ……」と、短い声を漏らした。
「それ……メリーからホワイトデーに貰った……」
『ええ。私の助力を受けながら彼女が丹精込めて手作りした……多分この世で、一番辰ちゃんを守る力が強い、特別な御守りですよ』
神妙に頷きながら、深雪さんは僕の砕けた護符を手渡した。
冷たい銀の手触り。いつも僕の首にペンダントよろしく掛けられていたそれは、手に持てば不思議なパワーを感じ。エセダウジングまで可能にする代物だ。
といっても、今はもう、何も感じない。明らかに効力は失われていた。そういえば、偽メリーが再び降臨する場所を探す関係で、ずっと手首に巻き付けていたっけ。
少なくない喪失感を覚えながら、僕は砕けたペンダントを握りしめる。
「まさか、僕の腕が無事なのって……」
『はい、お察しの通り。その御守りのおかげですね。もっとも悪魔からしたら、それで対価を支払った事になって、少し不満だったみたいですけど……。まぁ、悪魔を防ぐ代償か意識消失もしちゃってたのね。おかげで魔が差した悪魔が、辰ちゃんの血を掠め取ろうとして……』
「深雪さんが割って入ったと?」
『正解です~』
ブイ。と、ピースサインをする深雪さん。それを見た僕はといえば、少しだけ顔をひきつらせていた。
何というか、順調に借りが重なって行っている。僕とメリーが抱える負債だとか。今回の助力とか。……それに関しては暫くは馬車馬のように働くとして。
僕は、純粋な興味から、深雪さんを改めて見据えた。
「……山羊か、羊。ですかね?」
『ウフフ。深雪さんのみ~は、未ってね』
「それ、本当に?」
『はてさて、どうでしょうかね?』
顔を伏せ、前髪で完全に目を隠したまま、深雪さんは歪に笑う。『私に興味があるの?』 そう呟いた。好奇心が沸かないと言えば嘘になる。彼女は一体何者か。その正体は、僕らが解けなかった謎の一つだ。
人間ではないと何となくわかっていた。だが、そこそこな期間を彼女の元で労働に勤しんでいるが、彼女が完全に怪奇的な側面を見せたのは、今回が初めてだ。勿論そこには、僕が協力を依頼したからというのもある。そんな中でこうして姿を現してくれたのは、彼女なりに信頼してくれているのか。歩み寄ってくれたのか。真意は掴みかねる。
「聞いたら教えてくれるんです?」
『んー。まぁ、教えますけど。やっぱりほら、見返りが欲しいなぁ?』
「……物語ですか?」
『それもいいですけど。……辰ちゃんそのものとか?』
部屋の空気が、一段階下がった気がした。僕は冷静に、彼女の言葉を探っていく。これは……。
「労働力として、でしょ?」
『いぇーす。いや、ホント怪奇的に見れば辰ちゃんって一家に一人は欲しいんですよ』
もれなくメリーちゃんもついてきてお得だし。そう付け足す深雪さんはずりずりと僕の方へ近づいてくる。
前髪の隙間から、エメラルドを思わせる瞳が蠱惑的に僕を覗き込んでいた。
『辰ちゃん。メリーちゃんと一緒に、私の眷属になりませんか? 夫婦でかの有名な修験者に仕えた鬼の例、知ってるでしょ。貴方達は二人とも素敵で怖い怪奇になる素質があります』
私が保証する。そう言いながら、深雪さんは『どう?』と、首を傾げる。
『それが、私を知る条件。辰ちゃんが知らないだけで、世界には非日常が溢れている。貴方達二人が触れているのは、そのほんの断片に過ぎないんです。メリーちゃんがここで死んでも、私なら繋ぎ止められる。真に全てを知りたいなら……』
そっと手を此方に差し伸べる。手に取れ。そう言っているのだろう。
きっとそうすれば、また世界が広がるのだろう。思いがけない発見があるのだろう。それはとても魅力的だ。だが……。生憎と僕は、既に深雪さんの思考を看破していた。
「……知りたいことはあります。けど、それは深雪さんのことじゃない。病院、付いてくれていたんでしょう? メリーは? 彼女は……」
僕の切り出した言葉に、深雪さんは少しだけ目を見開いて。やがて、何処と無く嬉しそうに微笑んだ。
重々しい怪奇の気配や、羊の角と耳は、いつの間にか消えていた。
そうとも。好奇心はある。だが、それは僕一人では意味がない。彼女を幽霊にして繋ぎ止めるだなんて論外だ。お互い幽霊ならば少しだけ考えたが……。今はそうじゃない。
僕もメリーもまだ生きていて、帰る場所がある。
見たいものはあるが、その為に無理矢理時計の針を進めるのは趣味じゃない。僕らには僕らなりのペースと、渡り方があるのだ。
だから今一番に僕が気にしているのは、相棒の安否だけだった。
「教えて下さい。貴女が場を離れたということは……」
「…………そうね。まぁ、辰ちゃんが勝っただろうなってわかって飛んでいったのもありますよ。けど……まぁ勿体ぶらずに教えるなら……」
ぶい。と、再び深雪さんがピースサインを僕に向ける。
それだけで、僕は全身から、一気に力が抜けていくのが分かり。気がついたら、また布団に仰向けで寝転んでいた。
幸福感と安堵。その暖かな奔流が僕を優しく飲み込んでいく。
そんな僕の額を深雪さんは、楽しげに指でつついてくる。「フラれちゃいました~」なんてわざとらしい台詞まで一緒についてきた。
「本心じゃ、なかったでしょう?」
「まぁ、そうですね。彼処で頷いてたりなんかしたら、私、辰ちゃんだけ拐かす気でしたし」
「……え?」
「いや、メリーちゃんが許すわけないじゃない。いくら辰ちゃんと一緒だからって、上にお邪魔虫がいる状況なんて」
なにを当たり前なことを。と言わんばかりに深雪さんは肩を竦める。
僕は少しだけ恥ずかしくなり、頬を掻くのみにとどめた。
すると深雪さんはつつく指を止め、今度は親戚の子どもを慈しむように、僕の額を撫で始めた。結構体温が高いのは、彼女が羊だからか。いや、そもそも本当に羊なんだろうか。姿を謀るだなんて、怪奇の常套手段。勿論無関係ではないんだろうけど……。
「まぁ、いいか……」
これにて、一件落着。もう充分だ。
相も変わらず撫で続ける深雪さんの手を振り払う力も、今の僕にはない。
度重なるプレッシャーや胸を抉る心労。そこから解放された反動からか。僕の身体は急速に、眠りを欲していた。
「……お前に興味ないって言われたの、初めてです。こう見えても私、天帝に仕えたり。日本でも有名な霊能者の腹心が一人だったり。結構凄いんだけどなぁ」
残念そうだけど、何故か嬉しそうに。深雪さんがそう囁いた時。僕は静かに微睡みに落ちる。
羊が一匹。羊が二匹。
やがて聞こえ始めた子守唄みたいな響きが、とても心地よかった。
※
――一週間後のお話だ。
あの戦い。といえばいいのか、不思議な騒動が終われば、後に残るのは代わり映えない日常だけ。物足りなさを感じるのは、隣に相棒がいないからだろう。
ただ、その間も実はそれなりに出来事があったことを追記しておく。
まず、ミクちゃんは故郷に帰った。あの後実は、深雪さんのとこに厄介になっていたらしい。メリーに顔を見せたがっていたが、面会がまだ可能にはならなかったので、それは断念した。かわりに彼女の親戚が営む温泉旅館のパンフレットを置いていってくれた。
彼女はそこの看板娘なんだとか。今度是非、遊びに行ってみようと思う。
次に魔子は、再びミイラに還った。深雪さんが大分トラウマになったらしく、『腕が貰えなくて、魔が差しただけなんだよ! 本当に悪気はなかったんだよぉ!』と、必死に謝ってきたのが印象的だった。
そんな彼女は今、『暗夜空洞』の倉庫にいる。深雪さんに引き取ってもらったのだ。僕の仕打ちに『この鬼畜変態野郎!』と、涙目になって掴みかかってきたが、やはり危険だということを今更ながら自覚したから仕方がない。再び誰かが巻き込まれるより、こうした方が遥かに安全だ。悠と君のことは忘れたりしない。それを固く約束し、取り敢えずは納得してくれた。
因みに暗夜空洞が酷い魔窟なせいで、魔子はしょっちゅう実体化し、飼い猫もかくやに走り回るわ、仕事中に僕の肩に乗るわで好き放題にやってたりするのだが……。悪魔の威厳の為、これ以上は閉口しよう。マスコットとか言っちゃいけない。
「所詮低級悪魔ですし」という深雪さんの頼もし過ぎる言葉が、ただ涙を誘うようだった。とだけ付け加えておこう。
あと、もう一つ。魔子に関してずっと気になっていた謎が、この度氷解した。
彼女がどうやって僕の元に贈られてきたか……だ。
後で聞いた話になるが、バレンタインに悪魔が復讐を果たした夜。魔子は偽メリーの襲撃を受けたらしい。あわや殺されかける寸前になったのだが、既に復讐を果たし、願いにも縛られぬ自由な身だったことが幸いした。
命からがらどうにか逃げおうせたところで……。魔子は丁度この世界にたどり着いていた、コウトと遭遇し、紆余曲折を経て僕の元へ輸送された。
そう、いつかの謎の配達員は、他ならぬコウトだったのである。
偽メリーから隠れつつ、コウトの存在もぼやかすには、どうしても僕の元に逃げ込んだと思わせる必要があったそうだ。
偽メリーも魔子に関してはもし手に入ったならラッキーみたいな気持ちだったとか。奇妙な話だが、どの世界線でも僕が魔子を手に入れるのは運命に取り入れられているというべき確定事項だったらしい。
こうして振り返ってみると今年のバレンタイン……いや、もっと広げれば、裏ディズニーを訪れた辺りから、僕らを取り巻く運命の見えない攻防戦は始まっていたのだ。
そう思った時、僕は流れるように魔子に文句を述べていた。
「偽メリーに会ったなら、教えてくれたってよかったじゃないか」
『別世界の君に口止めされてたんだよ。破ったらあの女にバラすっておまけ付きでね。あたしは自分がのんびり寝れたらそれでよかったし、そうなったら君に呼ばれるまで動けなかったしね』
「……変なことに巻き込まれてるとか、思わなかったの?」
『そこは価値観の違いだな。シン・タキザワ。悪魔はね。欲望はあっても、好奇心はそんなにないのさ』
最終的に自分が幸せになったら、それでいいんだよ。
そう言って笑う彼女は、悪魔にしては随分と人間臭かった。
そして、最後。といっても、つい二日前の出来事なのだが……。なんと故郷から、綾もやってきた。
流石に僕もびっくりしたが、考えてみたらララもニュースを観てこっちにやってきたのだ。綾が同じ事をしても不思議ではない。
彼女曰く本当は知ったその日に来たかったらしいが、大学の課題やらが丁度忙しく。また、真面目な彼女は授業をサボるのも出来なかったので、こんなに遅くなったのだとか。
あと、会うなりハイキックが飛んできたのはご愛敬。
心配して何度も連絡していたのに、返事が物凄く適当だったから、余計に心配が募っていたらしい。
許せ、綾。僕も結構いっぱいいっぱいだったのだ。
結局彼女は僕の部屋に滞在している。メリーの面会が許可されるまではいてくれるらしい。
ついでに。僕が知らないだけで、メリーと頻繁に連絡を取っていたらしい。何となく仲が悪い。あるいは、苦手としていると思っていただけに、このニュースに僕はまたびっくりしたのは、また別の話。げに女の子とは奇妙かつ摩訶不思議である。
そして……。
「松井さんですね。8346号室になります」
「ありがとうございます」
そんな日々が続いたある日。意識が戻った彼女の面会謝絶が解けたという一報を聞いた僕らは、病院を訪れていた。
自転車こいで、電車を乗り継いで。たどり着いた受付で病室の場所を聞いた後。逸る気持ちを抑えて、すぐ傍にあった売店に入る。
慌てて出てきたので、お見舞いの品なんて持ってきていなかったのだ。綾がそこで何故か「え……?」と、すっとんきょうな声をあげた気もしたが、僕はそのまま足を進める。
実は少しのクールダウンも兼ねている。心臓がやけに早鐘を打っているし、よく分からないが何だか落ち着かない。だからこの買い物は、そんなモヤモヤを鎮める為に、だ。
「……ねぇ、辰」
何がいいだろうか。そもそも、今彼女は物を食べれるのか。いまいち情報が足りなすぎる。
「ねぇ、ちょっと。辰。聞いてる?」
ぬいぐるみ。は、何か違う。ここは無難に花でも……。と、思ったところで、不意に背後から袖が引っ張られる。綾だった。
「綾?」
「……むー」
どうしたの? と、僕が問えば彼女は無言で。ただ、少しだけむくれながら僕の顔を見つめている。何かを伝えたい。そんな顔。だが、生憎とエスパーではない僕は意図が分からず首を傾げるばかり。すると綾は長い長いため息をついてから、僕をジト目で睨み付けた。
「変に格好つけなくていいでしょ。メリーなんだから」
「……へ?」
未だに収まらぬ心臓を煩わしく思いながら綾の言葉に耳を傾けようとする。だが、綾はそんな僕の背をぐいぐい押して、売店から摘まみ出した。
「あのさ。辰は今、珍しくわかりやすいわ。行きたいならとっとと行けばいいじゃない。変にクールダウンとか、今の辰は無理でしょ?」
「いや、あの……」
「普段なら私が話しかけたらちゃんと反応してくれるもん。それくらい余裕がない。本当は、私と一緒じゃなかったら、全力で走ってたでしょう?」
「む……でも……」
「デモもストもないの。恥ずかしいなら、買い物は私がして、少しだけ時間置いて行くわ。だから……」
ちょっとの間を置いて、綾は呟いた。
「行って。私がメリーなら、お土産なんかより、辰の顔が見たいと思う」
「……っ」
パコンと。頭を叩かれた気分だった。
綾は尚。まっすぐ僕を見つめている。が、それは次第にイライラしたものになり、最後は顔面を真っ赤にしながら、憤怒の形相で僕に拳を振り上げた。
「――っ! ああもう! こんな恥ずかしい事言わせないでよバカァ! 会いたかったんでしょう!? さっさと行きなさい! 蹴っ飛ばすわよ!」
本当に容赦なく飛んできた蹴りをかわし、僕は後ろに飛び退いた。綾は仁王立ちに腕組みしながら、フン! と鼻を鳴らしていた。
こうなれば、もう彼女は覆らない。変に言葉を重ねれば、本気で僕を病室にシュートしかねないだろう。
「…………っ、お金、僕が出すから」
「割り勘だっつーの。私だって心配したのよ」
「…………ありがとう。綾」
震える声を自覚しながら、僕は彼女に背を向け走り出す。
不思議な衝動は、もう収まっていた。
※
エレベーターが丁度全部上に行く。という不幸があったが、僕は構わず非常階段へ。
八階だぞ。正気か。と言われかねないが、身体はじっとしているのを拒否するかのように。走り、階段をかけ上がる事を歓喜しているかのようだった。
一階から二階へ。三階に。
幽体離脱中の記憶はあるか。など聞きたいことはいっぱいある。だが、それはまた二の次だ。
三階から四階へ。五階に。
真実を語りたい。偽メリーのこと。コウトのこと。深雪さんや魔子にミクちゃん。狸の親父さん。隠れたMVPのララに、今さっき、僕の本心を見抜いてくれた綾。たくさんの人達のこと。
けど、それも大事だけど、心に従うならそうじゃない。
五階から六階へ。七階に。
呼吸が乱れる。全力で階段をかけ上がった弊害だろう。だが、今はそれすら心地よい。
八階についた。病室は、すぐに見つかった。
そう。伝えたいことがある。気づいた気持ちがある。それを君に届けたい。だが……それもまた、今は違う。重要だけれども、今ではないのだ。
扉をノックする。
どうぞ。と、聞き慣れている筈なのに、随分と懐かしく感じる声に震えながら、僕は部屋に足を踏み入れた。どうやら、個室らしい。
窓際に安置されたベッドの上。そこに桃色の患者服を着た女性が座って、本を読んでいた。
太陽に照らされて輝く亜麻色の髪。肩ほどまでの緩めにウェーブがかかったそれは、彼女の白い肌とも合間って、絶妙な美しさを醸し出していた。「お人形さんみたい」と、彼女を評する声を聞いたことがあるが、成る程。実に的を射ていると思う。
青紫の瞳は宝石みたいに綺麗だし、彼女の雰囲気自体が、何処と無く浮世離れしているのは否めない。けど……。
芝居がかった仕草で、本を閉じた彼女は、人形なんてものからはかけ離れた、優しく柔らかな笑顔で、僕を出迎えた。
「……私、メリーさん。今、貴方を待ちぼうけなの」
「それは……こっちの台詞だよ」
声が耳に届く。ハチミツみたいな甘い香りが鼻を満たす。
僕の身体は冗談みたいに震えて。思わず唇を噛み締めた。
視界が……歪みはじめた。ああ僕は……。
「なんて、酷い顔。せっかく、会えたのに……」
「ブーメラン、って……知ってるかい?」
メリーの声が、上ずっている。彼女の身体もまた震えて、目が潤んでいるのが辛うじて見えた。
おかしいな。こんな筈じゃなかったのに……気持ちが溢れだして、もう止まらなかった。
「……うっ、ぐ…………っ、ごめん、メリー。ごめん」
「…………っ、いい……の。相棒、でしょ。お互い弱いとこなんて……沢山……」
頬を熱い滴が、何筋も伝い落ちる。ふらつきながら歩みを進めれば、メリーは本を横に投げ、僕の方へ両手を伸ばしてくる。
「う……ぁ……」
「ひぐ……うっ……辰、し、ん……早くっ! ……はやくぅ……!」
涙を流しながら急かす彼女に従って、僕は一気に彼女のベッドまで駆け寄り、彼女をしっかりと抱き締めた。
感触も、匂いも、声も。全部全部本物で。
僕らはお互いにお互いを存分に味わうかのように、キツく抱き締めあった。
ああ、メリーだ。
メリーがいる。生きている……!
言葉など出ず、僕らは恥も外聞もなくおいおいと泣き叫んでいた。いつまでも、いつまでも。
何もいらなかったのだ。
ただ傍にいて。声が聞きたくて。一緒に歩いていけたら。
それだけが、僕らの望んだ未来だったのだ。
「会いたかった……メリー」
「私もよ、辰」
もう二度と離さぬよう。しっかりと指を絡めるようにして手を繋ぐ。
それは、ようやくいつも通りの僕らに戻ってきたこと。その証明だった。




