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渡リ烏のオカルト日誌  作者: 黒木京也
第八章 ドッペルゲンガーと蜃気楼
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日常への代償

 君はバカだなぁ。天然だと思ってはいたけど、とんでもない。大バカだ。

 呆れたように。幼子を諭すように彼はそう言った。

 何も言えぬまま、俯くだけの彼女を、彼は静かに見る。震える彼女に手を伸ばそうとして、それを触れるか触れないかのところで止める。まるで悔いるように唇を噛み締める彼を、彼女は潤んだ瞳で見返した。

 彼は語った。怖かったのだと。

 自分が現世に戻れば、絶対に離れがたくなる。綾や、家族から。何より、恐らく自分の存在を知覚し、触れ合える存在がいるというのは、多分凄まじい誘惑になる。

 自分のような変な体質が留まればどうなってしまうか。誰よりもそういった存在と近かった彼には、その未来がよくない方に傾く事を容易に想像できた。

 だから、未練を絶ち切れた。どうあっても死が覆らないならば。全ては、自分の大好きな人達を傷付けない為に。

 それを聞いた彼女はとうとう泣き出した。

 酷いことを。残酷なこと言ってるのはわかっている。でも、それでも自分は、もう一度声が聞きたかったのだ。名前を……呼んで欲しかったのだ。

 だだをこねるように身体を震わせながら、彼女は身に秘めた想いを叫ぶ。彼は今度こそ躊躇わずに、静かに彼女を引き寄せた。


『ごめんなさい。……ごめんなさい。どうしても、もう一度……っ……間違えたって。認めたく、なかったの……!』

『ああ、酷い奴だね君は。一体何人の〝君を〟泣かせたのさ』

『何人もの貴方も……傷つけたわ』

『僕はどうでもいい……とは、ならないか』


 ならない。を、何とか発音したかったのだろうが、それは彼女の嗚咽で、意味を成さぬ呻きになる。

 彼は困ったように息を吐きながら。静かにこう言った。


『何すべきかは、わかるね?』

『…………償いたいわ。でも…………私には……』

『出来るさ。その方法も、君は薄々気づいている。違うかい?』

『…………なるの、かな』

『僕がそれを提案してる。それが既に君にとって結構な罰にはならないかな?』

『……私は、貴方になら……』

『ストップ。止めてくれ。本当はこんなこと言いたくないんだ。言った瞬間に舌噛んで死にたいくらい、酷いことだ』


 もう死んでるけどさ。と付け加えながら、彼はそっと彼女の髪に触れる。

 フワフワした感触を指で楽しむように、亜麻色のそれを弄りつつ、彼はほんの少しだけ抱き締める力を強めた。


『君は取り返しのつかないことをした。報いも罰も受けるだろう。生きてるときも、死んだ後も』

『死後の世界なんて、あるの?』

『それ詳しく語るのは禁止なんだ』

『そう……』


 でもきっとあるのでしょうね。なんとなく、彼女はそう思った。


『あまり時間はないから、伝えたいことを言うよ? 他の全てが君を否定しても、〝僕〟だけは君の味方だ。それだけは忘れないで。……それだけ』

『…………っ』


 ありがとう。その言葉を小さく絞り出し、彼女は彼の胸板に顔を押し付ける。震える彼女の耳元で、『もう、逝かなくちゃ』彼はそう囁き、優しく彼女から身を離す。

 寂しげに手を伸ばしつつ、その腕でそのまま涙を拭い。彼女は小さく頷いた。


『……必ず、元の世界に戻るわ』

『ああ、ここの僕らにも、ちゃんと謝るんだよ?』

『うん。戻って……ちゃんと償う。こうすべきだと思うから』

『…………っ』

『そんな顔しないで。それで……その後は、その後は……』


 償いを。報いを受けた後を想像し、彼女はぎゅっと手を握る。それを見た彼は、陰鬱な表情を振り払い、精一杯柔らかく微笑んだ。


『ああ、そうしたらまた。一緒にサークル活動しよう。僕らは……相棒だろう?』

『…………っ、いい……の?』


 恐る恐る問う彼女に、今度は彼がゆっくり頷く。

 その瞬間、彼女は幸福感と、それを塗り潰さんばかりの良心の叱責に苛まれた。

 彼はそれを察したように目を閉じた。


『待ってるよ。ずっと待ってるから』


 確かに届けられた言葉を、彼女は噛み締める。

 また溢れだした涙できる瞳を一杯にしながら。彼女もまた。精一杯の笑顔を彼に見せた。


『私、メリーさん。必ず、行くから。貴方の後ろに必ず行くの……』


 待ってて。


 その言葉を最後に世界を飛び越えた再会は終わりを告げる。

 雪が溶けるように彼の気配は消失し。糸が切れた人形のように、彼と同じ存在がスローモーションのように倒れていく。

 それを見た彼女は、慌ててそばに駆け寄った。

 何とかその人を、己の豊かな胸に抱き止めて、彼女はストンと、その場に腰を下ろす。

 路地裏を流れる風が、さっきまでそこにあった屋台の残り香を運んでくる。それに何だか物寂しい気持ちになりつつも、彼女は夜空を仰いだ。


『…………そう。それが……償いになる』


 寝息を立てる彼の頭を優しく撫でながら彼女は呟いた。

 願いは。夢は終わらせなければならない。中途半端に踏み倒したままでは、自分は永遠に、彼を求め続ける災厄のままだ。だから。


『〝しかし、おれはまったく悪者だ。おれは愛らしい者や無力な者を殺した〟』


 奇しくも自分の本名と同じ名を冠した女性作家の作品より。名前のない怪物の言葉を口ずさむ。

 それは、彼女の行く末を案じさせる響きをもって、夜の帳にこだました。

 

 ※ 



 意識を取り戻せば、ついさっきまでいた路地裏だった。

 そう分かったのは、鼻に残る微かなラーメンの匂いから。だが、実際には大部分が鉄と蜂蜜が混ざりあったような香りで支配されていた。

 後頭部に感じる、柔らかな感触。目の前には、黒い喪服を思わせるドレス。その胸元を押し上げる、魅惑の双丘。


『目は覚めた? どこかおかしいところはある?』

「ここは現実かな? 桃源郷が見える」

『……前屈みになってあげましょうか?』

「頭がおかしくなる自信はあるけど……それは僕が受けるものではない……かな」


 一頻り場をなごませるジョークを交わし、苦笑いしつつ僕が身体を起こそうとすると、その肩が優しく押さえられた。

 再び膝枕に戻される形になった僕が戸惑っていると、僕を介抱していたメリーは、静かに僕の両頬を手で包み込んだ。


「……そっちの僕とは話せたかい?」

『……ええ。怒られちゃったわ』

「そりゃそうだ。立場が同じなら、僕だって怒るさ」

『そう、よね。私はそんな当たり前な事も見えなくなるくらい……狂ってたんだわ』


 悲しげな声で偽メリーはそう呟き、そのままほんの少しだけ身体をかがめる。そのまま……長い物語が始まった。

 偽メリーが歩いた軌跡。ことごとく報われない、悲しい旅路。それに僕はしばらくの間、そのままの体制で聞き入れていた。


「どうして、急に?」

『……貴方に、覚えていて欲しかったから』


 甘い香りが強くなる。だが、違う。似ているけど、違う。それに気づいた時、僕は無性に言いようがない寂しさに襲われた。

 メリーは。メリーは無事だろうか。

 全てを聞いた後、僕の心が還っていったのは、愛しき相棒の元だった。それを察したのか。偽メリーは何処と無く羨むような眼差しを僕に向けつつ、まだ口を開いた。


『聞いて。私は……私は願いを終わらせる。貴方の……いいえ。〝貴方達〟の勝ちよ。それで、ね……最期にお願いがあるの』

「……僕が聞ける範囲なら」


 そう答えれば、偽メリーは儚げに微笑みながら、ゆっくりと口を開いた。


『手を……猿の手を、私に譲って欲しいの。使うのは一回限り。願うのは、元の世界に帰ること。これだけと誓うわ。貴方に……貴方やこの世界の私には、もう迷惑をかけたくないの』


 貴方達には、もう傷付いて欲しくない……今更だけど。と、自嘲するようにそう言う偽メリー。涙でまだ赤い目が、真剣な光をもって僕を見据える。それを見た僕は、迷わず彼女の鼻を指で弾いた。勿論、あんまり痛くはないように。


『ふきゃ!?』

「悪いけど、それはダメだよ」


 何でよ。と、鼻を抑えながら此方を睨む偽メリー。僕は今度こそ彼女の手を振り切って身体を起こし、真っ正面から対峙する。

 猿の手を、そっとコートの内ポケットから取り出す。それをバトンのようにクルリと回しながら、僕は静かに「ダメだよ」と、もう一度、彼女の発言を却下する。


「これ以上やれば、本当に取り返しがつかないかもしれない。それに……僕だって、〝メリー〟が傷つくのは望まない」

『……どっちの、メリー?』

「両方」


 迷いなくそう答えながら、僕は静かに、猿の手を握りしめる。

 歪んだ形で願いをかなえる物。ならば、ここで偽メリーが帰りたいと願えば、恐らく……。

 考えたくもない未来を想像し、身震いする。偽メリーが世界を渡る条件を思い出せば、なおのこと使うわけにはいかない。

 だが、そうなれば、誰が偽メリーを送り届けるか。

 その適任者は、一人しかいなかった。


「魔子」

『はいよ』


 空気にドロリとしたものが入り込み、再び肩の上に魔子が顕現した。どうもその位置が気に入ったらしい。


「いつかの大サービスする。は、まだ有効?」

『勿論だ。出血大サービスで一回くらいならまぁ……代償を最低限にしてあげる』

「分かった。じゃあ……」

『ま、待って! まさか、貴方が!? だ、ダメ! そんなのダメよ!』


 僕がやろうとしている事を悟り、偽メリーが慌てて止めに入る。だが、僕はそれよりも先に、それを口にした。


「……お願いだ。魔子。一度だけ僕の手に彼女を送り返す力を」

『彼女を送る、ではなく?』

「僕自身の力にしてくれた方が、まだ融通は効きそうだし」

『……相も変わらず、大層な体質だね君も』


 呆れたように息を吐きながら、魔子は『確かに聞き入れた』と、呟いた。

 パキン。と、指が折れる音がして。その直後僕の腕に焼き鏝を当てたかのような激痛が走った。


「ぐ……」

『な、なんで……! どうして……! ダメじゃない! そんなことしたら、貴方に代償が……』

「君は、願いのために犠牲を払った。コウトはそれを止めるために代償を受け入れた。どんなのがあるかもわからないのに。極論からいえば、関係のない平行世界の僕らを助けるために……」


 一体何が彼を支えていたのか。何が彼を突き動かしていたのか。それはわからない。ただ、間違いなく言えるのは……。


「彼だって、メリーを大切に想っていた。だからこそ、尚更君を止めたい。そう思って動いた筈なんだ。でなければ、こんな賭けに出る筈がない」


 メリーが死んだ殆どの世界で、平行世界の僕は廃人か。ただの脱け殻になったという。そんな中で動いた彼。

 不思議な気持ちだった。彼はドッペルゲンガーではない筈なのに。僕は今、自己を突き動かす謎の衝動に襲われていた。


「僕は君の正体を暴いただけだよ。けど、それだってコウトが仕向けたものだった。コウトがいなかったら君に勝つことは出来なかったんだ。そして今、君はミクちゃんの力で心を完全に取り戻して。魔子の力で帰ろうとしている……」


 僕とメリーは、そのまま日常へ戻るのだろう。殺されずにすみ、彼女は何とか彼女の道を歩みだす。だけど……。


「ダメなんだ。君やコウトに頼りっぱなしじゃ。皆代償を払った。メリーだって今、死と戦ってる。なら……!」


 明日を迎えるために、今度は僕の番だ。


『…………っ、辰』

「そんな顔しないでよ。元から、決めてはいたんだ」

『でも……』

「……君が留まっても、猿の手を使っても、メリーに悪影響がある。なら、誰かがやらなきゃいけない。…………好きな人の未来のためなんだ。意地くらいはらせてよ」


 僕がそう言えば、偽メリーは目を見開き。そのまま、顔をくしゃくしゃにしながら、祈るように両手を組んだ。


『…………ごめんなさい。っ、本当にごめんなさい……っ、こんなこと言う資格はないかもしれないけど……』


 彼女の言葉を聞く途中で、腕から熱が引いていく。その時僕は今までにない高揚を覚えた。願いを叶える準備が整ったのだろう。気を抜けば飲み込まれかねないそれは、正しく魔の魅惑だった。

 過ぎた力は、僕を怪奇側へ完全に引き込まんとしてくるようで。だが、僕はそれに対して必死に抗った。

 この世に起こしえない事を成すとは、必然的に人から逸脱することだと僕は思う。代償として人でなくなることも考えられる以上、切実に一度限りとしてよかったと思う。

 願いを宿した後は簡単だった。

 幽霊を成仏させるときと同じ要領で、そっと手を触れるだけ。それだけで、偽メリーの姿が急速に薄れていく。

 僕はそれを、身を切るような気持ちで眺めていた。分かってはいても、やはり同じ顔というのは心を抉るかのようだった。


『……ありがとう、辰。どうかお願い。……この世界の私と一緒に、生きて……!』


 悪魔でも神様にでもなく、彼女は僕に願いを口にした。

 ご利益なんて何もない。陳腐な言い方をすれば、水に書いた約束みたいなもの。それでも。


「……必ず」


 僕にとっては間違いなく。代償を払うだけの価値がある願いだった。



 ※



 全てが終わり。路地裏には静けさが舞い戻った。

 狸の親父さんはいつの間にか店をたたみ、いずこかへ消えていた。コウトもまた、影も形もなく。ミクちゃんは木箱に寄りかかるようにして、可愛らしい寝息を立てている。

 そして……。

 僕の肩に爪を食い込ませながら。悪魔がケタケタ笑い出した。


『シン・タキザワ。願いの対価を貰うよ。君は一度だけ、彼女を君自身の手で送り返す力を欲した。これにより、力は永続しないから、君を人間から外すことは出来なくなる。上手い抜け道だ。でもね。祈ったね。〝一度だけ〟つまりそれは、以降手は二度と使わない……そういうことになると解釈した』


 だから君の右手……貰うネ。

 冷たい声で、悪魔はそう宣言した。


「……覚悟は、出来てるよ」

『結構。では文字通り、〝出血〟大サービスだ。他にはもう要求しない。命や魂。君の大切な女の子にも手は出さない。優しい対価でしょう?』

「……涙がでそうだね」


 血の気が、引いていく。

 身体がバカみたいに震えて。でもそれでも僕はその場から逃げなかった。

 メリーだって、きっと痛かった。そんなの通り越していた筈だ。だから……怖くない。怖くないのだ。何度も自分に言い聞かせ、僕は歯を食い縛る。

 食い千切られるのか、刀で斬るように両断されるのか。あるいは神経そのものが殺されて、麻痺したかのように動けなくなる……もあり得る。どれもかれも全部怖い。だけど。


「……生き延びたよ。なぁ、メリー。もう安心なんだ。だから……」


 彼女がまだ目を覚ましていない。その事実が一番怖かった。

 イタダキマス。そう耳元で悪魔が囁く。

 クチャリと、獣を思わせる口吻が粘性を含んだ唾液を滴らせる気配がして……。


 路地裏に、何かが引きちぎれるようなブチンという音が響き渡った。


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