エピローグ: げに恐ろしき魔都の闇
骸骨に近づくのは簡単だった。
目と鼻の先に、焦がれるほどに再会を待ちわびた娘の姿があろうとも、それの手を引く見知らぬ高校生……もとい僕が目の前に立とうとも、彼は全く気づく様子がないからである。
娘たる女の子はそれを悲しげに眺めながらも、どうするの? といった顔で僕を見上げてくる。
成仏させて欲しい。そういう願いだった。
勿論、このまま仕事をしている彼を強制送還する事は出来る。
けど、傲慢な考えかもしれないが、僕はそうしたくはなかった。最期くらい、望みの一つが叶ってもいいじゃないか。
実現できることならば、文字通り冥土の土産ということで許して欲しい。そう思ったから。
女の子の手を握った方とは、反対側の手をかざす。
そっと骸骨に近づけて、僕は静かに集中する。
それらしい音がする訳でもなく。光を放ったりもしない。ゆっくりと何もないところを手で拭うようにすれば、それで仕事は完了した。
骸骨に肉が付き、皮が張られ、髪の毛が生える。
やがてそこには、中年から壮年に差し掛かろうかという、彫りが深い顔立ちの男の姿が現れた。
『え……あっ?』
男は目を見開き、何が起きたのか。どうして自分がここにいるのか分からない。そんな顔で辺りを見渡す。
多分忘れもしなかったであろう当時の仕事場。目の前と、少し離れた場所に佇む、覚えのない高校生の男女。最後に、目線を落とし……、そこで男は、まるで雷にでも打たれたかのように固まった。
『セ……ラ?』
『うん。うん! セラだよ! お父さんっ!』
女の子、セラは勢いよく父親に飛び付いて。
その父親は戸惑いよろめきながらも、自分の娘をしっかり受け止めた。ただ、些か混乱はしているらしい。狐にでもつままれたような顔で目をしばたかせている。
だが、それもほんの僅かな間だけだった。
難しく考えるのを止めたらしい彼は、娘の背に優しく手を回す。そこからは何度もごめん。ごめんと、譫言のような涙声だけが部屋にこだましていた。
「……ふぅ」
安堵の息を漏らしながら、僕はそっとその場を離れる。
もうしばらくは、ああしていたいだろうし、そこに部外者が入るのは躊躇われた。
途端に手持ち無沙汰になった僕は、そこで初めてメリーが興味深げに僕を眺めているのに気がついた。
「……何を、したの?」
「ややこしい説明を省くなら、内藤さんに娘さんが認識できるようにした」
「それは、何となくわかったわ。でも、どうやって?」
「う~ん。それがまさにややこしい説明なんだよなぁ」
どう言ったらいいものか。しばらく考えた僕は、おもむろに片手をあげる。
「君が霊感があって……そう、素敵な脳細胞と視神経を持っているなら、僕は霊感と、幽霊やオカルトの類いに干渉できる手を持ってる」
「干、渉?」
一応キックやタックルも出来るのだが、体質の運用をする上で細かい融通が効くのは手だけなので、便宜上の特殊な部位は手としている。
メリーの目が、僕の手を……というより指をじっと見つめているので、少しだけお茶目を入れて狐を作るのも忘れずに、僕は説明を続けていく。
「そう、干渉。触れられるってのはあくまで副産物なんだ。本質はかかわり、受け入れ、時にねじ曲げる。つまり幽霊の理にちょっかいをかけられるんだ。……微妙に、ね」
例えば、霊を成仏させたり。
姿を謀っている幽霊なら、その化けの皮を剥ぎ。
霊的な領域ならば侵入もお手の物。
他にも一時的にならば他者に働きかけ、幽霊が見えるようにすることすら可能とする。
「何それ、いくらなんでも出鱈目……」
「ということが、もれなくデメリット付きで出来る」
やれることにはもっと幅があるけれど、どれもこれもノーリスクではない。
実際に霊を成仏させるのだって、本人の合意があれば問題無いが、これが強制的な成仏になると話が変わってくる。文字通り、本当に骨が折れるような苦痛を伴うのだ。
他にも姿を暴くのだって、隠れる知恵がある奴なんて大抵とんでもなく強い霊だし、霊的な領域に侵入したとして「それで?」となるのがオチ。極めつけは他者に霊を見せた日には、もれなく幽霊と一緒に僕が恐怖の対象として認識されるだろう。事実、過去にそれと近い失敗をしてたりもする。
結局、これのお陰で助けられたことも、窮地に陥ったこともある。信頼を置くには些か胡散臭い力なのである。
「……それ、貴方はどう思ってるの?」
「どうって……手のことかい?」
「ええ。それが無ければ周りと一緒だったのにって。考えたりはしなかった? 失敗したって事は、貴方自身それで苦い思いをしている筈」
真っ直ぐ此方を見つめ、真剣な表情でメリーは問う。
聞かせて欲しい。そんな彼女の青紫色の瞳は何処か……。
『お兄ちゃん』
僕が答えを出そうとしたその瞬間、背後からセラが話しかけてくる。
振り向けばそこに、手を取り合った父娘が、晴れやかな表情で立っていた。
『そろそろ、お父さんをお願い』
「もう、いいの?」
セラは小さく頷いて、隣の父をにこやかに見上げる。『もう、大丈夫だよね?』という彼女に、父はゆっくりと頷いて、そのまま曇りなき眼差しで僕を見た。
『この度はとんだご迷惑を。私が、先に逝きます。娘をどうかよろしくお願いします』
「……わかりました。お任せください」
手を伸ばし、その胸に触れる。心音など勿論無く。そのまま、蝋燭の火が消えるかのように、一瞬でその姿が消失する。
『……おやすみなさい。お父さん』
念も呼吸の跡も残さずに、夢に囚われていた男は死出の旅へ出発した。
暫くは気が抜けたような沈黙が続く。けど、いつまでもそのままでいる訳にもいかなかった。
「……次、だね」
『うん。でも待ってお兄ちゃん。実はまだ、やることがあるの』
続けてセラの方へ向き直ろうとしたら、彼女はそれを手で制して、ぴょんと僕から飛び退いた。
「やること?」
『うん、色々と。まずはお兄ちゃんとお姉ちゃんを返さなきゃ。その後は、私が出来るから』
「その後? 出来る?」
「……まぁ、いいじゃない。さっさと帰りたいのは私達も一緒でしょ? セラちゃんだって、後から逝くんでしょう?」
話の脈絡が掴めず、僕が首を傾げていると、いつの間にかメリーが横に並び立っている。
尚も戸惑う僕を「いいから」と小突きながら、メリーはセラを見る。少しだけ、顔に心配の色が滲んでいた。
「……大丈夫なの?」
『ありがと、気にしてくれて。でも大丈夫。二人こそ、おじゅけんせんそー頑張ってね』
その言葉で現実を思い出し、僕とメリーは謀らずも同時にため息が出たのはご愛敬だ。
セラはそんな様子にクスクスと笑いを漏らしながら、もう一歩、僕らから距離を取る。
『ワガママ言ってゴメンなさい。けど、ちゃんとお礼がしたいの。だからお兄ちゃん。地元に帰って落ち着いたら、あの場所に来て』
何処? と言うほど鈍くはない。
僕が頷くと、セラは嬉しそうに両手を広げた。
『じゃあ、一度お別れね。ありがとう。お兄ちゃん、お姉ちゃん。――〝おはよう! 起きる時間だよ!〟』
イタズラが成功したように舌を出すセラ。その瞬間、パチンという音を立てて、彼女の傍らに何かが降りたった。
豚みたいな体躯をした半分黒で、半分白の身体。それは、いつかに僕が見て、導かれるようについていった不思議な獣で。
「――あっ」
言葉など発する暇もなく。僕の視界はホワイトアウトした。
※
眠りを妨げるような電子音が耳に響く。枕元にあった備え付けのアラームが起動しているのが辛うじてわかり、僕は手を伸ばし、その役目を終わらせた。
ゆっくりと目を開ければ、見慣れぬ天井が目に入る。
間違いなく、昨日泊まったホテルの一室。
そして……。
「なんてこった」
慌てて確認したスマホは壊れたまま。仕方ないから部屋のテレビを点けると、驚くべき事に指し示す日付は受験の初日。
これが意味するのは……。
その瞬間、僕は筆舌に尽くしがたい空虚感と喪失感を味わっていた。
「……夢?」
壮大すぎるだろ。そんな消え入りそうな言葉に反応する人物など、どこにもいない。
そのかわりに、コンコンコン。と、軽快なノックの音が部屋に響いて、僕は思わず身体を飛び上がらせた。
心臓がいやに高鳴っている。
あり得ない。けど、そうであって欲しい。そんな気分のまま僕はゆっくりと扉を開けた。
鼻をくすぐるのは、ハチミツを思わせる甘い香り。
そこには、道を歩けば十人のうち十人は振り返るのではないか。そんな印象を受ける美人さんが立っていた。
「……私、メリーさん。今、貴方の目の前にいるの。〝夢は書物である〟って今まさに実感してるわ。ちょっとした短編を読み終えた気分よ」
「ウンベルト・エーコ。『薔薇の名前』かな? 確かに、夢の中に引き込まれたって感じではある。書物っていうには、ばかにリアルだったけどね」
肩を竦めながら僕がそう返せば、目の前にいた女の子。メリーは確かにね。とでも言うように頷く。その瞬間、僕は何故か、身体の奥へ暖かさが広がっていくのを感じていた。
夢か現か。それは分からない。夢は集合無意識的な何かで繋がっている。だなんて話を聞くけど、少なくとも今はいいだろう。
得難い不思議な体験だった。そりゃあこんな体質だから、奇妙な出来事には慣れているけども。それでも、誰かと解決に奔走したのは始めてで。そんな相手が夢の中だけの存在だったら。そう考えたら……少し寂しく思っていたのだ。
「ジブリ映画の台詞が叫びたくなるよ」
「夢だけどってやつ? 確かにピッタリね。……でも、よかったわ。あれが本当にただの夢だったら、何だか惜しいもの」
「まぁ、夢か異次元かなんて証明する手段もないけどね。でも何はともあれ、……また会えてよかった」
再会を喜びつつ。けどそこで会話が途切れて、僕らはドアの前で沈黙する。
こういう時、気の効いた台詞でも言えたらいいのにと思う。きっと向こうも同じ事を考えているに違いない。
「……低予算な外国映画なら、ここで抱き締め合って熱烈なキスを交わして、そのままベッドインなんでしょうけど、流石にそれはご遠慮願うわ」
「……朝から凄まじいジョーク止めてくれませんかねぇ」
だからこんな風に自爆する。本人が恥ずかしくなるジョークとはいかがなものか。結果的に僕の緊張は解れたけども。
何とも言えず苦笑いが漏れる。すると、メリーはそっと僕の方へ手を伸ばしてきた。
「そうそう、ちょっと頬っぺたつねらせてもらっていいかしら? 夢じゃないかの確認と、今恥をかいた分と、あの時貴方におちょくられた仕返しに」
「引っ張られるの僕なんかい。……仕返し?」
最後だけ心当たりがなくて目を白黒させていると、メリーは忘れたの? と肩を竦め。
「ドヤ顔よ。私は近年稀に見るほどイラッときて。それでいて、何だか救われたの。世界は狭いようで広い。私と似たような〝人間〟もいるんだわ……なんて、ね」
そう言ってメリーは、見る者を虜にしそうな可愛らしいウインクをして。わりと容赦なく僕の頬を捻りあげる。
痛いのは当たり前だけど、それ以上に彼女の指はビックリするくらい柔らかかった事を、ここに追記しておく。
※
以上が、僕らが体験した夢物語。
ざっくり説明すれば、同じ夢を見てそこで小さな冒険した。なんてものになってしまうのだが、現実なんてそんなもの。
ハラハラドキドキし過ぎるイベントを一介の受験生にやらせるなという話である。
ただ、何も得なかった訳ではない。
一応、その後起きた話を紹介しよう。
僕らの受験は、他にそれといった障害もなく、第二希望、第一希望、ダメ元の記念。全てが無事に終了した。
学部は違えど、メリーと第一希望の大学が全く同じだった事にはお互い変な笑いが出たけども、その甲斐あってか、一番集中できたと思う。
滞在期間は四日。詰まるところ残る一日は受験お疲れ様の意味を兼ねた休日だったのだが、そこは決戦の地で出会った戦友と、東京観光と洒落こんだ。他の三日でも朝食と夕食はご一緒したメリーだったのだが、話して関われば、ありえない位に馬が合ったのには素直に驚いた。
互いの霊感と特異体質についてから始まり、過去に体験したオカルト的なエピソード。感銘を受けた本や言葉など。
僕らはまるで十年来の友人のような楽しい一時を過ごせたと思う。メリーはわからないけど、少なくとも僕はそうだった。
親近感を覚える要素が多いからか。自分が視てきた世界を共有できる喜びからか。
「柄にもなく、舞い上がっている私がいるわ」
何てメリーの言葉が少しくすぐったかった。
故に、忘れていた。僕らが成した事の、本当の意味を。
地元に帰る朝。互いの連絡先を交換し、ホテルの食堂で一緒に朝食を取っていた時、僕らはそこではじめて、警察の人が出入りしているのを目撃した。
ざわつくホテル内。不安げな顔をする他の客を遠巻きに見ながら、メリーは朝食のマッシュドパンプキンを口にしながら「終わったのね……」と、小さく呟いた。
「終わった?」
「……辰、思い出して。私達は、セラちゃんのお父さんを成仏させた。今更だけど彼、死んでるのよ。ならその死体は……何処にあったのかしら? 死因は何だったのかしら?」
ヒタリ。と、冷たい足音が迫る錯覚を感じた。
ざわめきは、更に大きくなっていく。
「ホテル、『ムーンサイド』……蓋を空けてみれば、私達の泊まる場所すら、名前が偽られていた。何処から夢だったかなんて私達は覚えていない。なら、こうも考えられない? ホテル内で私達を動かす必要はなかった。極論最後の社長室があれば、他にどうでもよかった筈なのに」
「それは、セラのお父さんが……ここが職場で」
「彼は、ウッドピアに囚われていたのよ? 格好だってどうでもよかった筈。なのにホテルを歩き回らせた。受付に死体。エレベーターで助けを求める声。嫌な妄想を膨らませてみましょう。……何が視えるかしら?」
瞳の青紫が、妖しく光る。綺麗で、吸い込まれそうで。故に深淵を覗いた時、僕は一つの想像にたどり着いた。
セラは言っていた。
やることがある。そして……『お礼がしたいの』と。
※
後に知った話だが、そのホテルのオーナーと、何人かの従業員が、あの日任意同行を求められていたそうだ。
理由は、職員一人の自首。内容は「事故で人を殺してしまった」というもの。
死体は大胆にもホテル受付裏のスタッフルームに隠されていたらしい。
原因は典型的な職場での苛め。監視カメラには、エレベーター内で複数人に暴行を受ける内藤さんの映像が残されていたらしく、驚くほどのスピード解決だったようだ。
因みに……。逮捕された男達は自供の際、ひっきりなしに怯え、何かを怖がるような様子を見せていたのだとか。
「夢で女の子がいつも枕元に!」
「動物が毎晩、腹の辺りに歯を立ててくる!」
「ああ、金色の目が! 目が! 今もそこに!」
という具合の支離滅裂さに、取調室の職員も、頭を抱えたらしいが、結局。精神錯乱のフリという形で決着はついたらしい。
当然と言えば当然だ。他の人には見えなくとも、そこにいた何かは、確かに本物だったのである。