ドッペルゲンガーが生まれる日
『普通怪異や幽霊の類いは、よほどの事情がない限り、人は襲わない。逆にそれが寄ってくるということは、怪異に気に入られる行動をしてしまったか、元々怪異の方が、その人物に並々ならぬ執着を持っているか……そのどちらかに絞られる』
夜。ベッドに横になった枕元に立ちながら、メリーはまるで、幼子に子守唄でも聞かせるかのように、静かに独白していた。
『裏ディズニーを思い出して。私達が探ろうとしたから、あの一夜限りの夢の国は作られた。可能性が集まる場所。過去や未来。平行世界なんてものも関わっていた。〝何処かで君達が歩んだ場所〟……そこには、もしかしたら幼少に何らかの偶然で今より早く出会い。不運にも命を落とした私達がいた』
ホーンテッドマンションにいた、幼児の僕らを思い出す。大学生になるより早く? と、思ったけど、僕やメリーも小さい頃に一度ディズニーランドに連れていってもらっている。
片や霊感が目覚めたばかりの時に。もう片方はスプラッシュマウンテンにトラウマを植え付けられた時だ。仮に平行世界なるものが本当に存在したとして。
そこで僕とメリーが出会うという世界があったのかもしれない。もしかしたら、出会った小さな二人は裏ディズニーに迷い込み、そのまま命を落とした……とか。有り得ない話ではないだろう。
「過去や未来から来た。も、結構突飛だけど……平行世界か。もはやファンタジーだね」
『でも、否定しきれない非日常は味わってきたでしょ? 裏ディズニーだけではないわ。D校舎の事件、覚えてる?』
「……バイアクヘー。ああ、そうか。彼処にもそんな形で存在してたのか」
『そう。かのショゴスを呼び込んだ中道先生のように、偽私や偽貴方もまた、何かにすがって、自分とは別の世界を望んだ。実体験しているんだもの。何かを成すための手段に取り入れても不思議ではないわ』
偽の貴方はどちらかといえば、偽の私を止めに来たみたいだけど。そう付け足しながら、メリーはちょこんと掛け布団ごしに僕のお腹の上へ正座した。
重みはない。ただ触れあっているかも、今はわからなかった。ただ、うっすらと射す月明かりで、その行動が確認できただけ。
「何故にそこへ座るのさ」
『金縛りごっこ?』
「確かに、君の意味不明さに痺れて動けなくなりそうだ」
『本気で取り憑いてやろうかしら。仮に死んでも、ずっと……、ずうっと、貴方の後ろにいるの』
「……正気かい?」
ジョークの飛ばし合いの中に隠しきれぬ本心が垣間見えて、無意識に声のトーンが下がる。そのまま沈黙が部屋を支配し、何の反応もない事が怖くなり、僕はたまらずベッドから上体を起こせば、メリーはただ真っ直ぐに、僕を見つめていた。
「メリー……僕は」
『……怒らないで。呆れないで聞いて』
言葉を遮るようにして、メリーは言葉を紡ぐ。
『私はね。極端な話になるけど、貴方の傍にいられれば……。一緒にフラフラしたり。他愛ない話をしたりしていれたら、それでいいの。貴方と死んで、幽霊になろうが。ここじゃない異界に閉じ込められようが……かまわないの』
「――。一部は同意見だよ。けど……だからってこのままは嫌だよ。君がいつまでも幽霊でいられる保証はない。肉体が死んだら……君は消えてしまうかも……」
『そう、その通り。だから、こうして貴方と抗っている……でも』
それでも、怖いの。
メリーの目から光が消えて。気がつけば、視界の端にふわりとウェーブのかかった髪が見えた。分かるのはそれだけ。正面からメリーに抱きすくめられていると気づくのに、数秒を有した。
『……わかる?』
「えっと、……何が?」
いつになく大胆な彼女の行動に、僕がどぎまぎしながら問いかければ、メリーは少しだけ身体を震わせながら、今、日付変わったわよね。と、呟いて。
『実はね。幽霊になった翌朝まで……匂い……嗅覚が働いていたの。カステラの匂いだけ感じて、悔しかった』
「嗅覚って幽霊に……?」
僕が少しだけ笑いながら言えば、メリーは力なく頷いた。
『違和感を感じたのは、更に翌日。貴方に近づいた時。ララちゃんの傍に寄った時……。辰の落ち着く香りも。ララちゃんのミルクみたいな匂いも……わからなくなってた』
思わずくっついていたメリーを引き離す。暗い部屋のスタンドライトを付けて、彼女をしっかりと見据えて……。僕は血の気が引く気配を確かに感じた。
メリーの身体を通して、部屋の向こう側が見えるのだ。
「そん、な……」
どうして?
いつから?
いや、それ以前に……この空気を掴むような、質感の無さは何だ? 暖かさはわからなくても、幽霊独特の冷たさや、触れている感覚は何となくわかっていたというのに、今は……。
するとメリーは、僕の手を引き、そっと目元に持ってくる。指が触れたと認識した時、メリーの顔には少しの諦感と、絶望が滲んでいた。
『何にも……わからないの。他の誰にも気付かれなくても、辰だけは感じられて、感じてもらえてたのに……。もう、何処からが私で、何処からが他のものか……』
「――っ!」
いつかのように、メリーを引き寄せ、目を塞ぐ。干渉するイメージ。いつもは無意識に出来る幽霊との触れ合いを、僕は渇望するように彼女を掻き抱いた。だが、そこにはわずかな感触も得られなかった。
「姿と一緒に……触覚、が?」
『ええ。もしかしたら、日に日に薄れてたのかも。ついでに、この身体になってから、幻視を全く視なくなったわ。初日から、剥奪されていたのかしらね?』
ある意味で私の第六感だし。そう言ってメリーは項垂れる。
『裏ディズニーの骸骨を思い出して。私達に並々ならぬ執着を持っていて。大きさは同じようなのばかり。あれってもしかしたら、平行世界の私達……その集まりなのかも』
つまり、どの世界でも、私達は高い確率で死んでしまうのだ。暗にそう告げているように見えた。
『考えなきゃいけないのに……。幽霊でも貴方となら平気って思ってたのに……。今、怖くて怖くてたまらないの。明日は? 明後日は? 次は何を奪われちゃうの?』
私が……何をしたの?
それは、嘆きであり、静かな力を持った叫びだった。
僕はそれに対して、掛ける言葉が見つからない。彼女の恐怖を、僕はしっかりとわかってあげられない。それが、悔しくて堪らなかった。
何が出来る? どうしてあげられる? 纏まらぬ考えのまま、僕は……。
『あ……』
メリーが、小さく驚いたような声を上げる。
しっかりと、感じなくてもわかるように、僕は彼女の目の前にそれを持ってくる。
怪奇と対峙する時のおまじない。
指と指を絡ませるようにして、しっかりと手を繋ぐ。
それは、僕らが重ねた絆でもあり、勇気と恐怖。そして安心を分かち合う手段だった。
「……今日から。ずっとこうしてよう。君が怖くなくなるまで。偽メリーを追い払うその日まで」
『…………』
潤んだ目が、繋いだ手を見つめていた。感触がなくても、メリーが指に力を入れたのが見えて、僕もまた、優しく握り返す。
『…………ずっと、こうしてくれるの?』
「うん」
『……私、これからどんどん薄れていくわよ?』
「それでも。……逆にこう考えようよ。君の肉体が快復に向かってるから、幽体離脱した君がこうして弱くなっている」
『根拠がないわ』
「信じるくらいバチは当たらないさ」
僕が笑えば、メリーは少しだけ拗ねるように口を尖らせた。
『……ダメだわ。弱いとこばかり、見せちゃう』
「今くらいはいいさ。狙われてるの君だし。常に強くかっこよくだなんて、疲れるだろう?」
僕の言葉に、メリーは『そうなんだけどねぇ』と、曖昧な苦笑いを浮かべつつ。もう一度、僕を見る。
『…………離れ、ないで』
「離さない。約束する」
ゆっくり胸元にすがり付いてくるメリーを受け止めて。
僕らはもう一度、互いに見えるように手を握りあった。
※
次の日。メリーの耳が聞こえなくなった。
その日から僕らは一冊のノートを買い、筆談を交えて会話するようになった。
『こう言うのは複雑だけど、少しだけ楽しいわ』
メリーはそう言いながら、まるで宝物のようにノートを撫でていた。
また次の日。メリーの目が見えなくなった。
不安げに僕を呼ぶ声が、耳から離れない。
もはやメリーは議論すら出来なくなった。彼女の手を握り続けたまま、僕は彼女が僕を呼ぶ度に返事をする。それすら届かないけど、答えずにはいられなかった。
日が沈む事に、メリーの口数は少なくなっていく。
僕はその傍で、活動記録を見返し、推理の皮を被った妄想を膨らませる。偽メリーを打ち払う武器を、一つ。また一つ。
言葉一つで吹き飛ばされそうなそれらが、僕に用意出来る精一杯の武装だった。
『いるのよね? 辰』
「ああ、いるよ」
『……うん、トイレとかじゃなきゃ、いるわよね。あのね。お願い。眠る時は……いつもみたいに。幻視を共有するみたいに……』
「ちゃんと手も繋いでるよ~。了解。……アレ、実は恥ずかしいし、結構頑張って理性を保ってるんだよ?」
聞こえてないから、ついそんな言葉を口にする。
こんな形とはいえ、メリーと話が全く噛み合わない日が来るなんて想像すらしなかった。
『ねぇ、今はお外? それともお部屋? 昼なの? 夜なの? ああ、こんな質問攻めじゃ、困るわよね……少しだけ黙るわ』
「お部屋で、夕方だよ。困らないよ。寧ろ喋り続けて欲しいな。……君が口を閉ざしてると、何だか不安になる」
彼女の感覚が消える度に、僕の心が軋みを上げる。少しずつ。彼女とやれる事が減っていくのが悲しくて、僕は彼女の手を強く握ってしまう。
ものを話さず、ただ佇む彼女は、本当にお人形のようだった。
幽霊は、眠らない。
幽霊だから、立っているか、座っているか、浮いているかも分からない。
感覚はもう全てが消失した。見えない。聞こえない。感じない。
引っ張れば、羽のように重さを感じない。時々風に飛ばされないか心配になる。
それが……今のメリーだった。
「……何でもいいよ。話をしようよ」
返事はない。メリーと目が合わない。無理やり正面に来ても顔を合わせている気がしなかった。
少しだけ、迷う。今だけ……言えなかった言葉を口にするべきだろうか。
弱い心が、ムクリと鎌首をもたげる。マリオネットと化したメリーを見ながら、僕は穴に向かって秘密を暴露する気分になっていた。
素直になって。
ララが言ってた事を思い出す。こんなところで? と、自嘲する自分が、確かに僕の後ろにいた。だけど……。僕は今、何かを話さねば気が狂いそうだった。
「王様の耳は、ロバの耳。……そう、メリーの耳たぶって、殺人級に柔らかいんだ。……前に何かの拍子で腕枕した時、ふとそう思った」
意味もない言葉が溢れ出す。
普段のメリーには絶対に言えない話。これから言いたいこと。ほんの少しだけある密かな不満。感謝してること。そして、向き合った想い。この際全部言ってしまいたい衝動にかられていて。気がつけば、口が動いていた。
「……ねぇ、メリー。僕ね……」
君に伝えたい事があるんだ。
今と、これからの君に。




