裏エピローグ: 死の淵にて
ああ、私……死ぬんだ。
そう考えたとき、不思議と恐怖はなかった。
ただ思うことは、やっちゃったなー。と、思ったこと。
伝えるつもりはなかったのだ。キスなんてもっての他。だというのに、助けに来てくれた時に嬉しさが臨海点を越えすぎて。
敵わないと知っていても。限りなく詰みだと分かっていても必死で私を守ろうとする貴方を見ていたら……。気がついたら身体が動いていた。
立ちはだかり、確認したら、あくまで狙いは私だけだという。
不思議と嘘を言っていないのは確信できた。だって……。こんな言い方は変かもしれないが、他人の空似とは思えない。
都市伝説のメリーさんの本物か。
それとも何らかの怪奇なのか。その秘密を調べられないのが残念と言えば残念だ。
痛みがきた。身体が壊れていき、寒さがましていく。
彼の嘆く声が聞こえて。その瞬間、〝私〟の壊れたような笑い声が上がる。
どうしてかな。私には、その高笑いが歓喜のそれではなく、何処か悲哀に満ち満ちた、泣き叫ぶような色を帯びているように思えた。
「――だ! ――! ――れ!」
痛んでいた場所に、何かが当てられている。
私を繋ぎ止めようとする彼の呼び掛けが耳に入ってきた。返事をしてあげたい。でも私はその意志に反して、くぐもったような声と、痙攣することしか出来ることはなかった。
『約束だ。この占いの事は、誰にも話しちゃいけないよ。例えあんたの想い人にでもだ』
不意に、路地裏の母が言っていた事を思い出す。
そういえば、あれはどうなるんだろう? あの本物を名乗る私は、あっさり喋ってしまっていたけど……。仮に屁理屈かもしれないが、〝私もメリー〟だと宣言しているなら、占い師のタブーを破ったことになる。
死ぬより辛いことが降りかかる事になる筈だ。
そうなったら……。
どうなるんだろう? 私は彼が。辰が巻き込まれないことを願った。あるいは彼に不幸が訪れるだとか。その辺りが嫌だと思った。
では、彼女はどうなのか。
当然ながら、彼女に関する情報が少なすぎた。
そもそもどうして私を殺したいのだろう。私が都市伝説を語るから? 私が……メリーだから? それが繋がる意味は……。
ぼんやりと朧気だった視界が、ゆっくりと、闇に落ちていく。
その刹那、背中にきた痛みとは別に、刺すような痛みが頭に走る。
頭痛という概念に人格や肉体があるならば、ふざけんなと罵りながらビンタしたくなるような感覚。
心当たりがありすぎるそれは、幻視だった。
誰かの視界から、私は外を見ていた。
朝日が差し込む見覚えがない部屋にて、その人は、じっと姿見を見ていた。
見覚えがありすぎる服装をした青年が、そこには映っている。
長すぎず短すぎない髪には、ほんの少しだけアッシュブラウンのメッシュが入れられていて、それは陽光がよく取り込まれた部屋で、珍しく自己主張している。
整った顔立ちは、真剣に鏡ごしに自分を見つめていて、個人的に一番色気を感じる素敵な手は、今は鏡に当てられている。
辰だ。辰と思われる人物の視界を、私は共有していた。
『……間違い、ないよな』
その人は目元に指を添えながら、静かに呟いた。
そこで私は、初めて違和感に気がつくことになる。
辰と思われる。それはそのままの意味だった。
鏡にいる彼の瞳は……間違いなく〝青紫色〟だったのだ。
『辰? どうしたの?』
視界が動く。
鏡から背後に。そこには……。大きめのYシャツ一枚だけを着た、男の妄想を具現化したかのような格好をした女の子がいた。
雪のように白い肌。私みたいな血からくるものではないそれは健康的で血色もいい。裾から覗く完璧な脚線美も手伝って、匂い立つような色気をかもしだしている。……なんだろう。同棲中の彼女って感じ。
肩より少しある長い髪は艶やかな黒。枝毛一つない、しっかり手入れされたストレートヘアは、癖っ毛な私には凄く羨ましかったのを覚えている。
彼の幼馴染み。竜崎綾だ。
『ね、どうしたの?』
『なんでもないよぅ』
ビックリするくらい優しい声と優しい手付きで、彼は綾の頭を撫で、綺麗な髪を弄ぶ。
綾は一瞬だけ『ムッ誤魔化された』と咎めるような顔をしていたが手が一往復する頃には、にへー。とだらしない顔になる。
チョロすぎて心配になるけど、素直に可愛らしかった。
『先にリビング行ってて』彼は綾にそう言って、部屋に一人になると、おもむろに自分の机と思われる場所に近づいて。その引き出しの三番目を開けた。
大学の資料やファイルが入っているそこの中身を全部取り出して、彼の手は空になった引き出しの底に手をかける。
二重底にした隠し収納スペースには、私も見覚えがある、古びた筆入れを思わせる木の箱があった。
あれの中身は……。
『……こんな日が来るとは思わなかった』
憂いを含んだ呟きを漏らしながら、彼はゆっくりと蓋を開け、中に入っていたものを取り出して、丁寧に御札を剥がしていく。
黒い、獣の一部分がミイラ化したような外見。あれは……。『猿の手』
彼の部屋にひっそりと仕舞われている、いつかの怪奇譚で得た、友人の忘れ形見だ。
『……魔子、出てきてくれ』
少しだけ迷ってから、彼は猿の手に指を添えながらそう呟く。するとそれは小さく震えて。
『……呼んだかい? シン・タキザワ』
彼の前に、悪魔が顕現した。
『聞きたいことと、頼みがある』
『……君は特別だよ。出血大サービスで相談は無料。頼みは……ものにもよるけど、安くしておくよ?』
机に狛犬のようにお座りしながら、魔子がケタケタと笑う。見た目は不気味な怪物だ。綾が見たら気絶するかもしれない。
それを臆せず正面から見据えながら、辰は頷いて……。
『あのさ。突飛すぎて自分でも笑える話なんだけど……』
いいところで、視界は暗転した。
次に切り替わった時、今度は俯瞰的に私は世界を見ていた。
薄暗い路上。
倒れた私に震えながら止血を施す辰と、その目の前で血染めの包丁を手に、涙を流しながら狂ったように笑う〝私〟がいた。
幽体離脱みたい。何となくそう思った。
臨死体験で視る幻視は、どうやら『都市伝説のメリーさん』らしい。
自分を殺す怪奇を視るなんて、酷いブラックジョークである。
「じゃあ……さっきの辰は」
多分、未来の彼ね。
何となくだがそう思った。
どうして綾と同棲紛いのことをしているのかは知らないけれど。きっと支えられて、幸せに生きるんだろう。私が、死んだ後も……。
「……あ、れ」
幻視の中で、いつの間にか私は涙を流していた。
どうしてか、すぐには分からなくて、暫く唖然とする。でも……。胸が締め付けられるくらいに痛くて苦しくて。そこで私は、初めて死に恐怖した。
もうすぐ私は、辰に会えなくなる。声を聞くことも、隣にいることも。
彼はきっと、私を覚えていてくれる。けど、時間は残酷だ。いずれ少しずつ、彼の中で私を占めるものが少なくなっていく。
それが私は、何よりも嫌だった。
「や……だ……」
癇癪を起こしたように駄々をこねた〝私〟をこれでは笑えない。いや、きっとこれは、私の本質なのだ。
こんなにもドロドロした醜い独占欲が、私の奥には存在している。
「嫌だ……死にたく………ない。死にたくないよ……!」
嘆いた所でもう遅い。あの場で助けを呼ぶことを、〝私〟は許しはしないだろう。
きっとこれが……、終わり、で……。
『いいや、終わらせないさ。終わらせてたまるか』
背後で、聞き覚えのある声がする。私が慌ててそちらを振り返ると……。そこに、辰が立っていた。
「え? あれ? 何……で?」
戸惑う私を、辰……らしき人は懐かしさや切なさを含んだ儚げな笑みを浮かべてから、人差し指を口元に添え、「静かに」と、合図した。
『手は打った。ちゃんと未来を掴むために。大事な友達を止めるために。後はそう。君達が、あのドッペルゲンガーを撃ち破るだけ』
「ドッペル、ゲンガー?」
それって……確か……。
私が何かを言おうとしたその瞬間。世界が再び綻び始める。それは、幻視の終わりを意味していた。
『占いとは。予言ではない。ほぼ確定した運命というどうしようもないものもあるけど……それすら全てじゃない。最終的に大事なのは、選んだものをどんな形にするか』
青紫色の瞳を優しく揺らしながら、辰に似た人は微笑んで『路地裏の母が言ったことだよ』と、付け足した。
『負けるなよ、メリー。自分の運命なんかに』
大好きな彼と同じ声で。その人はそう言った。
※
幻視が終わり。気がつけば私は知らない天井を眺めていた。
薬品の匂いと、ピッピッピ……という、謎の機械音。
ここは……病院?
ゆっくりと辺りを見渡す。周りは白いカーテンで仕切られていて、目の前に大きめのベッド。そこに……私が酸素マスクや訳の分からぬ機械に繋がれて、寝かされていた。
私の前で、私が眠っていた。
『え? ……んん?』
そういえば、いつもより目線が高い。
どういうわけか身体も軽い。
思わず自分の手を見れば……何か透けていた。
『……OKメリー。落ち着きなさい。クールになるのよ』
試しにカーテンに手を触れる。
余裕ですり抜けた。
大声を上げてみる。多分病院だというのに誰も来ない。
結論。
『……いや、死にたくないとは思ったけど』
幽体離脱か。はたまた死の淵にいるか、既に死んだも同然の身体になったのか。
私は……どうやら幽霊になっているらしかった。




