エピローグ:忘れないで
「……っ、そんな訳ないだろう。君こそ誰だよ」
一瞬面食らうものの、僕はそこにいるメリーに似すぎている誰かに向けて、努めて冷静に言い放った。
少し気を抜けば、メリーでないと判断するのが困難に成る程、そこにいる誰かはメリーに生き写しだった。
だが、少なくとも判断材料は結構存在した。
一つは単純に服装。
メリーが今日着ていた服と、目の前にいる……便宜上、偽物のメリーだから偽メリーとしよう。彼女の服がことなっていること。
二つは雰囲気。
メリーはこんなにも、殺意を抱くような眼差しを誰かに向けたことはない。氷のように冷たい目。これが彼女だと、僕は認めたくないし、そんな筈はないと確信できる。
そして、最後。
僕は偽メリーが手に持つ、無骨な出刃包丁を睨み付けた。
「仮に。あり得ないけど、僕が今抱き締めてる方が偽物だとして。本物のメリーなら、それを刺し殺そうとする筈がない」
『これは……自衛よ』
「自衛なら、こんな階段の踊場まで追いかける必要はないさ。下手したら通報だ。僕の相棒が、そんな浅はかなマネするもんか。君は明らかな殺意を持ってここに立っているんだ」
『……』
偽メリーの目が細く、鋭さを増す。僕はそれを負けじと睨み返しながら、決定的な証拠を突き付けた。
「じゃあ、聞いてみようか。メリーは今日、僕に昼食を作ってくれたんだ。それは何だった?」
偽メリーは沈黙。腕の中で戸惑いつつも僕を見上げてくる本物のメリーに、答えを促した。
「ナポリタンよ。グリーンサラダに卵スープ。もう少しくらい、手の込んだのを作りたかったけど、貴方の冷蔵庫、何も入っていないんだもの」
「充分美味しかったし、有り得ないくらい役得だよ」
僕がそう言って頷けば、メリーはようやく笑顔を見せてくれた。
少しだけ心臓が高鳴るが、僕はそれを抑えて再び偽メリーを見る。彼女は……。驚くべきことに、泣いていた。
『酷いわ……貴方にだけは、メリーであることを否定して欲しくなかったのに……〝私だって〟……メリーなのに……!』
顔を伏せる偽メリー。
ふるふると身体を震わせながら俯いた彼女は包丁を持ったまま、何度も顔を拭うような仕草をする。
『……よ』
「え?」
『……イ。……イ。……ルイよ……!』
小さく譫言のような声が階段に木霊していく。それはやがて声量を増していき……最後は癇癪玉を炸裂させたかのような、呪詛の嵐に変貌した。
『ズルイ……! ズルイ。ズルイズルイ!ズルイよ! どうして来たの!? もう少しだったのに! ようやく見つけたのに! やっと、やっと……貴方が……! 辰、貴方さえ来なければぁ……!』
「っ、何の話を……!」
『ああ! イヤ、こんなこと言いたくないのに! もう、嫌だったのに! 止めて! 私を見ないで! やだよ! どうして……どうしてぇ……!』
ヒステリックに地団駄を踏みながら、目に涙をいっぱい貯めて、偽メリーは駄々をこねる子どものように喚き散らした。
偽物と分かっても、姿形は僕がよく知る相棒のもの。普段のメリーからはあまりにもかけ離れたその姿に僕は言葉を完全に失うと共に、混乱していた。
アレは……一体何だ? 頭を支配しているのは、そんな疑問ばかりだった。
「本物の、メリーさん。彼女はそう私に名乗ったわ」
「本、物の?」
それは、都市伝説の。という意味だろうか?
ならば尚更おかしい話だ。『メリーさんの電話』に出てくる人形が実在する。これについては今更驚きはしない。だが、この都市伝説の模倣は、あくまで相棒のメリーが勝手に始めたもの。だというのに目の前で本物だと名乗る彼女が、どうしてこんなにも、僕の相棒と瓜二つだというのか。
「君の幻視で……彼女を見たことは?」
「当時は夢って決めつけてたけど……今考えれば、予兆だったのね。私が彼女に刺し殺される幻視……。ついさっき、まさにそれが現実になろうとしてたわ」
いつかの大晦日にも起きた未来視みたいな事が起きていた。そういう事か。確かにそんなのを見て、まさか自分のこととは思わないだろう。
今だ虚ろに騒ぐ偽メリーを見ながら、僕は相棒の手の甲を人差し指で軽く押す。「逃げよう」のサイン。それに対してメリーは無言で頷いた。
少なくとも、正気じゃない。それは明らかだ。
不気味だし放置するのは避けたいが、ここにいたらいずれ騒ぎに……。
『ああ、もういいや。こんな日もあるって学べたわ。なら……もういい』
ユラリと、偽メリーが階段を一段降りてくる。
包丁の柄を彼女が握り込むのが見えた。
ここで……また襲いかかってくる気なのだ。
「……君の目的は何だ? どうしてメリーを狙う?」
僕の問いに、偽メリーは壊れたような笑みを浮かべながら、ゴキリと首の骨を鳴らし。此方に包丁の切っ先を向けた。
『邪魔なのよ。ソイツ……! ソイツがいる限り、私は先に進めないわ』
その時だ。僕らの目の前で、偽メリーの姿が急速に薄れていく。
肉体が半透明になり、やがて景色に静かに溶け込むように。服も、手に持つ包丁さえも、まるでこの世の理から外れていくように消えていく。軈て、完全にその姿が見えなくなった瞬間、静かな毒の声だけが、僕らの耳に入ってきた。
『私、メリーさん。今から殺すね』
静かな死刑宣告。
だが、それに僕以上に怯えた反応を見せたのは、傍らにいたメリーだった。
「――っ、走れ! メリー!」
四の五の考えている暇はない。今は逃げる! 姿は見えないが、殺意はありありと此方に伝わってきていた。
立ち止まれば……終わりだ。
階段をかけ降り、自動ドアからアパートの外へ。
人通りだ。人の目があるとこに……。
そう決めた瞬間、背後から興奮したような息遣いが微かに聞こえた。
「こ、のぉお!」
がむしゃらに拳を振るう。手応えはない。
離れた? それとも、近くに? それすらわからなかった。
心臓が有り得ないくらいの速度で拍動する。
落ち着け。落ち着け。と何度も唱えながら、僕は感覚を研ぎ澄ませた。
だが……ダメ。僕は奴の気配すら、感知することがかなわなかったのだ。
「メリー! アイツは!? 今何処に……」
「――っ!? ダメ! 後ろよ!」
身体が一気に引っ張られ、たたらを踏む。
さっきまで自分がいた場所をみれば、その何もない所から、偽メリーの手が生えていた。
『……逃げないでよぉ』
「ぐ……!」
ねっとりした声が響く。一瞬だけ、偽メリーの顔だけが、虚空にフワリと浮遊して。僕とメリーの方を見て、ニタリと笑った。
『死ぬんだってばぁ。受け入れて?』
「――っ、誰が……!」
そんなの、認められるか!
歯を食い縛り、僕は再びメリーの手を引き、薄暗い路上を走る。こんな時に限って人通りが全くない。いや、あった所で何になるだろうか?
僕とメリーの走る音を追いかけるように、もう一人分の足音が背後から迫る。荒い息継ぎのリズム。まるで狼に追われているような錯覚に陥った。
「ぐ、ううぅぅう……」
思考が纏まらず、意味のない唸りが漏れる。
全身から汗が急速に吹き出し、身体が恐怖で凍てついていく。頭の中では考えないようにしている最悪の結論が弾き出されていた。
此方は捕捉が難しいのに、向こうからは見えている。
つまりそれは、いつでも向こうは僕らに不意打ちを下せるという事に他ならない。
だから、今逃げきっても明日。明日生き延びても明後日。
偽メリーが殺意を抱いている限り、僕らは逃げるしかなく。安息など与えられないのである。
逃げ場が何処にもない。そんな絶望的解答が下された時、まるで謀ったかのようなタイミングで、隣を走るメリーの横から白い手が伸びてきた。
「う……わぁああ!」
「きゃっ!」
急停止し、メリーを此方に引き寄せる。
逃がさないと言わんばかりに手が僕の腕を掴みとるが、僕はそれを強引に振り払った。
爪が肉に食い込んで、ジクジクとした痛みが走るが、どうでもいい。方向転換し、来た道を戻ろうとすれば、そこにはいつ回り込んだのか、偽メリーが包丁を振り上げ、立っていた。切っ先は、メリーに向けられている。
「う……おぉおお!」
最早がむしゃらに、僕は偽メリーにタックルをかます。
刺されるのも覚悟で腕を上段に構え、盾がわりにするが、幸いにして刃先は逸れ。腕が偽メリーと密着した。
しめた! とばかりに僕は反射的に手のひらを返し、相手の襟首を掴む。消える前に抑え込めば、こっちのもの……。
「……あ、れ?」
そう思った矢先だ。僕は倒れ込む勢いが殺せないまま、膝を地面に強打する。
「いっ……だっ!」
頭の中で火花がちらついた。そのまま押し倒す。そう思ったのに、偽メリーは、再び姿を消していた。
どういうからくりか、奴は僕の手から抜け出してみせたのだ。
幽霊を掴み損ねたのも、触れてビックリされなかったのも初めての事だった。
「く……そ……」
メリーの背後が、再び揺らめいている。次は、彼処か……!
歯を食い縛り、膝を無理矢理動かす。拳で地面を思いっきり殴り付け、軋みを上げる身体を鼓舞して立ち上がる。そのままメリーを押し退け、僕は今度こそとばかりに揺らぎへ殴りかかり……。
『……無理なんだってばぁ』
そこであっさりと、僕の手は偽メリーに掴み取られ。追い討ちをかけるかのように痛む脚に鋭いトーキックが突き刺さった。
「が……!」
只でさえ膝から転んで傷ついていた部位にダメ押しをされ、僕は堪らずその場で地面に両手をつく。
滲む視界で黒いコンクリートが歪んでいた。脚がもう、使い物にならない。そんな弱気な感情が芽生えかけ、僕は再び拳を握る。
ダメだ。止まるな。止まれば間違いなく……死が……!
『頑張ったよ。辰。でもね。諦めて? これは運命……あら? ……ああ、そうよね。そうするわよね……流石は私だわ』
その言葉は、僕に向けられていない。視界に、見慣れた靴が入ってきた。これは……メリーの……!
「ダメだ……! 逃げろ……!」
僕を守るようにして立ち塞がる相棒に、祈るような気持ちで声を絞り出す。だが、メリーはその場から動こうとはしなかった。
「貴女の目的は、私の筈」
『ええ。そうよ。覚悟は決まった?』
「……そうね。どうあっても覆らない。それだけは分かったわ。……私だけなのよね?」
『その通りよ……! 私が辰を殺すわけないじゃない』
そう言いながら、メリーはあろうことか相手に背を向けて、僕の傍に屈み込んだ。彼女は……震えていた。
「辰。……あのね。……ああ、どうしよう。最期だし、いっぱい話したいことが……」
「やめて、くれ!」
僕が立ち上がろうとすれば、メリーはそれを手で遮った。
彼女の背中ごしに佇む偽メリーは、まるで感情を圧し殺したかのように僕らを見ている。
どう足掻いても、逃げられない。否定しようが押し返してくる事実に、僕は唇を噛み締めた。
「……せめて、話す時間くらいはくれないかしら?」
『嫌よ』
「……そんなに私が憎い?」
『憎いとか、そういうんじゃない。運命なの。占ってもらったでしょう?』
「私、誰にも話してないんだけど」
『知ってるわよ。私は貴女をよく知ってるし、分かるの。会ったことなくてもね』
僕が何も言えない前で、彼女達は淡々と会話を交わす。
ゆっくりと、偽メリーが包丁を振り上げた。
『〝貴女は成人を迎える前に死を受け入れる〟そうでしょう? ここが終着点。だから……だからさぁ! 死ぬの。死んでよぉ! 私の為にさぁああ!!』
泣き顔と憤怒の表情をない交ぜにした顔で、偽メリーは痙攣を始める。いつ包丁を振り下ろしてもおかしくない気迫に、僕の身体が咄嗟に反応しようとしたが、メリーはそれを上回る速度で僕の身体を押し出した。
尻餅をつく形になった僕の上に、メリーはそのまま馬乗りになり、がっしりとしがみつく。今迄にない、物凄い力だった。
「バ――何を……!」
「辰、辰! ごめんね! ごめん……! でも……もう私を庇わないで!」
カチカチと、恐怖で歯を打ち鳴らしながら、メリーはそう懇願した。
「貴方は助かるから……だから……!」
「ふざけ……!」
「私が死ぬのより、貴方が死ぬ方が嫌なのよ!」
「そんなの……んぐっ!?」
僕だってそうだよ! もがき、彼女を振り払ってそう叫ぼうとした。だがそれは完全に中断された。
気がつけば、メリーの顔が視界を覆いつくしていて。
僕の唇に柔らかいものが押し当てられる。
言葉も。思考も。全てが封殺され、僕は何が起きているのかを理解するまで、暫く時間がかかった。見開いた目のすぐ前で、閉じられたメリーの瞼から銀色の滴が伝い落ちている。
その時、確かに僕の中で時間が止まっていた。
初めての女の子とのキスは……涙の味がした。
やがて、ゆっくりと、メリーの顔が離れていく。
頬を染め、青紫の潤んだ瞳で精一杯の笑顔を作りながら、メリーは小さく「やっちゃったわ」と呟いた。
「私を……忘れないで。辰、私ね。ずっとずぅっと……」
メリーの言葉が最後まで紡がれることはなかった。
次の瞬間。僕の目の前で叩きつけるような音と共に、凶刃がメリーの背中に振り下ろされた。




