ラストインターミッション
目を覚ますと、見慣れた部屋の家具配置。特に感じ入ることはなく周りを見渡してみると、窓からオレンジ色の夕陽が射し込んで、薄暗くなりつつある部屋に彩りを与えていた。
うたた寝していたら、夕方になってしまったのか。
何となく損した気分に浸っていると、ふと、膝元が軽くなり、更に取り出した覚えのないブランケットに身体を包まれていることに気がついた。
「……メリー?」
記憶を手繰り寄せる限り、確か彼女が僕の膝を枕にお昼寝を始めて。それを眺めているうちに僕も睡魔にやられて……。多分今に至るのだろう。
ブランケットを畳みながら、僕はもう一度相棒を呼ぶ。
返事はない。何となく、帰っちゃったかな? と、直感した。
恐らくは占い師の話題を出したからだろう。最近の彼女は踏み込めばやんわりと僕をかわし、まるで蒲公英の綿毛のようにふわふわと離れていく。
立ち上がり、そこでローテーブルに書き置きがあるのを見つけて、僕は予想が当たったことに苦笑いする。
『〝誤魔化される人よりも、誤魔化す人のほうが、数十倍苦しいの〟なんてね』
太宰治のパロディかな。そう呟いても、肯定の笑みを返す人はいない。メッセージの下には続けて、ホントはお泊まりしようと思ってたけど、やっぱり今日は帰ります。また大学で。
「貴方の相棒より……ね」
息を吐きながら、僕は頬を掻く。
問題はいまだ解決していない。
不思議な澱みは僕らの間に渦巻いていた。
休日にメリーが遊びに来て、今までの事を回想する。今までだって、似たようなことはたくさんあった筈なのに、どうしてこんなにも締め付けられるような切なさがあるのか、僕には分からなかった。
思い出を噛み締めるメリーが、今にも消えてしまいそうだったからか。それとも……。もしかしたら。
『おや、ご友人は帰られたので?』
「白々しいな。彼女が帰ったから、君も戻ってきたんだろうに」
推測している考えを思い浮かべようとした時、音もなく。そこに異形が現れた。
牛の頭にスーツ姿。件のコウトは、まるで執事か何かのように、僕の一歩後ろに佇んでいた。
『ご友人は感覚が鋭そうなので仕方ありません。貴方を占う為には、極力他の要素は排除したいのですよ』
「……路地裏の母も、似たようなことを言っていたね」
僕の指摘に、コウトは然りと頷きながら、何をするわけでもなくそこに佇んでいる。
ここにコウトが入り浸り始めて、はや一ヶ月。
僕はいまだに彼あるいは彼女との距離を測りかねていた。
コウトは基本的に僕の部屋にいる。
静かに佇んでいるか、たまに僕とメリーの活動記録を妙に楽しげに眺めたり、僕の蔵書を漁ったり。そればかりだった。
お気に入りらしいのはグリムウッドの『リプレイ』や東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』あとは米澤穂信の『ボトルネック』に小松左京の『地には平和を』
本読めるのか君。という突っ込みは、とうの昔に諦めている。
「占いはどう?」
『残念ながら、まだ』
「予兆みたいなのはないのかい?」
『ふざけんな死ね。と、誰でもいいから罵りたくなるような頭痛が来る筈なのですが……さっぱりです』
酷い占いの引き金もあったものだ。
でも、霊感のある……いわば霊能者なんて連中は、皆そんなデメリットを抱えているのかも。
そう思ったのは結構最近だ。
相棒もまた、幻視を視るときは頭痛に悩まされるし、僕だって幽霊に干渉するには色々リスクがある。路地裏の母は約束を取り付けてくるし、一番衝撃的だったのは、恐山にいた、本物のイタコさんだろう。後にも先にも、あんなに〝酷い〟降霊は初めて見た。
『本日は、外出はしないので?』
「なんとも中途半端な時間なんだよなぁ……夕飯の買い出しだけでもしようかな」
『では、是非オムライスをお願いしたい』
いけしゃあしゃあと要求してくる怪奇に、僕は思わず眉を潜める。実は共同生活をする事を了承した後、コイツもまた飯を食べるというのを知った時は、思わず頭を抱えた覚えがある。
つくづく今までの怪奇とは一線を引く存在だ。
因みに食べ方はもっと謎。なんとコウトは牛のマスクの上から物を食べるのだ。口元をじっと観察しても、瞬きの瞬間に箸やスプーンにあるものが消える。あの摩訶不思議さは詐欺と言っていい。
「毎回思うし、観察してるけど分からないな。君どうやって食べてるのさ」
『〝禁則事項です〟』
「……君が女性だとしたら、その台詞を吐くには絶望的に足りないものがあるんですが?」
『どこを見ていらっしゃる。全く……私が女性でしたらハイキックをされても文句は言えませんよ?』
「じゃあ、男性なの?」
『件です』
「……へぇー」
『……意地の悪い誘導尋問だ』
「君が語らないのが悪い」
追跡はかわされて、僕は降参するように両手を上げ、いそいそと外出の支度をする。今日はオム焼きそばだ。昼と夕食で麺類が連続するが、構うもんか。
コートを羽織り、行ってくるよ。と、コウトに事務的に伝えてから僕は玄関に向かい……。
不意に背後で、ガタン! と、固いもの同士がぶつかり合うかのような、凄まじい音を耳にした。
驚き、身体を跳ね上げながらも、僕は弾かれたように後ろを振り返る。
そこには……。両膝を床に付け、両手で頭を抑える、コウトの姿があった。
「コウ……ト?」
『あぐっ……く、おぉぉあ……!』
普段の飄々とした雰囲気からは想像もつかぬ、苦痛に満ちた声。僕が思わず駆け寄ろうとすれば、コウトは鋭い声で『来るな! 触るな!』と、切羽詰まったように制止した。
その場に縫い付けられたように僕が佇んでいると、コウトは相変わらず悶え、とうとうのたうち回り始めた。
一分。二分程経った頃だろうか。息を荒げながらコウトは動きを止め、やがて、ノロノロと起き上がった。
『……行くんだ』
小さくコウトは呟いた。僕が何処へ? と、首を傾げれば、コウトは二、三度深呼吸をする。まるで自分を落ち着けようとする姿。そして……。
『友人だ。君の友人が……殺される』
「…………は?」
思わず間の抜けた声が出る。言われた言葉を噛み砕き、冷静に繋ぎ合わせるものの、僕は全くもって実感が沸かない。
殺される? 誰が? 友人? それって……。
『……っ、急げ! 場所は友人が住むマンションの中。背後から刺される! 今からどれくらい後かは分からない。けど……! 間違いなく夕方だ!』
「え、いや、待ってくれ! 占い……」
『これだ! 多分ここ! 行かないと……、死ぬぞ! 君の大切な人が!』
「――っ!」
迷いは僅か。決断は早かった。
僕はそのまま玄関へ走り、部屋を飛び出した。
根拠はないが、謎の焦燥に襲われていた。
コウトの様子は、ただ事ではない。
言われたあれが果たして占いなのかは曖昧だが、それでも、その内容は僕を大いに狼狽させるには充分すぎた。
こんな時は、直感を信じるべし。長年怪奇と対峙した僕の中での不律な心掛けだった。
階段を何段か飛ばしながらかけ降りる。マンション前の駐輪場に辿り着くと、コートに入れていた自転車の鍵を引っ張りだし、素早く鍵を取り外した。
サドルに跨がったその瞬間、背後に気配がする。コウトだ。
『貴方が幽霊に触れられてよかった。こうして重さを与えずに、ついていくことが出来る』
「幽霊なら、飛べないの?」
『生憎と、そこまで万能ではないのです』
「そうです……かっ!」
さっきの慌てた口調はどうしたよ。とは伝えずに、僕は一気にペダルを踏み込んだ。身体が風に煽られる。幸運なことに、追い風が吹いていた。
ひたすら脚を動かし、ぐんぐんスピードを上げる自転車。
メリーの部屋へは、二駅分離れている。駅に着いた瞬間に電車に飛び乗るのがベストだが……。
『最寄り駅の電車発車時刻は、あと五分です』
「覚えてるの?」
『貴方が外出中は暇だったので。今ならば山手線を高速で唱えれます』
「酷い暇潰しだっ!」
カーブを曲がり、驚く歩行者に内心で謝罪しながら、僕は駅へ向けて爆走する。
駅に到着した。
同時に、電車が来る事を告げるアナウンスが鳴リ響く。本当に、ギリギリ。一秒二秒が惜しいと感じた僕は、着くなり自転車に鍵も掛けず、そのまま改札へ。
幸いにして、定期券の中に入っていた電子マネーの貯えは充分だった。
転がるようにしてホームに入り、階段を降りて逆側へ。心臓破りの急な階段を上りきれば、電車は既に停車していた。駆け込み乗車はご遠慮くださいというアナウンスが耳に入るが、今は……悪い人になろう。
電車に滑り込み、乗客の一部が驚いて僕を見たのと、背後でドアが空気の抜けた音を立てて閉まり始めたのは、殆ど同時だった。
危なかった……。内心で安堵していると、発車しようとした電車の壁から、コウトがすり抜けて来る。便利な身体だ。
「これで何もなかったら……」
『起こりますね。間違いなく。運命とすら言っていい』
席に座らず、ドアの近くに立ちながら小声でコウトに悪態をつけば、コウトは真剣な声で、先の発言が真実だと肯定した。
未だに信じられない。メリーが殺される? 一体誰に?
少なくとも覚えはないし、彼女がそこまでされる程の敵を作るとも思えないのに。
『因みに、彼女が部屋を出たのが、貴方が起きる二十分前です』
「メリーの部屋は駅から歩いて十分程。……途中寄り道していることを祈ろう」
『最悪の事態は想定してください。止血の仕方はご存じで?』
「……っ! やめろよ!」
思わず大きな声が出て、僕はハッと口を塞ぐ。周りの人が腫れ物か、あるいは可哀想なものを見るような顔でこっちを見ていた。
混乱しているとはいえ、頬が熱くなるのを感じる。僕が誤魔化すように窓から外の景色を見れば、血のように紅い空が目に入る。
無意識に、拳が強く握られた。
背中を這い上ってくるような、嫌な感じ。それと同時に、僕の中でさっきの占い。いや、予言と言ってもいいだろうか。それが何度もリフレインする。
メリーが、死ぬ?
僕の傍から、消える……。
それを想像し、思わず身震いした。
なんて……怖い。これ以上の恐怖が、果たしてあるだろうか?
※
メリーの部屋がある最寄り駅に着いた後、僕は流れるようにタクシーに乗る。運転手にお釣りはいらない何て、ドラマではお決まりの台詞を吐きながら、僕はメリーのマンションの前にて立往生していた。
「ここ、そういえばオートロック……」
『問題ありません』
僕が掠れた声を上げれば、コウトが素早く扉の向こう側へすり抜けて、解錠を行った。色々問題はあるかもしれないが、今は全部脇に投げ捨てた。
マンションの中に入る。その瞬間、僕は何かとてつもない不吉で嫌な気配を感じ取った。
何かが……いる?
「――っ! メリーィイ!!」
心に従い、叫ぶ。返事はない。考えたくもない想像が膨らみ、僕は堪らず彼女の部屋へ続く階段を上っていく。
ダンダンダン! と、靴が床を叩く音を響かせながら進んでいると、不意に目の前――階段の上から、見慣れた姿が〝落ちてきた〟
ファ!? と、叫ばなかったたのは奇跡だった。
驚愕は、彼女の歓喜の表情と、涙で濡れた瞳で塗り潰されてしまったから。
両腕を広げたのは、無意識だった。
泣かないで。
よかった。
そんな感情が渦巻いて。
飛び込んできた大切な人を、僕はしっかりと受け止めた。
「っと! あっぶな……!」
ふらつき、下にある踊り場の壁に背中をぶつけながら、僕は何とか息を整えようとする。身体が熱いのは、ずっと緊張していたからだろう。それがようやく解れて、僕は身を預けてくる相棒に、そっと問いかけた。
「メリー、……無事かい?」
彼女は、どうしてここに? とでも思っているだろうか。もしかしたら、彼女自身、殺される可能性を知っていた。も、有り得るかもしれない。
メリーは変わらず僕の胸に顔を埋めたまま、だが、確かに頷いた。
これが占い……いや、予言なのだろうか。とにかく間に合ってよかった。
僕はそんな心情を吐露しながら、ただ彼女をがむしゃらに抱き寄せた。メリーは、震えていた。
だから少しでも安心できるように。いつかの悪夢を打ち払った時のように、彼女にまた笑顔が戻るように。何よりも……。
僕自身が彼女を、離したくなかった。
「……助けに来たよ、メリー」
服が少しだけ、ヒヤリとする。泣いているのだろう。けど、それは悲哀からくるものではない。僕はそう確信していた。
背中に回されたメリーの腕がぎゅっと僕を抱き返す。
ありえないくらい柔らかくて。それでいて、クラクラするようなハチミツに似た甘くていい香り。
ああ、メリーがちゃんと、ここにいる。何処か遠くに感じていた彼女が、今はしっかり傍に……。そう考えたら、僕の全身が幸福感で包まれていく。その時だ。
『どう……して……』
何処か聞き覚えのある声が、階段の上からする。
その時僕は、今まさにメリーを殺そうとした存在がここにいたことを思い出し、慌てて顔を上げ……。
「……え?」
その場で、雷を受けたかのように固まってしまう。
そこには……。いや、そこにも信じがたいことに〝メリー〟がいたのだ。
訳が解らず目を白黒させていると、上にいたもう一人のメリーは、その青紫の瞳をみるみるうちに涙で潤ませて。
『辰……離れて! ソイツは偽物よ!』
間違いなく、メリーと同じ声でそう叫んだ。




