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渡リ烏のオカルト日誌  作者: 黒木京也
第六章 バレンタインに悪魔を殺せ
59/140

悪魔の顕現

 謎は大体解けた。


 なんて、某名探偵の少年的な独白を思い浮かべ、心と身体を落ち着かせていた矢先に、それは襲いかかってくる。


 繋がれていた手が離れる瞬間、私はそこで初めて、真上にいる異様な存在に気がついた。

 あまりにもショッキングかつ、残虐なヴィジョンを視せられたからか。あるいは、彼の腕の中にいる心地よさに、らしくもなく力が抜け、舞い上がっていたからか。ともかく、本来鋭敏な感覚をもつ私は、すぐさまそこにいる存在が、よくないものだと直感した。


「ま、待ちなさいっ!」


 転がるように車から降り、私は辰を引きずる存在を見て、再び戦慄した。

 視界に捉えたあまりにもらしい姿は、成る程。確かに怪物か悪魔と呼ぶに相応しい。

 だが……どういう事だろう。さっきのヴィジョンの内容から推測する限り、相沢くんとその友人は、このトンネル近くで襲われた。彼らからすれば、悪夢であり、悪魔との遭遇に等しかっただろう。だが……。それはあくまで、比喩的な話。本当の悪魔なんていない。私はそう結論付けていた……筈だった。


「どういう事? あんなの、視えなかった。あの化け物は……一体……!」


 予想だにしない存在の登場に、頭が混乱していく。いけない。これでは駄目だ。

 クールだ。クールになれ私。今優先すべきは……。


 素早く車のキーを引き抜き、ドアにロックを掛ける。

 これで盗難の心配は無いだろう。

 改めて、彼が消えた方角へ目を向ける。

 どうやら、当初目指していた祠がある木立の方へと引き込まれて行ったらしい。

 丁度夕方。日が落ちる前だったのは幸いだ。痕跡を追えるならば、見失うことはないだろう。


「……死んだら、後追いして説教してやるわ」


 私を守らんとして手を離してくれたのだとしても……これは決定事項。

 そう決意して、私は追跡を開始しようとして……。


「っ、……何?」


 行く手を阻むように浮遊する、それに気がついた。

 相沢君の屋敷から私達に憑いてきた、女幽霊。正確には辰に憑いているのであろうことは想像できるのだが、そこは今関係ない。問題は、感情らしきものを全く見せなかった彼女が、今明確に自分の意志で私をこの場に押し止めようとしていることだった。


「……私が視た幻視(ヴィジョン)、辰が掻き消してくれたから、行く末は分からないわ。けど、あの後何があったかは想像できる」


 私の弾き出した推測では、悪魔が〝友達と思っていた皆〟で、この女幽霊と相沢君は襲われた被害者である筈だった。

 助けてくれという意味。辰を呼び出した理由まで、私はある程度察していた。

 けど……その前提や想像は、たった今覆された。

 本当に正体不明の悪魔としか言いようがない存在の出現は、あまりにも衝撃的だった。

 悪魔とは、比喩ではなかったのか。そもそもあれは、どこから来たのか。相沢君やこの女幽霊との関係は?

 苦労して開拓した道の先に、地雷が埋まっていた。そんな気分だ。間違いなくまだ、何かがある。私が視たもの以外の、何かが……。


 再び正面を見据える。思えば、この女幽霊は最初からおかしかった。幽霊特有の念を欠片も感じられないのである。未練や想い。恨みもなく、幽霊が存在するわけがない。必ず何か要因がある筈だ。なのに、この女幽霊はまるでそれを何処かに置き忘れてきたかのように虚ろ。相棒もまた、それは感じ取っていたらしい。干渉や対話を試みても無反応。触られてビックリしない幽霊は初めてだったとか。


「……何なの? 貴女」


 意味はないと分かっていても話しかける。答えはない。まるで脱け殻みたい。そんな感想を頭に浮かべながら、私は慎重に歩を進める。

 女幽霊はただ私を見つめるのみ。

 迂回するようにそれをよけて、獣道にはいると、女幽霊はゆっくり憑いてきた。本当に、何がしたいんだ? この人。

 こっそり後方を伺えば、女幽霊は鉄仮面を貫いていた。

 何だか造り物めいているというか。無臭の悪意を感じるというか……。どうにも不気味だ。



 ※


 どれくらい引きずられていただろうか。気がつけば、僕は硬い地面の上で、仰向けに寝かされていた。

 青臭い草の香りに顔をしかめながら、ゆっくりと目をあければ、視界にはオレンジの空が広がっていた。


「……〝何だ〟ここ?」


 違和感を覚えながら、身体を起こせば、直感は正しかったと悟る事になった。

 

 具体的には、場所と、時間帯。そして、空気だ。


 僕は今、一面に広がる草原に寝そべっていた。見渡す限りの大草原。木など一本も生えてない。トンネルがあった山も、並走するようにあった海岸線も見当たらない。

 確かに夕方だったけど、ここまで鮮やかな色彩ではなかった筈。そもそも、引きずられていた体感距離からして、こんなにも開け切った場所に出るとは思えない。

 そして……。一番の問題は、僕自身故郷にこんな場所があるなんて、見たことも聞いたこともない事だった。


 パキン。と、何かが弾けるような音が背後からする。

 振り返ると、草原にはいささか不釣り合いな台座らしきものが安置されていて……。


「……っ!」


 そこに乗せられていたものに、僕は思わず戦慄する。

 まるで食後のデザートであるかのごとく、それは乳白色のボーンチャイナ製の皿に盛り付けられていた。

 うずらの卵より少し小さいか大きいか。そんなサイズの丸いものは、ヌメリを帯びた光沢と共に、僕と目を合わせた。


 人の……眼球だ。


 直後。バサリと何かが不時着するような音を立てて、それは台座に着地した。

 さっき見た、異形の姿。……悪魔だ。


『君が、シン・タキザワ?』

「……どうだろうね」


 そう答えたのは、半ば反射的だった。絶句して、身体が硬直していた僕は、改めて、目の前の存在を見つめながらも、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 これが……こいつが、悠が遭遇したという悪魔なのだろうか?

 すると悪魔はますます楽しげに、旗か帯のような尾をシマリスのようにくるりと回し、再びゆっくりと口を開いた。


『……肯定してくれたら、話は早いんだけど。ここに来てくれたなら、そうなんでしょ?』

「通りがかったんだよ」

『ウソだ。なら、なんであたしのデコイと一緒にいたんだって話だよ。あれが何か感じたってなら、間違いなく君がそうさ。話せないし、基本何もしないけど、会話が聞こえない訳じゃない』

「……デコイ?」


 一体何のことだ? そんな僕の表情を読み取ったのか、悪魔は興奮したようにクククッ。と、喉を鳴らした。


『あたしは何も、君の全部をとって喰おうとか、そういう考えな訳じゃない。さっきはまぁ、嬉しくて? 取り乱したけどさ』

「そんなの、僕にはわかりっこない」

『そっか。だけど、こうしてせっかく向かい合っているのよ? 話をしようとかは、思わんかね?』

「……質問しても?」


 そう僕が問えば、悪魔は肩を竦めながら、『本来は対価を貰うけど、君は特別』そう言って、どうぞ。と、僕に手を差し伸べるような仕草をする。

 その刹那、僕は必死に頭を回転させた。


 逃げ道。見当たらない。走った所で、多分捕まるのがオチ。

 対話は可能。何故か寛容にも、質問を許してくれている。

 ここは情報を集めるのが最適だ。

 何せわからないことが多すぎる。まずは……。


「君は……悪魔なの?」

『Yes』

「……悠を知っている?」

『勿論、Yes』

「君が、襲ったの?」

『え、あたしが? ああ、そうか。そんな話になってたっけ。No』

「……え?」


 今僕はきっと、ポカンとした顔になっているのだろう。悪魔は僕を楽しげに見ながら、片手で残された眼球を指で摘まみあげる。


『そもそも、ここはジャパンだよ? 悪魔なんているもんか。喚ばれでもしない限りは……ね』

「喚、ぶ?」

『質問終わり? 今なら大サービスで色々答えるよ?』

「ま、待って。待ってくれ」

『よかろう。三分待ってしんぜよう』


 意外と優しい。何て思いながら、僕は頭を整理する。

 どうなってるんだ?

 悠を知っていて。でも、襲った訳じゃない? 喚ばれでもしなければいないという事は、トンネルやその周辺には悪魔はいなかったという事で……。


「……君は、どうして僕を知っている? 何で僕をここに連れてきたんだ?」

『……シン・タキザワ。気づいたなら口に出してみなよ。あたしは君もユウも知っていて。喚ばれなければ来ない。なら……誰があたしを喚んだ? この状況。君が悪魔に拉致されている場面を、誰が造り出したと思う?』


 チロチロと、摘まんだ眼球を長い舌で舐め回しながら、悪魔は問い掛ける。

 語られた言葉を、順番に噛み砕く。誰が僕を呼んだか。ここまで事を運ぶ原因になったのは?

 いや、そもそも……この〝声を〟僕は何処かで聴いたのではないか。


「君は……ユウに喚ばれた? 僕に電話してきたのは……君?」

『Yesだよ。シン・タキザワ。ちょっとした、悪魔的なマジックで、あたしは君に連絡した。君にはここへ……〝悪魔が出た〟場所に来てもらわなければいけなかったの』


 だから電話で興味をひいた。君の事は、悠から聞いていたんだ。そう悪魔は宣った。


「何の……為に?」

『さっきも言ったでしょ? ……君に来てもらうためによ。さっきいた、余計な同行者は、あたし知らないし……直感かな。君と同時に呼べば、面倒くさくなりそうだったから置いてきたけど』

「……僕がここに来る意味は?」

「分からなくていいの。君は……そう、ここに来てくれたらそれでいい。後は……あたしがやる」


 チュルン。と、手にした眼球を飲み込んで、悪魔は僕を見る。赤い目が揺らいでいた。


『来てくれてありがとう。多分、もしかしたら霊感ある人間で、それでいて好奇心がある。ユウの中の君の人物像はそんな感じだった。蓋を開けてみたら大当たり。いい、燃料になりそうだわ。これで、ユウの願いを叶えられる』


 そして今度は、僕の心臓が揺らぐ番だった。息を飲む気配を鋭敏に感じ取ったのか。悪魔は意地の悪い笑みを浮かべた。


『あたしは弱い悪魔だからね。何かするにしても、やっぱりそれ相応の……エネルギーがいる。最後の願いと契約の対価に、ユウの目と片腕は……貰った。けど、あたしはある事情から弱り果てていてさ。ここから出るためには、ちょっとイケニエが必要な訳』


 台座から悪魔が飛び降りる。のそのそと、四足歩行で此方に近づきながら、悪魔はギトついた歯を剥き出しにした。

 僕はそれだけで、この悪魔が今から何をしようとしているか、分かってしまった。


「とって喰おうとか考えてなかったのでは?」

『喰う気はないよ。ただちょっと……一部提供して欲しい。精液……は、だめ。あたしが嫌。血がいいな。肉ならもっと素敵。骨なら完璧』

「それ、結構致命的だよ?」

『全部じゃないってば。そう……腕一本とかどう?』


 腕を引っこ抜かれたら、どのみち死ぬではないだろうか。何て言葉は、この悪魔には通じないだろう。

 後ずさりする僕へ、悪魔はじりじりと近づいてくる。


「悠に……何があったの? 彼は本当に自殺だったの?」

『自殺まではYes。けど、理由を遡れば、あれは殺しも同然だ』

「……誰に?」

『考えてみ。考えてみ。ユウは……あいつは悪魔に殺された。ああ、そうとも! あたしなんかよりよっぽど上等な悪魔さ! つまんない価値観と、低俗な欲望と裏切りが、あいつを……あたしのユウを殺したんだ……!』


 言葉を紡ぐことで僕は何とか間合いをとろうとするも、そんなのものは無意味だった。悪魔は一度姿勢を低くしたかと思うと、僕の方へ山猫もかくやに飛びかかってくる。身をかわせたのは、単なる偶然だった。

 横に転がるようにして逃げれば、悪魔は地面に着地し、そのまま尻尾を鞭のようにしならせて。それはそのまま僕の顔面へ――。


『……こうして対峙してみて分かったけどさ。君、マトモじゃないね。霊感があるにしても、自分からあたし達みたいなのに触れるなんて』

「悪魔にマトモじゃないとか、言われたくないね」


 真剣白刃取りならぬ、尻尾取り。肉薄してきた尻尾を両手の平でしっかり抑えれば、悪魔は忌々しげに舌打ちする。

 うねる尾の表面はザラザラしている上に、表面に無数についた目玉がまばたきを繰り返すものだから、極めて気持ちが悪い。僕が顔をしかめていると、悪魔はバカにしたかのように鼻を鳴らした。


『やだなぁ、何かほっといたら、君あっさりここから逃げちゃえそうだ』

「……成る程、悪魔と会ったことがないから比較しようがないけど、低級であることは、自己申告通りらしい」


 こうして僕が生きている。

 そう言えば、悪魔は目に見えて、怒りに身体を震わせた。

 怪異と関わっていると、どうしようもなく駄目だこれは。とか、何をやっても敵わないと感じる存在と出会う事がある。具体的な実例は、木枯らし吹きすさぶ、去年の十一月。

 富士の樹海にて、僕とメリーが女郎蜘蛛と思われる怪物の夫婦に遭遇した時だ。骨の髄まで震え上がったのは、今も鮮明に記憶に残っている。それと比べると……なるほど、この悪魔は非日常ではあるが……、あの時程ではない。

 例えるなら、森で熊さんに出逢うか、大型犬に出逢うか位の違いだ。どちらも危ないことには変わりないけど。


「……諦めてよ。ちょっと腕もぎ取るだけ。それであたしは……あたしは……!」


 ジリジリと、悪魔が詰め寄ってくる。それに合わせて、僕は掴んだ長い尻尾を振り回し、悪魔と距離を取る。さながらハブとマングースの闘争の如く、僕らはその場で、歪かつ殺意に満ちたステップを踏む。

 一度。二度。いくつかの駆け引きを経て、僕らの視線が交差して……。


「んにぃいいい!」


 後は一瞬だった。寧ろ、悪魔相手によく持った方だと思う。触れるというアドバンテージか、ヘンテコな力を持っていても、僕個人は貧弱な人間に変わりなく。結果、悪魔の奇声とバクリと大きく顎が開閉する音と一緒に、僕の左腕は悪魔に噛みつかれた。


「ぎ……あぐっ!」


 走る激痛。それと同時に僕はもんどり打って横倒しになり、その上に悪魔はのし掛かってきた。

 ギリギリと、顎に力が入れられているのが分かる。

 このまま僕の腕を噛み千切る気なのだ。


「んぐ……のっ!」


 最早無我夢中だった。パンチでは、この悪魔を引き剥がすのはきっと敵わない。ならば……。

 指の狙いを定める。

 目掛けるはその……真っ赤な目。ジュプリ。と、生暖かい感触に背筋を冷やしながらも、痙攣する悪魔に内心で親指を下向きで見せつけ、僕は差し入れた指をグニャリと曲げ、柔らかな眼窩をほじくり掻いた。


『あぎゅぎがぎゅぎがぁぁあ!』


 これに驚いたのは、悪魔の方だろう。予期せぬ反撃。しかも結構なダメージを受けるなど、夢にも思わなかった。そんな表情で、悪魔は堪らず顎を外し、数メートル跳躍した。潰されなかった方の目が、僕を捉える。浮かぶは困惑。

 それはそうだ。幽霊に触れるとは、そのまま反撃も可能だという事。勿論、やる方である僕にもリスクはあるが、それは今は思うまい。使った指が突っ張り、ジクジク痛んでいるのをおくびに出さず、僕は悪魔を睨み返す。


「節分って知ってるかい? あれに何で豆が使われるかっていうと……豆は、魔滅(まめ)に転じるからさ」


 同時に、目を滅す。多くの物語で、鬼が豆で目を潰されたり、柊で目を刺し貫かれているのはその為だ。

 端からみたらこじつけだ。ましては今日は節分でもないし、豆だって持ち合わせていない。けど、霊に干渉できる僕が、それを手で実行することに意味がある。

 これで滅せるとは思えないけど、距離は取れた。

 痛みがせり上がり、涙目になりながら、僕は再度必死に辺りを見渡す。相変わらず、右も左も草原だ。けど、必ず活路はある。悪魔は『僕が出ていけそう』と言った。つまるところ、見えていないだけで、出口はある。という事になり……。


 目を細める。どこだ。ある筈だ。どこかに。


『あきらめろよ……! いいからあたしの栄養になれよ! 殺さなきゃ! 復讐だ! 殺してやる! 殺してやる! あいつら皆……! それが、あたしの救いで……! ユウの願いなんだよぉ!』


 僕がいまだ希望を失っているのが気に入らないのか、悪魔は再び躍りかかってくる。

 必死に身をよじり、悪魔を蹴り飛ばせば、今度はふくらはぎに爪と牙が突き立てられる。気が遠くなりそうな痛みで、僕の視界が暗くなり始める。

 動きを鈍らせたのが分かったのか、悪魔はゆっくりと脚から離れ、再びさっき噛みついた腕の方へと上ってきた。


『クソッ、手間取らせやがって……。ああ、もう、身体重い。こちとら〝死にかけってか、大部分死んでる〟ってのに……!』


 完全なマウントを取られた。悪魔は警戒するように目を尻尾で覆いながら、くちゃりと口を開ける。草原は、僕らの周りだけ血まみれだった。


『腕だけだ。女がいるんだろ? 優しく看病してもらいな。欠損しても愛してくれるなら、本物でしょうよ』


 ブツブツ言いながら、悪魔の歯が僕の肉へ沈む。もう、痛みはなかった。ほぐれていた身体が再び破壊されていく。頭の中で、嫌な耳鳴りがして……知り合いの顔が、走馬灯のように流れていく。

 父さん、母さん、ララ。綾に、古い友人たち。大学で出来た友人や先輩。そして……。


 最後に、亜麻色の髪を靡かせながら、寂しげな表情をした相棒が頭に浮かんで……。


「あ……」


 唐突に、いつかの夜を思い出した。

 大晦日を経た年明けに、僕とメリーが何の気なしに語らった事。

 もし仮に、どちらがが死んでしまったら?


 そんな非生産的。かつ、不健康な妄想を膨らませた、ifのお話。

 僕は、正直分からない。そう答えた。対してメリーは……、小首を傾げて、少しだけ思案して。最終的に彼女は、何処と無く儚げに笑いながら、こう答えたのだ。


『そうね……私ならきっと、狂ってしまうわ』


 ……ああ、それは嫌だなぁ。


 そう感じたのと、その揺らぎを見つけたのは、同時だった。

 噛まれていない方の手。そのすぐそばで……何かが揺らめいていた。

 陽炎か、蜃気楼のように、それは奇妙な靄となり、そこで渦巻き、漂っていて。それでいて、何処と無く懐かしい気配がした。

 それは、間違えようもない香りだった。


「ああ……うん、謝らなきゃ」


 ぼやきと共に、それに手を伸ばし、しっかり掴む。

 頑張るのはお互い様。

 メリーが見つけて、僕が触れる。

 一人先走り、粗相した僕を、頼もしき相棒が見つけてくれたのだろう。


『……チッ』


 と、悪魔の舌打ちが聞こえた。

 せめて血だけでも頂くよ。そんな憎々しげな呟きを最後に、僕の視界は暗転した。


 ※


 暗い海を漂っているようだった。

 周りが揺らめき、黒い霧がかかっている中で、僕は確かに声を聞く。さっきの悪魔の声より、一層低いそれ。明らかな歓喜と狂喜に震える叫びが、僕の耳にこびりついた。


「ああ、何とか足りた。やっと出られて、動けるわ! ……コレデ……コレデ……!」


 恨みが晴らせる。

 引き裂いて、八つ裂きにして。



 クッテヤル……!!


 闇の中で悪魔が笑う。それにダブるように。あるいは元から一つだったかのように、女幽霊が重なっていく。


「……まさか、あれって……」


 手を伸ばす。だが、それは何も掴めない。それでいて、もう片方の手だけは、妙に暖かく。やがてその温もりは僕を優しく包んでいき――。


 ※


 あん。と、色っぽい悲鳴がすぐ下でした。

 最初に感じたのは相変わらずの草の香り……に混じったハチミツみたいな甘い匂い。誰のかなんて今更だ。続けて、身体全体が柔らかなもので支えられているらしいことに気がついて。


「私、メリーさん。今、貴方に押し倒されちゃったの」


 囁くような声がして。僕は今の状況を確認すべく、ゆっくりと身体を起こす。少しばかり、身体が重い。背中に木材でも立て掛けられているみたいだ。

 何度かまばたきする。視界がより鮮明になり、目の前にメリーが仰向けで倒れているのに気がついた。僕は彼女に馬乗りになる形になっている。ついさっきまでは、覆い被さるように倒れていたに違いない。

 腕を確認。物凄い激痛は走るが、出血はしていない。脚も同様だ。もう片方の手は、メリーとしっかり繋がれている。

 やはりあの靄は、彼女の手のひらだったらしい。


 それすなわち悪魔の領域から、現実へ。神隠しならぬ悪魔隠しから、何とか脱出した事を意味していた。


「……えっと」

「何か私に言うことは?」

「……あー」


 口ごもる僕に、メリーはジトリとした視線を向けるのみ。

 空を仰ぎたくて上を見れば、日は傾いてはいるものの、辺りは明るい。余り時間は経っていないらしかった。


「……うん、あれだ。セクハラで訴えるのは……おぶぅ!?」


 ふざけた代償はヘッドバッドだった。撥ね飛ばされた僕はそのままメリーの横に倒れる。背中に本当に何か乗っていたらしく、背後でドサリという音がするが、確認は出来なかった。次の瞬間、メリーが僕をふんわりギリギリと、文字通り抱き〝絞め〟たからだ。


「もが! おご……め、めふぃー! ふぃぬ! ふぃぬ……!」

「うるさいわ。窒息すればいいのよ」

「ふぁらふえぬぁ……い……!」


 夏場の薄着姿を見た時は、色んな意味で凶器だなぁ何て思ってたけど、こうして酸素供給を断たれると、本気で笑えない事に気づく。あわててメリーの背中をタップして、僕はようやく解放された。


「〝外人の為に道ふに足らざるなり〟……。心理だね。探すべきではない。帰ってこれないわコレ」

「桃源郷に喩えてくれるのは嬉しいけど、まず言うことは?」

「…………ごめん」


 僕が今度こそ素直に謝れば、メリーは身体を動かし、今度は僕の胸に額を当て、両手で僕の襟元を握りしめた。小刻みに身体を震わせる彼女の背にポンポンと手を当てるしか、今の僕には出来なかった。


「ごめん」

「心配したわ」

「うん」

「かっこつけてたわりに、ボロボロみたいだし」

「返す言葉もない。君が助けてくれなかったら……死んでたよ」

「埋め合わせは?」

「全力で。なんなりと」

「考えとくわ。……次はもう、離さないで」


 それだけ言って、メリーはぐしぐしと僕の服に顔を擦り付けてから、パッと離れる。

 暖かな感触が離れ、物寂しくなったのは、多分さっきまで死にかけていたからだろう。そう思うことにした。


「……事情やら、色々確認するわ。何があったの?」

「悪魔に、拉致されてた」

「それは分かる。他には? 貴方が連れてきたそれと、何か関係があるの?」

「連れて……そうだ! 僕、さっきまで何を背負っ……て……」


 寝転がったまま後ろを振り向いた時、悲鳴より先に、言葉が詰まった。

 泥だらけのぼろ布。それが最初に視界に入り、続けてそれが目に入った。正確には、目が合った。


 カラカラに干からびて、黒く変色し、一部は虫に喰われてはいたが……。そこに横たわっていたのは、紛れもなく。女性の衣服を着込んだ、人間の死体だった。

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[名前のない怪物]
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