亡霊初恋録②
「…………う、ぁ……」
冷たい吐息が首筋に吹きかけられる。僕はその瞬間、確かに後ろにいる保奈美さんに恐怖していた。
当たり前のことかもしれないが、幽霊や妖怪といった者達に理屈や常識は通用しない。例えばとても強い妖怪が現れたとして、それが起こす現象を事細かく説明することは、どうやっても不可能だからだ。
化かされた。神隠しにあった。心霊現象に巻き込まれた。そうやって起こされた結果を、推理や妄想を駆使してカテゴライズするくらいが、人間の限界なのである。
だからこのように……逃げ場なく捕まえられてしまっては、僕にはもうどうすることも出来なかった。
「離っ、せ……!」
『え〜? フフッ、やぁ〜だ』
必死に身をよじるが、体格差はどうにもならない。保奈美さんはますます僕の身体をキツく抱き締めて、愛おしむように頬ずりまでしてくる。
『辰くん。辰くん辰くん辰くん辰くん……!』
欲しい。キミが欲しいナ……。涙ぐむような囁きがエコーする。
幽霊は、見たことがあった。妖怪もだ。けど、信じがたい程に幸運だと思うが、そんな僕の短い人生の中で悪意をぶつけて来る怖い存在には、まだ会ったことがなかったのである。
経験不足。知識不足。他にもたくさん。この頃の僕は、霊能者というよりは、ただ特殊な霊感があるだけの子どもだったのだ。
『大丈夫、痛くしないよ……死ぬときって案外……あれ? どうだったかな……?』
回された腕が少しだけ上がってきて、僕の目を彼女の掌が覆い隠した。
何も見えない。このままどうされてしまうのか、得体のしれない不安が僕の中で鎌首をもたげはじめた時、僕の身体は今更ながらブルブルと震え始めて……。
『………ぷっ、くくっ……ふふ……』
同時に保奈美さんの身体も小刻みに揺らいでいるのに気がついた。
「…………………保奈美さん」
『………………んふふっ』
震えが止まる。抗議の意味も込めて低い声で彼女の名前を呼ぶと、僕の傍で軽快な笑い声が弾けた。
どうやら化かされた……。いいや、からかわれたらしい。
『……あはは、びっくりした?』
「そうですね。身体が自由になったら、保奈美さんの両頬をつねってやろうと思うくらいには」
『え〜。暴力反対だよ〜』
ほらほらこっち向いて。と、されるがままに僕の身体が動かされて、今度は真正面から保奈美さんに抱きしめられてしまう。
『怖かったね〜。震えちゃったね〜。ごめんね。ちょっと悪戯が過ぎたかも』
「……むぐ」
今もおちょくられているらしい。彼女の声に少しだけ喜悦の感情が乗っているのを察しながら、僕は真っ暗な視界の中で口をへの字に曲げた。主にビクビクしてしまったことの悔しさから。そういった場面においてそんな感情を抱くのは大間違いだと、この時はまだ知らなかったのだ。
『因みにああいうときはね。思い切ったずつきが有効だよ。相手を怯ませられるし、自分の恐怖もちょっとだけ吹き飛ばせちゃう。当てるとこが悪いと、こっちも痛くなるんだけどね』
「……次からはそうします」
人をダメにしそうなクッション……もとい保奈美さんの胸から無理やり脱出すれば、スミレ色の瞳に僕の不貞腐れたような顔が映っていた。
『こらこら〜、おでこがキュッてなってるぞぉ〜?』
「……なんで、あんなことをしたんですか?」
『え〜? 辰くんが可愛いから。一目惚れってやつ?』
「嘘ですね」
『噓じゃないよ? キミは多分大きくなったら……うん、アレだね。影があるイケメンになると思う。間違いなく』
冷たい指が僕の眉間を優しくなぞる。ほぐすような動きに身を任せたまま、僕は彼女の行動を思い出していた。
何となくだが、さっき感じた“寒さは”本物だったように思えた。僕の身体を欲したのも、僕をからかったのも。どちらも彼女の本心からくるものだったのではないだろうか?
『怖かった? 正直に』
「……………………悔しいですが、少し」
『うんうん、そっかぁ〜』
正直に答えれば教えてくれるだろうか。そう思って観念したのだが、彼女は満足気にうん。うん。と頷くだけだった。
なんだこの人。本当に意味が分からない。
改めて、保奈美さんを見る。最初はフワフワ浮いていたのが印象的だったから、今度はしっかりと。
まつげが長い。肌が白い。目は不思議な色で眺めてると楽しい。三つ編みにされた黒い髪は……幼馴染の綾と同じくらいに艷やかだ。綺麗な子でもあるが、可愛らしいの方がしっくりくる。あとは焼き菓子……ワッフルみたいないい匂いがする。フワフワ色々柔らかい。
うん、第一印象から大して変わっていない。けれど……
『……ん〜?』
視線に気づいたのか、保奈美さんはニコニコ笑いながら小首を傾げる。それを見た僕は不思議な焦燥に身を焼かれたような気がして、慌てて目をそらした。
からかった後に笑っていたのを見た時もそうだったが。僕は心のなかで漠然と「いいな」なんて感想を抱いていたのだ。
『さて……と』
芽生えた未知の情動に戸惑いを覚えていると、不意に僕を覆っていたひんやりとした感触が消失する。
見上げると、保奈美さんがフワフワと宙に浮いたまま困ったように肩を竦めていた。
『辰くん、時間大丈夫? そろそろ閉館時間だと思うけど』
「…………え?」
そんな馬鹿な。そう思って僕が辺りを見渡すが、そもそも人が周りにいなすぎることに気がついた。
『ここはね。多分……時間が孤立していて、それでいてほんの少し捻れてるの』
首をひねる僕に保奈美さんが補足する。曰く、時間が固まっているけれど、“外”では普通に時間が流れている。ただしそれは時に遅くなったり、早くなったりするのだという。
そんなことあるの? と思いはしたが、僕はそれ以上疑問を口にはしなかった。付喪神だっていた。幽霊も色々なところにいる。ならばこういった奇妙な空間だって存在しても不思議ではないだろう。
それよりも問題は、どっちに行けば帰れるかだ。本当に閉館時間間際ならば、流石に長居しすぎた。家の門限はとっくに過ぎてしまっている。一分でも早く帰らなければ、また家族が心配してしまうに違いない。
「急がなきゃ。出口は……あっ」
ざっと部屋を見渡せば、本棚が並ぶ中で少し離れた位置に大きな扉があった。あそこが出口だろうか? でも僕はここに来る時に扉を開けてはいないし……。
『――っ、彼処はダメ。入っちゃいけないわ』
まぁ行ってみればわかるかな。そんな軽い気持ちで僕が歩こうとすると、背後から保奈美さんが物凄い力で僕を引き止めた。振り返ると彼女は顔を伏せていて、その表情を伺うことは出来ない。ただ、その身体は何かに怯えるように震えていた。
「保奈美……さん?」
どうしたの? と、僕がおずおずと問いかけるが、彼女は顔を伏せたまま動かない。
少しの沈黙がその場に訪れて。やがて僕の身体が再び彼女によって引き寄せられた。
『……出口、私が連れて逝くね』
「……え? う、うん」
目の前がおっぱいでいっぱいだった。
抱きかかえられ、何も見えないまま僕の身体が音もなく本棚の間をすり抜けていく気配がして。やがて再び地に足が着いた時、何処か遠くから寂し気な旋律と共に誰かの声が聞こえてきた。
聞き覚えがあるそれは、閉館時間を告げる音楽とアナウンスだった。
『着いたよ。……じゃあ辰くん。ここでお別れね。……最期にキミに伝えたいことが……』
“最後”……その言葉を聞いた僕は、無意識のうちに彼女の服を握りしめた。
嫌だ。何故だかそんな強い気持ちが僕の中から溢れ出していたのだ。
「また、来てもいいですか?」
『……――っ!』
呼吸も、心臓も動いていない筈なのに、保奈美さんが息を呑んでいる……そんな不思議な様子を幻視した。
静かに彼女から離れつつ、僕より高い位置に浮かぶ彼女を見上げる。保奈美さんは今にも泣きそうな……それでいて寂し気な顔で僕を見下ろしていた。
「何だか保奈美さん、寂しそうで……怖がってるようにも見えて……僕、それが何だか嫌で……」
気持ちを口にしなければ彼女には二度と会えない気がして、僕は自分の心に従って言葉を紡ぐ。
閉館間際の図書館で何人もの人が歩く音は微かに聞こえるのに、この場には僕と保奈美さんの二人きりのようだった。
無言の時間が流れていく。やがて保奈美さんはポツリポツリと語り始めた。
『あの扉……キミが行こうとしたあの部屋ね。――怖いの』
「……怖い?」
僕が聞き返すと、保奈美さんはコクリと頷いた。
『何年も私は、彼処の紙芝居コーナーにいるのに。あの扉の中にだけは……どうしても入れないの。近くに行こうとすると震えが止まらなくなって……脚が竦むの』
力なく彼女は笑う。そんな恐ろしく感じる場所の傍で、ずっと過ごしていたというのだろうか。そう考えたら、僕はますます彼女を一人にしたくないと思ってしまった。
『ゴメンね。こんなこと、辰くんに言ってもしょうがないよね。もう帰りなよ。キミはこんな私に関わらなくても……』
「――明日! 学校終わったら、また遊びに来ます!」
図書館であることを忘れて、柄にもなく大きな声を出す。
もう決めた。僕がそう目で訴えると、保奈美さんは暫くの間、じっと僕の顔を見つめて。やがて力なく。でも確かに嬉しそうに微笑んだ。
『……ありがと。待ってるね』
……繰り返しになるが、当時の僕は霊能者としては未熟者もいい所だった。僕の手が幽霊に触れられるのは、霊体に干渉できるからだ。その応用で幽霊を成仏させたり、結界や呪いの類を破壊できたり。果てはその在り方にまで手を延ばせる力を持っていた……。なんてことは、当然知る由もなかった。
経験不足。知識不足。他にもたくさん。故に気づく事が出来なかったのである。
見覚えのない図書館の紙芝居コーナー。そんな怪しすぎる場所で誰かに殺されたという幽霊を見た時点で、僕は警戒するべきだったのだ。今立っている場所がごまかされている可能性を。
そこは正しく、理屈や常識から外れた存在が作り出す、魔的な領域なのだと。
そして、僕の見落としはもう一つ。
人を化かせる存在とは、殆どが高位の霊や妖怪か、最悪でもある程度の力を有した存在であることが多い。保奈美さんは生前普通の女の子だったという。にもかかわらずそんなことが出来るということは……。彼女が厄介極まりない悪霊であること。その証明に他ならないのである。
※
5月10日 晴れ
辰が約束破った。お家で待ってたのに、帰ってきたのは夜の8時半。おばさんとおじさんはカンカンだった。何回目かな。毎回毎回どこ行ってるの?
私も怒った。「ゴメンね、綾」と頭を撫でてきた。それで許すと思ったら大間違いだ。いや嬉しかったけど。仕方がないから今日は一緒に寝てもらう。それで許してあげる。仕方がないから。
5月11日 晴れ
またいなくなりやがったよアイツ。放課後、一緒に帰ろうと思ってたのに。
いつものことだけど、毎回ドキドキソワソワするこっちの身にもなってほしい。ばーか。ばーか。
あと、今日変なお兄さんに会った。「懐かしい顔だと思ってな」だって。飴を渡そうとしてきたけど、断った。知らない人から食べ物は貰っちゃだめって言われてるから。
苦笑いしてた。
5月17日 曇り
最近、全然辰と遊べてない。学校が終わるとすぐに何処へいなくなっちゃって。夜は遅くに帰ってくる。おじさんもおばさんも呆れてるけど……ちょっと心配そう。というか、何だろう? 嫌な予感がする。
5月20日 曇り
辰がおかしい。何だか顔色が悪いし、学校でぼんやりしてる事が多くなった。なのに放課後は即座に消える。
何してるの? ねぇ、いやだよ。このままずっと遊べないのかな? 一緒に帰れないのかな?
5月24日
どうしよう、このままだと、辰が消えちゃう……!
何でかわからないけど、そんな気がする。
だって最近は怪我までしてる。身体の色んなとこに包帯を巻いてるし、血も滲んでる。
おじさんやおばさんがお家に引き留めようとするんだけど、蜃気楼みたいにフッといなくなっちゃう。
「ぬらりひょんか何かなの、あの子は!?」なんておばさんがとうとう泣き出してしまった。明日は一日中誰かが見張りにつくらしい。私も参加する。これ以上は本当にダメ。
5月25日
皆が寝てる間に辰がいなくなった。おじさんが警察に連絡した。私も探そうとしたら、駄目って言われた。
お庭でしょんぼりしてたら、変なお兄さんが現れた。ストーカーなのかも。お名前はトウダって言うんだって。変な名前。私はお兄さんに事情を話した。そうしたら――――。