亡霊初恋録①
もはや今更な話になるが、僕は幽霊が視える。
荒唐無稽な話だと笑ってくれたなら、それはそれで嬉しく思うのだが、こういった考えに至るようになったのはそれなりに時間がかかったことを覚えている。
自分の霊感を自覚したのはいつかに獏の亡霊に導かれて廃墟の遊園地で遊んだ時だが、それがあまり人に知られるべきではない。……どうせ信じてもらえないと理解したのは、そこから数年後。幼馴染に幽霊を見せてしまった時のことだった。
あの事件は長いこと僕の中でモヤモヤした失敗談……もっと俗っぽい言い方をすると黒歴史というやつに数えられる。
我ながらなんてはた迷惑な奴だと、今ならば流してしまえるのだが……。恥ずかしい話になるけれど、当時の幼かった僕はそんな柔軟な思考は持ち合わせていなかった。
簡単に言えば、やさぐれていた。人と違うことを自覚したばかりだったからというのもあり、多分今以上に他人に対して壁を作ってしまっていたのである。自棄っぱちにもなっていたともいう。
当時の僕は小学三年生に上がったばかり。誰にも自分のことは言えない。何もなかったことにしなければいけない。頭では納得してはいても、心の方は受け入れきれていなかったのである。
だからだろうか。今ならば考えられないことだが、「遊ぼ」と僕を誘ってきた幼馴染との約束をわざとすっぽかして、あの日の僕は街の図書館まで足を伸ばしていた。
見上げる程に高い本棚がいくつも並べられたそこは、今日も静謐な空気が充満している。
その書物の山の間を歩きながら、気を惹くタイトルや表紙を探すのが、僕はお気に入りだった。
まるでいくつもの世界を渡り歩いているかのような気分で。あるいは惑星から惑星へと飛び移る空想を添えて。僕は本の迷宮を冒険していた。
人は何人もいるのに、誰も言葉を発しないこの世界が好きだった。僅かな呼吸の跡と空調の駆動音だけが耳に残るこの場所ならば……人もそうでないものも区別はつかないのではないだろうか? そんなことを考えながら歩き続けて……。僕はそこに辿り着いた。
「…………あれ?」
見覚えのない区画だった。この図書館は頻繁に来るわけではないけれど、どこにどんな本棚があるかを僕は大体覚えている。それ故に違和感が先行していく。
最近模様替えでもしたのだろうか? いいや、他の区画はいつも通りだった。けれどここは……まるで区画そのものが。“図書館の中にいきなり空間を増設させた”かのようで……。
「……絵本? いや」
なんの気無しに陳列されているものに目を留める。絵本にしては大きいし、そもそも本としての形をしていない薄めの箱にはそれぞれに絵とタイトルがつけられている。
『ももたろう』『うらしまたろう』『きのこのばけもの』
多分紙芝居だ。白い低めの本棚に立て掛けられるかのようにして置かれているそれは、学校の資料室に忍び込んだ時に見た国語の教材と同じだった。
新しいコーナーでも始めたのかな? そんな気持ちのまま、僕はぼんやりとその作品群を眺めていた。
『おやおやぁ? 少年、紙芝居に興味津々かな?』
その時だ。不意に背後から誰かに声をかけられた。優しくて、可愛らしい声。だが、何故だろうか。僕はその声を聞いた瞬間に背中に冷風でも浴びせられたかのような……不思議な肌寒さを感じていた。
『うんうん、ここのコーナー、何か最近は人気なくてさぁ。昔は結構子どもがチラホラ集まっていたんだけど……最近の子は紙芝居とか見ないのかなぁ?』
「…………」
振り返ると、そこには女の子がいた。黒い艷やかな髪を三つ編みにして頭の後ろで二つに垂らしている、素朴なヘアアレンジ。整った顔立ちに、雪のように白い肌。くりくりした丸い目。チャーミングで綺麗な子だった。
『あっ、私は絵本ならカラスのパン屋さんが好きなんだけど……紙芝居にはなってないんだよね。あったら読み聞かせしたかったなぁ』
「…………」
まるで時間が止まったかのように思えた。
生まれて初めて女の子を見るわけでもないのに。何ならテレビで見る芸能人とか、アイドルだとか、綺麗な女の人なんていくらでも目にする機会はある筈なのに。
僕はただそこにいる。女の子に目が釘付けになっていた。
一目惚れ? 断じて違う。ただ単に……。
「……お姉さん、浮いてる。幽霊なんですね」
『そうそう。お姉さん、幽霊だよ〜。You霊? だなんて、少年はなかなかにジョークセンスがあ……る……………え?』
浮いていた。それはもうふわふわと。そりゃあ僕じゃなくても見てしまうだろう。
一方のお姉さんは、まさかこちらが自分を認識しているとは思わなかったのか、電流でも受けたかのように固まって。そのまま、僕の顔をマジマジと見つめてくる。
そこで僕ははじめて、お姉さんの瞳が普通の色とは違うことに気がついた。
すみれ色。宝石のようというよりは、まるで水面に映った花弁のような……。
『……えっ、嘘でしょ? キミ、私が視えるの?』
「見えますね」
『…………どんな姿で?』
「……? 三つ編みの女の子に見えますけど」
『ふ、服は? どうなってるかな?』
「どこかの制服……あ。そういえばそれ、羆塚中の?」
『――っ!? そ、そう! そうだよ! 羆塚の! キミもしかして近所?』
「僕は……白鯨小です」
『隣町かぁ〜でも嬉しいな! こうして誰かと話すのだって何年ぶり……何年……も。……わた、し……』
びっくりした顔になったかと思えば、ケラケラと笑う。そうかと思えばぼんやりと固まって、女の子はハラハラと涙を流しはじめた。
幼心ながら、その時僕は幽霊でも涙は流れるんだな。なんて感想を抱いていた。付喪神に低級の妖怪や霊。そういった存在には既にこの時点では何度か遭遇してはいたのだけど、こうやって涙を流されるのは初めてのことだった。
『ご、ごめん。ごめんね。ホントにごめん……!』
「……むぐ」
フワリとお姉さんの腕が伸びてきて、僕の頭を優しく引き寄せる。
氷のような冷たさが僕を包み込んで、思わず身震いしてしまう。
だが、同時に鼻をくすぐるのは生クリームと焼きたてのワッフルみたいな甘い香りだった。
幽霊も香りがするんだな。とか。死臭じゃないんだな。なんてわりとドライなことを考えていたと思う。間違いなく、何かそうやってカッコつけたことを頭に浮かべていた筈だ。
『寂し……かったの。こうやって誰かに触れたのも久しぶり……ひさし、……ぶ、り?』
「もが……んぐ」
『さ、ささ……触れるぅ!? キミもお化けなのぉ!?』
……なんかうるさいなこの人。
ファーストコンタクトはそんな感じだった。
※
『辰くんは凄いねぇ。何かの漫画とかなら主人公出来るんじゃないかな?』
「……何を根拠に」
『え〜。だってお化けが視えます! なんて、いかにも主人公じゃない? いいなぁ〜私もそんな感じの強烈なキャラが欲しかったよ』
「……鏡持ってきましょうか? 今まさに僕のそばには幽霊女子中学生っていう強烈な存在がいるんですが」
『キミ、そんなちっちゃい頃から皮肉混じりの喋り方してると、友達出来なくなるぞ?』
「……既にあんまりいないので」
『ありゃま。……まぁ、これからよ。変にスレちゃ駄目だよ? こ〜んなに可愛いのに』
うり。うり。と、ほっぺたや髪を弄くり回されながら、僕はどうしてこうなった。なんて考えていた。
現状。幽霊お姉さんのお膝の上。後ろから捕まえられるような形で、僕は彼女の玩具と化していた。本当に、どうしてこうなった?
「そろそろ離してくれませんか?」
『……………まぁまぁまぁ。ゆっくりしていきなさいな。ほらほら、ぎゅー』
「……………むぅ」
悪い気がしないのは、僕も男の子だったからというべきか。あるいは、年上のお兄さんお姉さん的な存在が、近所にはいなかったから新鮮さを感じていたのか。
取り敢えずひんやりして。いい匂いがして。ぷにぷにフカフカしてとても心地よいので、僕はされるがままになることにした。
他に用事があるわけでもないし、問題はないだろう。
磯貝保奈美。享年15歳。
死因ははっきりとは覚えていないらしいが、頭をぶつけたというのだけは確からしい。
最初に僕に対して自分の姿を確認したのは、自分が頭部から出血した、グロテスクな状態なのでは? と、心配したからだという。
「幽霊になって、どれくらい経つんですか?」
『途中で数えるの止めちゃったよ。誰も私に気づいてくれなかったし、触れられなかったから』
「……触れられないんですね。普通は」
『そうだよ〜。少なくとも、パパやママ……他にも色々な人に触れようとしたけど、駄目だったもん』
「じゃあ、やっぱり……」
おかしいのは僕なんだ。そう口にしようとしたところで、再び頬を摘まれる。偶然なのか、わざとなのかは分からなかった。
『逆に辰くんはいつから視えるようになったの? 生まれつき?』
「……視えるようになったのは数年前です」
『あっ、実は魔法使いや霊媒師の家系でした……って訳じゃないんだ』
「視えて、触れるんです。よくわからないけど、これが幽霊や怪奇達には嬉しかったり、びっくりしたりするみたいです」
『やだこの子、話を無慈悲に流すスキルまであるわ。お姉さん本気で将来が心配……』
「……保奈美さんは僕をどうしたいんですか」
『いやぁ、少年陰陽師とか、キャラとして最高だと思うんだよねぇ。カッコいいし。何より……――私が誰に殺されたのかもわかるかもしれないでしょ?』
その瞬間、部屋の温度が一気に冷え込んだ。
否、僕の体温が彼女によって下げられていた。保奈美さんが僕の身体を包み込んでいるせいで。
「殺、された?」
『そう。殺された。それは覚えてるの。私の死体はね。まだお家に帰れてないんだぁ……』
彼女の頬がピタリと僕の頬にくっつけられる。そこではじめて、今の僕は四肢が完全にホールドされ、身動きが取れないことに……。彼女から逃げられないことに気がついた。
ゴクリと、僕の喉が鳴る。クスリと、保奈美さんは愉しげに嗤い声を漏らす。
『……ねぇ、辰くん』
柔らかい指が、僕の身体を誘惑するかのようになぞっていき、やがてそれは僕の左胸に辿り着いた。
ドクドクと、いつもより少し早くなった鼓動を保奈美さんも感じているようだ。いいや、もしかしたら楽しんでいるのかも。
幽霊としてさまよい歩いていた彼女にとって、こうして誰かが生きている音を聞いたのだって久しぶりの筈だ。故に。
『キミの身体……私に頂戴』
それが狂おしいくらいに羨ましくなるのもまた、無理のない話なのである。