回想と少年の呼び声
見も蓋もない話だが、僕の通っていた小学校はオンボロだった。それはそれはオンボロだった。
壁や床のタイルにはヒビが入り、黒板は消えにくい上、一部変色している。水道は臭いし、トイレは最悪と言っていい汚さ。
極めつけは教室だ。寂れた空気というか、物品全てが年季の入ったもので、小さな落書きなんて探せばいくらでも出てくる始末。
ここだけ聞くと酷く劣悪な学舎に聞こえるが、唯一の長所として敷地だけは無駄に広かった。
一番大きく、低学年と中学年の教室と、職員室があるA校舎。
高学年の教室や教材倉庫があるB校舎。
図書室、視聴覚室、理科室といった、多目的な教室が集中しているC校舎。
この三つが沢山の花に溢れた広い中庭を、ぐるりと囲むようにして立地している。それが我が母校、白鯨小学校だった。
改めて説明してみると、ごくごく普通の古い小学校。だが……。ここには、少しばかり風変わりなものが存在していた。
D校舎。
所謂旧校舎というべき建物は、そう呼ばれていた。
A校舎とC校舎から延びて合流した、長い渡り廊下を進んだ先。一応そこは体育館へ続く道ではあるのだが、それを通り越して更に奥へ進むと、件の校舎にたどり着く。
校舎とは言えど、そこは普段授業では絶対に使用しない。せいぜい物置がわりに使われる程度で、とてもではないが生徒の生活に使える場所ではないのである。当然ながら生徒は先生と一緒でない限り立ち入り禁止。だが、いかにも何かがありそうな場所なので、探検に出掛けようとした者が過去に何人もいたらしい。
そして……侵入した大半の生徒が、怯えながら帰って来るのが通例だった。
当然だ。そこは小学生が集団で行くにしても、あまりにも不気味すぎた。もはや廃墟と言っていいD校舎は、昼休みで騒がしくなる筈の体育館に隣接しているにもかかわらず、不自然なくらいに無音の空間なのである。
まさに別世界。喧騒に溢れた学校に慣れている子どもには、さぞかし恐ろしく見えるに違いない。
実際に、誰かの視線を感じる。
見慣れない生徒を見た。
教室に赤い何かで、変な模様が書かれている。
奇妙な鳴き声が聞こえてきた。といった話が、昔からまことしやかに囁かれていたという。
そんな話が一人歩きして、結果的にこんな噂が流れ始めた。
D校舎には、幽霊がいる。それは、昔そこが教室として使われていた頃に死んだ生徒の魂で、誰も来なくなった教室を今もさまよっているのだ……と。
さて、そんな噂を聞いた当時の僕が何をしたかと言うと、当然探検へ出掛けていた。こんな話題に、僕が食いつかない筈がなかったのである。
初めて乗り込んだのは、僕が小学三年生の時。クラブにも所属せず、習い事もなかったので、放課後を探索の時間として定め、特に妨害もなくD校舎に侵入した。のだが……。
「……うわ」
そこに足を踏み入れた瞬間、僕は理解した。
成る程。何かがいるのは間違いないらしい。
薄暗い廊下。塗装が剥がれ、灰色のコンクリートが露出した壁。錆び付き、赤黒く変色した水道の蛇口に、古く、無骨なデザインの流し台。まるで時間から取り残されたかのような空間がそこにはあった。
だけど、僕が身をこわばらせていたのは、そういった場の雰囲気ではない。
ねっとりとした。それでいて此方の出方を窺うような気配。D校舎に踏み込んでからひしひしと感じるそれは、明らかに誰かの視線だった。
幼いながらも度々不思議体験をしていた僕だからこそ分かる。
その気配は、人間のものではない。
「…………だ……っ……いや」
誰かいる? と、声を出そうとして止めた。気配を振り撒いてくるような輩には、語りかければ寄って来るものと、そうでないものがある。
寄ってきてくれたら、話は簡単だし、正体も分かるかもしれない。けど、今はまだやるべきではないと、僕は直感した。
相手が善いものか、悪いものか。強いものか、弱いものか。
まだ分からないのだ。
「…………りんご。……ごりら。……ラッパ」
適当に言葉を重ねながら、僕は先へ進む。歌やしりとりは、結界の力を持っていて、古い護法として使えるという話を聞いて以来、僕は探索の時によく使っていた。一人でやることに意味があるかは分からないけれど、一応やっている間は襲われた事はない。
そう、〝やっている間は〟だ。途切れてしまった時は……お察しだ。
一つの廊下に、教室が三つ。手前から教室。階段を挟み、教室。教室。といった間取りのようだった。
一つは完全な空き教室。もう一つは運動会で使う大玉や、玉入れの籠。綱引き用の縄等がところ狭しと置かれていた。
最後の一番奥の部屋は立て付けが悪かったのか、開かない。ただ、教室入口の戸には、硝子窓が嵌められていて、中を覗くと、そこもただの空き教室のようだった。
廊下の奥には進めない。机がバリケードもかくやに積み上げられていて、隙間にはご丁寧に向こう側を覗けぬよう椅子が入れてある。間取りから考えて奥には階段があるらしかった。
「団扇……和太鼓……黄金虫……」
こっちじゃない。
そんな勘が働く。何かの気配は確かにする。
だがそれは、もっと上からヒシヒシと伝わってきているのだ。
「芝刈り……竜胆……兎……銀行……」
さびれた階段を上る。
無機質な空間には、僕が紡ぐ言の葉と、タイルを踏む硬い音だけが反響していた。
「裏道……ちりめんこ……独楽…………マントヒヒ……」
二階にたどり着く頃にはだんだんネタがなくなってきたが、何とか続けていく。視線は、未だ僕に絡みついていた。
二階は、一階以上に何もないようだ。
廊下の奥には机のバリケードはなく、奥の階段へ進めるようになっているが……どのみちその降りる先は行き止まりだろう。D校舎は三階立てなので、上へ行く道には何かがあるかも知れないが。
「アリクイ……イースター……あんこ餅……チャンピオン、シップ……」
あやうく「ん」で終わりそうになり、慌てて紡ぐ。一瞬だけ気配が濃厚になったのは……気のせいだと思いたい。
一つ目。二つ目と空き教室。何かに使用した気配はない。本当に何のためにあるんだろうD校舎? と、僕が思いかけた頃。
はるか遠くから、誰かの足音が聞こえてきた。
「……ッ! し、シャーロックホーム……ズ。……ズ、ズ……図工……海牛……」
切れそうになったしりとりを何とか繋ぐも、僕の心臓は早鐘を鳴らしたかのように落ち着かなかった。さっき以上に小声で呟く今も、誰かの足音は響く。これは……一階からのようだった。僕以外にも、誰かがここに来たのだろうか。
「……シンバル……ルーレット……」
辺りを見渡すが、当然ながら空き教室に机のような遮蔽物はない。
たぶん使えないだろうが、外にトイレは一応あった。廊下に出て、そこに隠れようか。いや……。
僕はその考えを放棄し、直ぐ様教室の隅へ忍び足で移動した。
確かに隠れ場所としてトイレも悪くない。だが、廊下に出て、そのドアを開ければ、間違いなく音が反響するだろう。無音のD校舎では致命的である。故に僕は教室のある一点を隠れ場所に選んだ。
教室の壁に埋め込まれるようにして存在するそれは、木製の掃除用具入れ。僕は音を立てぬよう慎重に扉を開き、中へ身を隠した。外以上にすえた臭いが鼻を突いたが、今そんな事はどうでもいい。
しりとりを心の中で呟くのに切り替えて。僕は息を殺したまま、聞き耳を立てた。
カン。カン。カン。と、階段を登る気配がして。コツ。コツ。コツ。と、床のタイルをを踏みしめながら、誰かは近づいてくる。
教室の入口で立ち止まったのだろうか。ふと、辺りが静かになる。暫く後、誰かの「ふーっ」といった息遣いが聞こえてきて……。数秒後。再びタイルを踏む音が反響し、そこにいた誰かは遠ざかっていった。
僕はそのまま気を抜かず、身体を硬直させていた。誰かは、階段を上っていく。三階に向かったのだろう。どうやら行き止まりではないらしい。誰かの気配が消えたら、再び探索に行こうか。
足音が捉えきれない位遠のいたのを確認した僕は、ようやく身体を弛緩させ……。
直後、コン。コン。という、軽快なノックの音で、再び僕の身体に緊張が走った。
ぎょっとしながら真っ暗闇の中で、目の前の扉を見る。
すると、見計らったかのように、またしてもコン。コン。コン。というノックの音が、掃除用具入れ全体に轟いた。
「ヒ……向日葵……理科室……積み木……」
悲鳴を上げそうになるのを堪えて、僕は小声で、言葉の結界を紡ぐ。
さっきまで感じていた視線は、用具入れの中では感じない。
かわりにじめじめとした嫌な気配が、今まさに用具入れの外から伝わってきた。
まるで波に浚われる砂山のように、僕の精神は徐々にすり減っていく。ノックは今も続いていた。
「き、キリギリス……スイカ、……バー。……ア、アイマスク……」
危うく同じ言葉を使いそうになり、何とか修正する。心臓はさっき以上に拍動し、背中はじっとりと冷や汗で湿っていた。
そもそも、このノックがおかしいのだ。ここに来た誰かは、三階へ向かった筈であり、僕がこの教室に入った時は誰もいなかった。
D校舎にはベランダが存在しないので、窓からは入ってこれない。そもそも後から来た誰かが、この教室を一度見ている筈で、その時に反応はなかった。
つまり……。
今ノックをしている何者かは、誰もいない教室に突然出現し、掃除用具入れの前に現れたという事になる。
「く、くく……栗ご飯……、定食。……く、胡桃。み、み……。ミ、ミ……」
混乱した頭が、言葉を見失っていく。いっそ大声を上げてみるか。それとも体当たりをした上で殴りかかってみるか。そんな思考すら生まれ、完全にしりとりが途切れたと言えるくらいに間が空いて……。
その瞬間。閉ざされた用具入れの中で〝風〟が吹いた。
戸の隙間から、入り込んだ? それはおかしい。窓も空いてない室内で風が吹くなん、て……。
あり得ない現象を自覚し、頬の筋肉がひきつると同時に、ざわざわとした突発的な寒気が僕を襲う。そして……。
『ミ。……ミィツケタ……』
僕じゃない声が、耳元で囁かれた。




