呪い考察
深雪さんに事情を説明すれば、彼女はもう一度綾の身体を上から下までじっくり眺めた後に、「やっぱり神様の仕業ね。存在自体は大したことないやつみたいだけど」と、結論を下した。
曰く。日本には格に上から下まで差があれど八百万の神様がいて。
今回綾が巻き込まれたのは、その神様がちょいちょいと悪戯したかららしい。メリーについては……聞いていないのでまだわからない。
「…………あの、流石にあり得ないかな。なんて」
「信じる信じないはお任せします。けど、他に貴女が陥っているこの状況を説明できるかしら?」
「……それは、そうですけれども」
だが、当人たる綾はそんなことを言われてもさすがにピンとこなかったらしい。おずおずと反論する綾だったが、残念ながら相手が悪い。
あっという間に深雪さんに一蹴された綾は、物凄く釈然としない表情で僕の方を見た。
「ね、ねぇ……まさか、本当にこれが原因だなんて……」
「深雪さん、根拠は? 神様だと断定できる根拠を」
ムッとした顔になる綾を横目に、僕は深雪さんに説明を求める。綾が深雪さんを一から信じてくれるとは思っていない。それでもしっかりした説明が入れば、納得せざるを得なくなるだろう。そう判断して結論を急いだのだが……。
直後、僕は深雪さんの目がギラリと光ったのを確かに見た。獲物を見つけた獣のそれが、真っ直ぐ綾へ向けられていたのに気づいた時。僕の身体がカッと熱くなるのがわかった。
「珍しく気が立ってますね~」
いいえ、余裕がない……かしら? と、綾には聞こえない声で深雪さんはそう囁き、いそいそとカウンターに戻ってしまう。然り気無く僕の方に「ゴメンゴメン」とウインクしてくる彼女。少しだけ毒気がぬけたようで、気がつくと僕は大きく息を吐きだしていた。
こちらこそごめんなさい。そんな意味を込めて目を伏せれば、深雪さんは気にしないでと言うように柔らかな笑みを浮かべてくれた。……面目ない。
「あり得ない現象にいちいち根拠を求めていたらキリがありませんよ。ただ、物事には必ず痕跡というべきものが残ります。完璧に消せる例は少ない」
やがて、アンティークのロッキングチェアが再び年季の入った軋みを上げはじめる。
その上に腰掛ける深雪さんは、怪奇の理論を展開しつつ、思案するように口元で手を重ね合わせた。
……シャーロックホームズで有名なポーズ。よくみればカウンターの傍らには『緋色の研究』『四つの署名』など、シリーズの長編四冊の他、全部の短編集が積み上げられている。大いに影響を受けたのは間違いないらしいが、彼女が嗜むのはパイプではなく長煙管だった。
無音の空間でマッチを擦る音が響く。深雪さんが吐いた紫煙が宙を揺蕩う様を目で追いながら深呼吸。そうして僕はようやく能力を緩めることが出来た。
オカルトの議論する前に置くワンクッション。メリーなら甘い食べ物か飲み物だし、深雪さんはご覧の通り。僕は……何だろうか。自分の癖や無意識のルーティンについては、これだ。と、断言はしにくい。
けど……。何となく親しみがあるものを目にしたからだろうか。今は身体が少しだけ軽かった。さっき深雪さんに身構えてしまったことといい、ちょっと肩に力が入りすぎていたし、思考も澱んでいたらしい。
……まずは言い聞かせるのでなく、真の意味で落ち着こう。〝失敗するのは人の常だが、失敗を悟りて挽回できる者が偉大なのだ〟
一度強く目を閉じて、すぐに開眼する。すると、深雪さんが嬉しそうに顔を綻ばせるのが目に入る。『やっと戻りましたね。いつもの辰ちゃんに』という声が聞こえた気がした。
「……神様は、自分が加護を授けた存在には、何らかの目印をつけるんです。普通は目に見えない。怪しい言い方にすると、オーラとか匂いとでも言いましょうか」
「何でわざわざ怪しくするんですか」
「だって貴女、明らかに信じてない顔だもの」
僕が回復したのを確認してから、深雪さんは語り始める。ありがたいことに、綾が突っ込んで欲しいところへしっかり突撃していってくれるので、僕は存分に深雪さんの話に集中することが出来た。
「人が見た目はそのままに、まるで別人になった。あるいは人格が入れ替わった。なんて話はね。調べてみると思いの外いっぱいあるものよ。たとえば思いっきり頭をぶつけ合っちゃっただとか。ドッペルゲンガー……あら、ご存じない? まぁ、そういった変な存在に遭遇した……とか」
「……神様と大して変わらないくらい、胡散臭いです」
「これはあくまでも例だってば。見たところ貴女にタンコブは見当たらないし、仮に変な存在と辰ちゃんやメリーちゃんが出会ってたとしたら……この二人が気づかない訳がない」
深雪さんが流し目で僕に確認を取る。
そうなのだ。今回は僕とメリーにとっては完全に不意討ちだった。かつ、起きたのがメリーの部屋という異質さも孕んでいた。部屋というのは、ある種の結界だ。招かれてもいない。取り憑いてもいない怪奇がホイホイと入れる場所ではないのである。
それは強大な力を持っていた偽メリーが、最後まで僕やメリーの部屋に入ってこれなかったことがいい例だろう。
「えっと。じゃあ、本当に? 私は、神様に悪戯されて?」
「さっきも言ったけど、貴女からは神様と関わった人特有の匂いがするわ。貴女、ここ数日で何処かで参拝とかしなかったかしら?」
「それは……」
だから、今回の件でもっとも可能性が高いのは、まず綾が何らかの怪奇に巻き込まれて、その結果、この現象が起きたと考えるのが自然なのだ。
僕かメリーが先に怪奇へ手を出したパターンも勿論ありうるが、ここ数日の僕らは四六時中一緒にいたし、スケジュールはデート&チョコレートだった。怪奇が入る余地など微塵もないし、かといって日付を結構遡っても、入れ替わりなんてことをやらかすモノと遭遇はしていない。
故に、ここ数日の綾が辿った行動が鍵となるわけだが……。
「……みんなで、〝遠野郷八幡宮〟に」
その名前は、もはや正解を言ったも同然のスポットだった。
「……今日行くのは、江ノ島だっけ?」
「ええ」
「……遠野、よね? 試しに聞いてみるけど、卯子酉神社とかも行ったのかしら。あと、同県で少し距離は離れるけど、巽山稲荷神社は?」
「えっと……卯子酉は行きました。巽山の方は、一ヶ月前、初詣に、サークルの皆で少し遠出して」
「……深雪さん」
「そうね。多分ビンゴだわ」
え? え? といった表情で綾が僕と深雪さんの顔を交互に見る。すると深雪さんは吸い終えた煙管の灰を灰皿に落とし、ロッキングチェアを揺らしながら、再び綾に問いかけた。
「貴女達がやってるの、パワースポット巡り……といったとこかしら? 旅行サークルなの?」
「い、いえ……写真サークルですけど。あの、なんで?」
「こういう店をやってるとね。そういったホラーとかオカルトチックな類いの話題に詳しくなるのよ」
綾の顔が、ほんのりと恐怖に歪む。チクリと胸が痛んだが、もうここまでくれば知ってもらうより他になかった。
「あ、あの……ホラーとかオカルトって……パワースポット巡りってそういうのは関係ないんじゃ……」
「あらん、やっぱり価値観は現代っ子なのねぇ。自分に起きた異変はにわかに信じられないのに、そういうのは信じてる辺り」
「は、話をそらさないでください! 私が聞きたいのは……」
「あるわよ。無関係だなんてとんでもない。寧ろ裏表と言ってもいい位なのよ。ご利益を得る場合もあれば……よくないものに祟られることだってあり得る」
「……っ!」
深雪さんが意図的に声のトーンを低くする。綾はその場に立ち尽くしたまま身体を小刻みに震わせていた。
……ちょっとやり過ぎだ。そう思って身を乗り出す。深雪さんのことだから、僕が自分のことを話そうとしているのはお見通しなのだろう。彼女は今、怪奇としての側面を綾に見せようとしているのだ。自惚れでなければ僕の為に。
「祟りって……そんなの……」
「ない。と、言い切れますか? そもそも貴女、ここがどういう場所かわかっていないでしょう? ……貴女も薄々察している。目を背けちゃダメ。今の貴女は――」
「深雪さん、その辺で」
綾の前に立ち塞がる。
今度はさっきとは違う、水面のような静かな心持ちで。深雪さんは、ちょっとだけ不満顔だった。
「……辰ちゃん、過保護も大概にしなさいな。事は貴方が思ってるより深刻かもしれないの。隠すのだって限界でしょう? いいの? メリーちゃんはもしかしたら……」
「わかってます。……だから、彼女をここに連れてきたんです。ちゃんと……説明は、します。だから、わざわざ悪役演じないでください」
過保護なのは貴女もです。とは言うまい。面倒見がいい。こそ相応しいだろう。
メリーの現状が深刻なのは嫌というほどわかっている。綾に関してもトラウマや心配など色んな柵が先立って、結果僕の精神がガリガリ削られているのも事実だ。
けど……だからといってこの件は、綾に僕のことを隠したままいけるとは思えなかった。
沈黙がその場を支配する。折れたのは深雪さんの方。
彼女はと小さく息を吐き。纏っていた剣呑な空気を霧散させた。
「…………私がそういうの見せたら、充分でしょう? 辰ちゃんまで説明しなくてもよかったでしょうに」
「こういうのに巻き込まれてる時点で、覚悟はしてますよ。……ちょっと心の準備がしたかっただけです」
説明は……僕がやる。こうして頼らせてもらうだけでもだいぶよくしてもらっているのに、そこまで彼女に背負わせるのは、絶対に間違っているだろうから。
難儀な子。と、言わんばかりに深雪さんはロッキングチェアの上で膝を抱える。一見いじけているようにも見えるが、口元はしっかりと弧を描いていた。すると、不意に綾が僕の裾をくいくいと引っ張り始めた。
振り向くと、綾がいじけていた。膨れっ面で顔をプイと背けている。
なんてこった。あざと可愛いぞ僕の幼馴染み。そして外見がメリーだから更に完璧だった。彼女もそりゃあ可愛らしいが、ここまで露骨にあざとくは……。
「すいません、そろそろ私にもわかるように……あら?」
ならない。と、思ったその矢先。綾の顔が物凄い状態で固まった。
目を見開き、口あんぐり。何事かと視線の先行きを追えば……。
本棚と本棚の間から……何かがこちらを見つめていた。
それは真っ赤な瞳をキラリと輝かせたと思うと。やがてノソノソと、通路まで歩いてきた。
初見の人が連想するのは、大きな猫だろうが、すぐにその認識は間違いだと気づくだろう。
山羊を思わせるカールした角が生えた頭と、裂けた口。そこから覗く乱杭歯。全身は黒い体毛に覆われた四足獣。だが、長い織物に似た尻尾は、ゴムのようにのっぺりしていて。そこには幾つもの目玉がついており、パチパチとまばたきする。
悪魔というべき存在がそこにいた。
というか……魔子だった。
「なに? ……ひっ……!」
あ、これヤバいと思った時にはもう遅かった。
能力は間に合わない。というか、自己申告ながら下位とはいえ、彼女は正真正銘の悪魔である。それがこんな怪奇の気配が濃厚なお店で実体化を果たしているならば……僕の能力で見えなくするのはほぼ無理だった。
魔子の顔が好奇心で不気味に歪む。そのまま彼女はゴキブリか、パニックを起こしたトカゲみたいにカサカサと身体をくねらせて走り出し、ピョンと大ジャンプ。
豊かな足場……もとい、綾の胸に飛び乗った。
『妙だな、身体はアイツのなのに、魂からは処女の香りがプンプンする。オマエ、誰だ?』
その見分け方どうなの? と聞くより早く僕は身構える。次に起きることなど、もう予想できていた。
「し、しゃべ……! イヤァアアァアア!!」
あらんかぎりの悲鳴を上げた綾はガクンとその場に崩れ落ちる。抜かりなくスタンバイしていた僕は彼女をふんわりキャッチ。そのまま抱え上げた。いわゆるお姫様抱っこの図。……多分本人が起きていたら、恥ずかしがって拳か蹴りかクローが飛んできていただろう。
「…………あの」
「ん、お布団ね。いいわよー」
皆まで言わなくてもわかってくれる深雪さんが素敵だった。
一方、魔子は綾が気絶するなり床へ避難して、今は狛犬もかくやにお座りしている。
ただ、さすがにいきなり気絶されるとは思っていなかったのだろう。尻尾は落ち着かない様子でくるりと円を描き、僕と綾を見上げる視線には戸惑いが見受けられた。
「えっと、あれ? あたし、やらかした?」
「…………そうともいえるけど、もしかしたらMVPかもね」
ワンクッション置く意味では。そう呟きながら僕は深雪さんに続き店の奥へ入っていく。後から魔子がのそのそついてくる気配がする。……綾が起きたらまた大変そうなので、人間の姿をとれるか聞いてみよう。
やがて、見覚えがある部屋に案内される。いつかに僕も運び込まれたことがあるお座敷だった。
深雪さんによって手早く布団が敷かれ、僕はそこに綾を横たえる。今は静かに寝息がたっており、一先ず安心した。
「取り敢えず辰ちゃん。その子……綾ちゃんだったかしら? 彼女が寝てる間にちゃちゃっと〝エセ邪神〟討伐作戦会議を済ませちゃいましょ」
「わかりました。よろしくお願い………………んん?」
待って。今この人なんと言った?
「深雪さん? あの、聞き間違いですか? 今……」
「エセ邪神よ」
「エセ邪神……って」
何だ? と、僕の頭がハテナマークを飛ばしまくっていると、深雪さんはクスクス笑いながらも指で何かを潰す仕草をした。
「古来からこの手の類いはたくさんいるんですよ。結論からいえばコイツの方は大したことないわ。解決方法も多分簡単。ただ、問題はメリーちゃん」
おどけた雰囲気を一瞬で引っ込めて、深雪さんは綾と僕を交互に見る。
「……普通に考えるとね。これは元の原因は痴情のもつれとか、男女のあーだこーだ。俗っぽいものが理由だと思うの。例えば綾ちゃんと誰か男の人がいい感じで、それに横恋慕した何者かが実行にうつした」
「……あるいは、綾に惹かれた男性を好きな誰かがいて……とか?」
「ええ、でもそうなるとおかしいのよ。入れ替わりを実行した人間の身体ではなく、綾ちゃんがメリーちゃんの身体に入った理由は? いいえ、そもそもね。本来霊能力者として一級品な彼女が、こんな超下級な神様の悪戯に巻き込まれてる時点で不自然だわ」
辰ちゃんとも一緒にいて、あのお守りだってあるでしょう? と言う深雪さんに僕は曖昧な顔で首を横に降った。
「お守り……寝るときは外してるんです」
「……ちょっと。ダメじゃないですか」
「いや、さすがに部屋内とかでは……」
「霊能者でしょ貴方逹。いや、でも確かに部屋にいて。変なの憑いて来てないなら、まぁ……」
「珍しく察しが悪いな店主。すました顔してるが、コイツのバカップルぶり見てるだろ? アクセサリーつけたままセックスに耽る訳ないさ」
「魔子ぉ!」
人が言わないでいたことを! と叫ぶも後の祭り。横槍を入れてきた悪魔はケケケと笑い転げていた。深雪さんがニヤニヤしている。いかんな。このままでは話が明後日の方に行きかねない。
「と、とにかく。メリーが簡単に身体から追い出されているのは確かに変です」
「お楽しみは否定しないのね。お熱いこと。……ええ、そうなの。綾ちゃんと誰かの間で事がなされるならわかるし、あり得るわ。けど、そこでメリーちゃんが出てくる。これが謎」
「あ、わかったぞ。あれだよ。本来なら何も受け付けないんだろうけど、イッた直後ならもしかしたら……」
「魔子、ステイ」
「酷いな。悪魔だぞ!? 俗っぽい話がしたいんだよぉ!」
「今じゃなくていいだろ! 話が進まない。深雪さんも成る程って顔しないでください! 寝る前に少し話もしましたから! 綾になってたのは朝って言ったでしょ!」
「辰ちゃん、ピロートークについてお姉さんに詳しく」
「シン・タキザワ。嘘をつくな。どうせ話しただけじゃないんだろ。やらしい奴らめ」
「ああ、もうこの人(?)らは……!」
何かの罰ゲームかと思いながら頭を抱えていると、深雪さんがポンポンと僕の肩を叩く。
「じゃあ惜しいけど詳しくは聞かないわ。ともかく、眠るまでは確かにメリーちゃんだったのね?」
「ええ、間違いなく」
「…………なら、順番に整理していきましょう。まず一つ。辰ちゃんもメリーちゃんもここ数日はイチャイチャしっぱなし。怪奇とは関わっていない」
「……はい」
「無意識に何かやられたはあるんじゃないのか?」
「いいえ、魔子ちゃん、この二人に限ってはほぼノーと言っていいわ。だいたい、世間では昨日までバレンタインよ? そういうとこには近づいてすらいないんじゃないかしら?」
「まぁ、その通りです」
クリスマスの天国と地獄を思い出す。今年のバレンタインこそは無事に乗りきれたと思ったのになぁと考えたら、何だか乾いた笑いが漏れそうだった。
「次ね。綾ちゃんはともかく、黒幕と思わしき人物は辰ちゃんを知らなかった。これも間違いないわね?」
「はい。逆説的に、メリーについても知らないと思われます」
「結構。三つ目。……辰ちゃん、綾ちゃんに関して浮いた噂は?」
「大学入ってからは断言できませんが、多分ない……と思います」
「じゃあ…………辰ちゃん的に綾ちゃんはどんな女性かしら?」
「え? えっと、幼馴染みで。妹分で……もう一つの家族みたいな人……ですかね」
「メリーちゃんと綾ちゃんって、二人だとどんな感じ?」
「そこまで苛烈じゃない言い合いしてるのをよく見ましたけど、仲は悪くない……と思います」
最後だけはちょっと自信がない。けど、僕とメリーがお付き合いする前から、綾は時々こっちに遊びに来ていたし、その度に毎回メリーと二人でお出かけしていたのも事実だ。昼間はショッピング、夜にはスパランドにまで駆り出したと聞いた時には流石にビックリしたのを覚えている。
メリーが入院した時も、わざわざ面会が可能になるまでこっちに滞在したこともあった。……これ、下手しなくてもかなり仲がいいんじゃないだろうか?
「なるほどね。わかったわ」
僕が話し終えると、深雪さんは顎に手を当てて。しばらく黙した後、重々しく口を開いた。
「……〝不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる〟ものだと、私は思うの」
試すような視線を感じて「シャーロック・ホームズですね」と答えると、「辰ちゃんには簡単すぎましたね」と、深雪さんは破顔した。
作中において、幾度も出てくる有名な台詞である。ただ、ここで彼女がそれを口にした意味を僕はまだ掴みかねていた。
「あの、それがどうかしたんですか?」
「よく考えて。多分辰ちゃんはあり得ないと思ったんでしょうけど……これが一番可能性が高い」
どういうことか。それを聞くより早く、深雪さんは僕を手で制する。深緑の瞳に憂いの色が宿っている。何故だろうか。とても嫌な予感がした。
「メリーちゃんは部屋の中で怪奇に襲われない。怪奇は招かれてもいないので部屋に入れない。黒幕はメリーちゃんを知らず、辰ちゃんもまた、怪奇には会っていない。なら……残された容疑者は一人しかいないと思いませんか?」
「…………っ、待ってください」
違う。そう脳が否定する。だけど同時に新たな可能性の道筋が幾重に分かれていき、思考の幅もまた広がってしまう。
「考えてみてごらんなさい。怪奇すべてを人に当て嵌めるの。正面や後ろから他人が来ても、メリーちゃんは見向きもしない。けど……一人だけ。彼女の警戒が限りなく緩むであろう人物がいるわ」
辻褄が合ってしまう。確かにその理屈なら。肉体から入れ替わりで追い出された〝彼女〟が怪奇にカテゴライズされていて、文字通り〝戸口に立った〟なら。メリーは何の疑いもなく彼女を招き入れるだろう。でもそれは……。
「綾が……メリーの身体を乗っ取った?」
そんなの、僕は絶対に信じたくない。




