君の名は……
シャワーの水が浴室の床で跳ねているのを耳にしながら、僕は思わず顔をしかめた。中にいるのは以前とはまた違う偽メリー。……こう考えると本質というべきか、そういう星の元に生まれているというべきか。つくづく語り語られることが多い女性である。
「……わからないな」
まだ相手を見極めきった訳ではない。こちらがしっかり観察する前に逃げられてしまったからだ。
メリーの姿を作り出している何かか。あるいは、メリーの中に誰かがいる。恐らくはそのどちらかだろう。
記憶喪失になったメリー本人というのも一瞬考えたが、それはすぐに除外した。記憶がないならば、行動がおかしすぎるのだ。
今朝の反応は明らかに、自分の状況や容姿にびっくりしていた。何も思い出せないという内的な反応とは思えない。
「……〝シェリー〟。着替え、置いとくよ?」
「わひゃあ!?」
もう一度、確認の意味で相手に話しかける。浴室の磨りガラスの向こう側では、肌色のシルエットがビクリと跳ね上がっていた。やがて、少しの空白を経て「ありがとう」という旨の言葉が帰ってくる。
この時点で、黒であることは確定した。
彼女は自分の着替えを極力僕に運ばせないし、何より、僕がシェリーと呼んでも、突っ込んでこない。他にもたくさん該当するのはあるけれど、いちいち頭に思い浮かべるのはやめておいた。
「……朝ごはん、今日は僕が作るから、のんびり入ってきなよ」
「わ、わかったぁ……」
自分でも意識しないうちに、硬く冷たい声が出ているのに気づく。
抑えろまだだ。問い詰めるのは、奴があがって来てからでいい……。何度も自分に言い聞かせながら、僕はそっと脱衣所を後にする。
深く息を吸い、昂り続ける気持ちを何とか抑えようとするが、無駄に終わった。
すぐにでもバスルームから彼女を引きずり出したい。そんな獣性じみた衝動が何度も僕の中で浮き沈みしているのだ。
慌て頭を振る。
朝ごはん作ろう。今は何かしていないと気が狂いそうだ。
エプロンを身につけ、キッチンへ向かう。今にして思えば、おもいっきり動揺していたのだろう。
なにせ料理する最中、僕は完全に無心だったのである。
いつもなら作るときは……例えば食べてくれる人……メリーの顔が浮かんできたりとか、綾や妹のララはこれが好きだったなぁ。といった具合に、楽しい一時で心が豊かになる筈なのに。
作っている途中の料理を見れば、出来はそこそこ。けど僕を支配していたのは空虚だった。
「ただいま、辰。いいお湯だったわ」
ただ、そんな味気ない料理の時間でも、僕の平静を保つ時間稼ぎにはなっていたらしい。
背後から、少しだけ上擦った声がする。緊張からか、必死に彼女の口調を模倣しているのか知らないが、僕にはそれがひたすらに癪に触った。
自己申告なのであまりあてにはならないだろうが、僕はそんなに怒る方ではない。
にも関わらずここまで乱れ、冷静さを失いかけているのは、やはり大切な領域に土足で踏み込まれているからに他ならなかった。
「おかえり、〝シェリー〟」
コンロの火を消しながら、僕は振り返る。メリーの偽者がそこに立っていた。
湯上がりで上気した肌はほんのりと赤く。心なしか惚けたような表情だった。
優しいハチミツの匂いが僕にまで届く。彼女が愛用している石鹸と、本人の香り。それを感じた時、僕は身体が震えそうになり……。気がつけば、情動を隠すようにして、何故か今もポケーッと僕を見つめ続ける彼女に歩み寄っていた。
手首を掴み。そのまま極力乱暴になりすぎないように壁際へ押さえつける。
近くに来て、しっかりと視た。
やはりメリーじゃない。けど……信じがたいことに身体は彼女のもの。つまりコイツは、〝あの〟メリーに憑依を成功させた、とんでもない存在であることが証明された。
「――ふぇ?」
メリーの中にいる存在が、完全に虚をつかれたかのような声を出す。だが、君の驚きや混乱が、僕に勝るとは思えなかった。
相手に顔を近づける。血の気が引き、完全に怯えきった瞳に、僕の顔が映っていた。
「普段はね。彼女をシェリーとは呼ばないんだ。それは特別な時にだけ。日常生活において、僕は基本的に、彼女を慣れ親しんだ愛称で呼ぶんだよ。……それは彼女も承知している。」
一言一言。丁寧に説明すれば、その度に目の前の存在は目を白黒させ、身を縮こまらせる。
オロオロしながらまるで僕の機嫌を伺うかのような、小動物じみた仕草は、彼女の見た目に反して随分と幼く見えた。
メリー本人がやったら即体温計を手渡すレベルだが、目の前のコイツは別人だ。追及の手を緩める気はないし、心配なんてもっての他である。
「だからね。僕がこうして、意味もなく君を〝シェリー〟と呼んでる時点で、君から何らかのリアクションがなければおかしいんだよ」
君は…………誰だ?
そう詰め寄りながら、捕らえた手首へ痣にならない程度に力を込める。
身体はメリーのものだ。傷はつけられない。そこから、ただ憑依しているならば追い出せないものかと干渉を試みるが、思いの外しっかりと身体にしがみついているのか、はたまた別の要因か。大した変化は見られなかった。
「もう一度聞くよ。君は誰だ?」
「え、あ……う……」
目をそらさずに睨み付けながら、僕はもう一度問う。相手の口からは意味をなさない音しか出てこない。それどころか、どんどん目が潤んでくる。
霊感のあるメリーに憑依をやってのけたり。そんな状況でシャワーまで浴びてくる図太さを見せた癖に、返ってくる反応はどうにも弱々しい。
「聞いてるのかい?」
「あぅう……」
「口ごもってたらわからない」
「ふぇえ……」
「ちょっと。真面目に話を……」
「えぅう……えう……」
……勘弁してくれ。そう呟きたくなった。
大好きな女性の姿をした何者かが唇を噛み締めて、心底悲しげに大粒の涙を流している。これだけでも結構心が痛むというのに……。
まるで僕に怒られるなんて想像もしていなかった。いつぞやに妹のララを叱った時と似た反応が、僕の激情をますます鈍らせていく。
「……わかった。追い詰めたのは悪かったよ。頼むからその顔で泣かないでくれ」
チクリチクリと痛む胸を自覚しながら手を離す。少しだけ僕の態度が軟化したのを感じ取ったのか、目の前の存在は縮こまったまま、上目遣いで僕を見る。
心配で気が狂いそうなところに調子まで乱してくるとは、本当に迷惑な奴である。
「あ、えと……」
「……君は、メリーじゃないんだろう?」
話を切り出しあぐねている相手に不本意ながら助け船を出せば、メリー(偽)はコクコクと頷いた。
どうしてわかったの? そう聞かれるが、そればかりはフィーリング的なものだから説明が難しかった。
ひとまず無難に本名と愛称。あと、彼女なら絶対にしない行動を理由に上げれば、メリー(偽)はあんぐりと口を開けたまま、珍獣と遭遇したかのように目をしばたかせていた。
「ただ、君が誰かを聞いといておかしな話だけど、間違いなくその身体はメリーなんだよね。そのせいで、今僕は混乱している」
「混、乱?」
「中身……って言い方もあれだけど、本物の彼女は何処にいったのか。だからこそ、君がどこの誰なのかを知りたいんだ」
もしかしなくても、この娘(暫定)とてつもなく素直なのでは? ふとそんな推測が浮かび上がり、ままよとばかりにこちらの手札を晒す。
憑依しているのはわかっているぞ。
その意志も同時に示した。これに対する返答で、こいつの気質にも探りを入れることが出来るだろう。
すると、メリー(偽)はしばらく必死に考えを巡らせていたようだったが、やがて意を決したように僕へ真っ直ぐ顔を向けた。
「えっと……綾、です」
なるほど、それが君の名前か。
偶然だろうか? 故郷の幼なじみと同じ……。
「……へ?」
多分。いや絶対に、その時の僕は過去最大級にバカみたいな顔をしていたことだろう。
何度も何度も、頭の中でその名前を反芻する。朝とは別のベクトルからきた衝撃の展開に、僕は大いに狼狽していた。
「あや……あ、や? 綾って……えっ、あの綾? 本当に?」
「どの綾かは知らないけど、多分辰が思ってる通りの綾よ」
嘘だと言ってくれと思いながら、僕はもう一度確認するが、無慈悲にも返答は変わらなかった。いかん。ダメだ落ち着け。このままはマズイ。信じるにはまだ早い。
「……君の本名。家族構成。及びご趣味は?」
「竜崎綾。家族はお父さん、竜崎正晴。お母さん、竜崎千早。私の趣味は……格闘技全般。あとカフェ巡り」
「……僕のばあちゃんが家で飼ってる錦鯉の名前は?」
「サシミとフライ」
「……っ!? くっ……まだだ。ええっと。君の。いや、僕の……」
「悪いけど、よっぽどマニアックなクイズが来ない限り間違える気がしないわよ?」
苦笑いしながら可愛らしく首を傾げる、メリーの皮を被った綾。……綾メリーとでも言うべきか。
彼女は何でも聞いてというように僕の質問を待っていた。そこには、さっきまでの弱々しい姿はなく、何だか安心しているようにさえ見えた。
「……僕は学校の先生に何て呼ばれてた?」
「寄り道王・補導の滝沢。……毎回消えるから、私はいつも心配だったの」
「君が一人で、はじめて僕に作ってくれた料理は?」
「うっ……。ロール、キャベツ。――紫色。辰は吐いたよね」
「……懐かしいね。じゃあ、綾のお父さんの口癖は?」
「ギルティ。よく辰は追いかけられてた」
「ララの好物」
「イチゴのムース。辰の手作りで」
「みんなで埋めたタイムカプセルの場所」
「裏山にある一番大きい栗の木……その近くよ」
質問すればする程に、僕の中でまさかという気持ちが消えていく。残されたのは急速に広がっていくのは焦燥だった。
「メリーの得意料理」
「グラタン。今年も辰と一緒に帰って来た時に食べたわ。ムカつくくらい美味しかった」
「レパートリー、凄く多いんだ。……彼女の本名」
「……シェリー・ヴェルレーヌ・リスチーナ・松井・クリスチェンコ。……凄いわ私。何で覚えてるのよ」
その瞬間、僕の中で真実は確定した。
メリーは家族か、本当に信じた相手にしか名前を名乗らない。今のところ僕を覗けば、実家の家族と綾にだけにしか明かしていないという。
「……最後。ローキック。ミドルキック。ハイキック。君はどれが至高だと思う?」
「……ローキックよ。一番リスクなく、隙なく相手を無力化出来るもの」
「――OK。間違いなく、君は綾なんだね」
最後にもう一つ投げやりな質問をして、僕は何とか平静を保つ。信じてくれたかと聞いてくる彼女への返事は……自分でもわかるくらいに震えていた。ついでに身体も。
だって思い出してみて欲しい。僕が今朝やらかしたことを……!
「……あの、じゃあ、さっきの……?」
「……私、初めてのキスだったのに。身体は違うけど」
最低最悪だ。もうこれ死ぬしかない。
気がつけば膝をつき、僕は絶望に頭を抱えていた。
可愛い妹分に、僕はなんてことをしてしまったのか。いや……それ以前に……。どうなっている? どうして綾がメリーに憑依している? 一体……。
何が? そう考えた瞬間に……僕は背筋が凍りつくような恐怖を感じた。
幼なじみのはじめてを奪ったこと? それもあるけど、一番に恐ろしさを覚えたのは、
めぐまるしく、頭が回転する。
メリーだけじゃない。綾にも何かが起きているのは確定だ。単純な入れ替わりだろうか? だが何故だ? 前触れなんかなかったし、実家と僕が今住む部屋は、物凄く離れているのに。
逆に入れ替わりじゃなかったら? 単純な憑依だとしたら、綾の身体は今……!
「朝起きたら、こうなってたの。正直、私も訳分からないわ」
困ったように笑う綾。当然ながら、こんな特殊な事態に慣れてない彼女は、この不思議現象がどれ程に異常かつ危ういことか理解していないのだろう。
それを悟った僕は、ますます狼狽した。
自分の中でどんどん余裕がなくなっていくのが分かる。
何よりも怖いのは……。今の綾が、気づくこと。
彼女は幽霊が、オカルト全般が苦手なのだ。
その彼女が、よりにもよって視える人。一級品の霊能者の身体を得てしまったのである。
ヤバイ……。
危機感と焦りが更に加速する。
頭がショートしそうだった。
恋人は行方不明。
幼なじみも何かに巻き込まれている。
状況は見えず、発端はおろか解決策もわからない。
そして……。
脳裏に、遠い日の記憶がよみがえる。
泣き叫ぶ綾。
少しだけ畏怖した、父さんの顔。
燃えていく骨董品達。
胸の奥にしまい込んでいたトラウマが軋みを上げる。僕の真実を、もしも綾が知ってしまったら? その上で、彼女が霊となり、ここにとどまっているのであれば……。
推測した内容が、パズルのピースみたいにドンドン形になっていく。けれどそれすら今は虚構に過ぎない。だが、その虚構すら、今の僕には毒だった。
……彼女は、僕にとって家族の一人と言っていい存在だった。
仕方ないと割り切れる程、それは僕の中では軽くはなくて……。
「辰?」
綾が不思議そうな声を出す。
その時僕は、どんな顔をしていたのだろうか?
「一先ず、朝ごはんにしようか」
覚えているのは、心が軋みを上げる音。
気取られるな。と、何かが囁く。杞憂かもしれないのだ。悪い方に考えすぎるな。そう自分に言い聞かせる。
見えない仮面が、僕の顔を覆っていく気配がした。




