二人だけの秘密の中へ
身体が不規則な振動にさらされていた。
耳に残響する機械の駆動音に引きずられるように目を覚ませば、星一つ見えぬ夜空が視界に入った。
車の中……のようだ。
「…………おや、まさかもう起きるとは。しっかり暗示をかけ損ねましたかねぇ?」
鈴を鳴らしたかのような女の声がすぐ隣からする。ぎょっとして横を見ると、白衣を着込んだ見知らぬ女性がいた。
「誰……?」
「誰でもいいでしょう。ただの運転手さんですよ」
絶対嘘だろう。という言葉は辛うじて飲み込んだ。
何と言っても、まず見た目が異様である。
金色にも銀色にもみえる髪はエキゾチックな印象を受けるが、外国の血が入っているようには見えなかった。恐らくだけど染めているのだろう。
「……っ、そうだ!」
「ああ、恋人さんと小さな女の子。それからご友人二人はご無事ですのでご心配なく」
メリーとルイカちゃんは!? 冷静になり、僕が弾かれたように周りを見渡すと、女性は事務的に教えてくれた。
見覚えがありすぎる内装は、行きで利用したワンボックスカーのもの。よく耳をすませば、確かに数人分の寝息も聞こえてくる。
僕がいるのは車の助手席。そこから後ろを見ると、後部座席の一列目にメリーとルイカちゃんが。二列目には蜘蛛に連れ去られた筈の雄一と友梨さんがそれぞれ座っていた。ご丁寧にシートベルトまで着用済みである。
特に心配だった後ろの二人は、見たところ特に外傷はないらしい。
一先ずホッと胸を撫で下ろした僕は、もう一度運転席を見る。勝手知ったる様子で車のハンドルを握る女性は、その視線を感じ取ったのか、少しだけおかしそうに肩を揺らした。
「まぁ、いきなりこんな状況で混乱しているでしょうが、ここは一つ……」
「遠坂さんとあの女の子は? それと大蜘蛛は?」
「…………んん?」
割り込むように僕がそう問いかければ、女性は訝しげに目を細めた。運転中にもかかわらず、完全にこちらへ顔が向けられる。さっきまでの余裕綽々な雰囲気は既になく、今の彼女はただ困惑しているように見えた。
「……あの樹海で見たことを、覚えているんですか?」
「え? うん……そうですけど?」
もしかして今、凄くマズイことを言ったのだろうか?
僕が一人そんなことを思っていると、女性は乾いた笑みを浮かべながら「あとでお仕置きですね」なんて呟いて、盛大にため息をついた。
「記憶があるのでしたら、警告を。暴れたり抵抗したりはしないで下さいな。運転中ですし」
一瞬だけ、女性の目が後部座席へ向けられる。無言で放たれるプレッシャーは、騒げば他の皆の命はない。そう雄弁に語っていた。
「……記憶があるなら、僕はどうなる?」
「こうやって想定外の時間に起きてしまい、記憶を保持までしている辺りから察せると思いますが……あの子、レイ君はまだ未熟者でしてね。面倒ですが、私が尻拭いしましょうか」
こう見えて、彼の師匠なので。と、胸を張る女性。
もしかしたら、遠坂さんが言っていたもう一人の住人が彼女なのかも。いや、あるいは……。
「……質問しても?」
「貴方の記憶は次のサービスエリアまでですが?」
「〝記憶は精神の番人だ〟記憶があるから学習ができて、教訓を得られる。……だから、それを奪われるのは間接的な死だと僕は思う」
「……シェイクスピアのマクベスでしたか。それが何か?」
命乞いです? と、嘲るように歯を見せる女性に、僕は苦笑いしながら頷いた。
「好奇心は負けないつもりなんだ。だから……たとえ死ぬのだとしても、何も知らないまま死んでいくのはごめんだ」
「……私達については、教えませんよ? たとえ記憶が消えるのだとしても」
「うん、それはなんとなく予想は出来てたよ。だから……別のこと」
「……内容によります」
「……教授は、帰してくれないの?」
僕がそう尋ねれば、女性は少しだけ目を細めてから……クククと、不気味な笑いを漏らし……いきなりアクセルを踏み抜いた。
身体に凄まじい負荷がかかり、スピードメーターがぐんぐんと上がっていく。
「ちょっ! スピード!」
「ああ、すいません。――ちょっと興奮しまして。そうですよね。記憶を保持してるなら、あの教授について違和感は覚えますよねぇ」
謎過ぎるスイッチの入りかたに僕が顔をひきつらせていると、女性は再び表情を歪めながら口を開いた。
「結論から言えば……その通りです。彼はもう……無事に帰すことは出来ません」
氷のように冷たい宣告に、僕は無意識に下唇を噛んだ。「どうして?」と、短く言葉を紡ぎ出すと、女性は少しだけ考える素振りを見せてから、はっきりと首を横に振る。
「彼は……知りすぎました」
そう言って、女性はバックミラーごしにメリーやルイカちゃんへ視線を向けた。
「彼は私達の情報を手に入れてしまった。元から樹海をうろついていたのも、どうにかして私達……いいえ。彼の探し人を見つけ出す為だったんですよ」
「探し……人?」
元から樹海歩きが趣味だと聞いていたが、そんな背景があっただなんて初耳だった。
「楠木正剛」
女性の話は続き、知らない名前が語られる。僕が首を傾げていると、彼女はおどけるように指でトントンとハンドルを叩いた。
「とある大学の教授でして。晩年はある特殊な蜘蛛を秘密裏に研究していました」
「く……も……?」
「ハイ、蜘蛛です。凄いでしょう? 貴方達が入ったあそこ……実は実験施設の一つだったのですよ」
信じがたい事実の連続に、僕は開いた口が塞がらなかった。
「楠木教授と山木教授は、旧知の仲だったそうでしてね。故に彼は、学会から自主的に立ち去り、一人謎の研究をしている楠木教授に、ずっと興味を抱いていました」
「友人を手伝うため?」
「そんな生易しいものじゃないですよ。ただ、なんの研究をしているのか、暴きたくなったのでしょうね。とうとう教授の古い住居に侵入し……知らなくてもいいことを知ってしまった」
「……蜘蛛の正体?」
「ええ。そして……拠点としそうな場所も。彼が広い樹海を歩く理由は……その存在を見つけ出す為。そこに楠木教授がいることを、信じて疑ってなかったのです」
「そうして、君たちは見つかった」
僕の言葉に、女性は沈黙することで肯定する。
沈んでいく僕の気分とは裏腹に、彼女はなんだか愉しげだった。
「ほんの一週間くらい前ですかね。驚きましたよ。私達は一先ず彼の記憶を頂いて、樹海から追い出したのです。しかし……当時私達は知るよしもなかった。彼が楠木教授の研究成果を複写していたことを。結果、つぎはぎの記憶と楠木教授のレポート写本により、山木教授はますます確信を強めてしまったのです。あの樹海には、何かがいる……と」
車がゆっくりとスピードを落とし、脇道にそれる。高速道路のサービスエリアが近づいていた。もう、刻限は近いようだ。
「私達は人を操れます。けど、万能ではないのです。その日の記憶を曖昧なものには出来ても、人の中から一人の親しい存在を消去するのは不可能だ」
「……だから、生かして帰さない?」
「その通り。こう見えて我々も、この星で生きるのに全力なんですよ」
車が人目の届かない、駐車場の端で止まる。
僕が身体を強ばらせるのに気をよくしたのか、女性は嗜虐的な表情でシートベルトを外し、こちらへ身を乗り出した。
首筋に、女性の唇が迫ってくる。抵抗しようにも僕に逃げ場はない。
ここが……僕の持てる記憶の終着点らしい。
再びあの痛みと共に、僕は意識を刈り取られるのだろう。だから……。
「貴女が、あの茶色い蜘蛛だった。そして多分、遠坂さんやあの女の子も蜘蛛。そうなんでしょう?」
確信を持った僕の答えに女は動きを止めたが、それもほんの僅かな間だった。二度目となる首への噛みつきと共に、僕の身体にバキッ。という謎めいた衝撃が走る。それが起こる直前に、僕は最後の問いを投げ掛けた。
「貴女達は……一体何者なんだ?」
『……樹海から今まで見たこと聞いたことは全て忘れなさい。朝まで眠る。いいですね?』
いつかにメリーが僕に向けた言葉を、目の前にいる得体が知れぬ存在に投げ掛ける。
だが、それに対する返答はなく、非情にも命令は下された。
直後、僕は手のひらを額に当て、そのまま座席のシートに身を委ねた。さりげなく女性によってシートが倒されていくのを感じながら……僕は目を閉じてその場で静かに寝息を立てた。
『私達が何者か……ね。残念ながら、何者でもないんですよ。私達はただの――怪物なのですから』
どことなく憂いを帯びた独白の後に、車が再び発進する。
その場を支配するのが車の駆動音のみになった頃……。僕は助手席にて、混乱したまま眠る人を演じていた。
はっきり言って、これは予想外の結果だったのである。
遠坂さんや女性は僕に全て忘れて眠れと命じた。
突飛な考えだが、彼らに人の肉体や精神に手を加える術があると仮定すれば……。多分、普通の人間なら間違いなく、その通りになっていたのだろう。
ところが……。そんな反則な力を振るわれたにもかかわらず、一度目は記憶を保持し、二度目には僕はこうして意識すら保ってしまっている。その謎が……今はただ恐ろしかった。
だって考えてみて欲しい。今僕は、彼らにとって琴線となる情報を手に入れてしまった。もしこれがバレたら……。
背中を、冷たい汗が伝う。頼むから気づかないでくれと祈るより他に道はなく。
僕は恐怖を圧し殺しながら、ただひたすら偽りの寝息を立て続けていた。
大学に着いたのは明け方近く。女性は僕らをまとめて空き教室に放り込み、そのまま立ち去って行ってしまった。
ただ一人。ルイカちゃんだけは教室に連れてこられなかった。恐らくは教授の車と一緒に、直接自宅に連れていったのだろう。
そうであると願うしかなかった。向こうに対して、僕が出来る事はあまりにも少ないのだ。
たっぷり三十分以上。女性が戻ってこないと確信が持てた辺りで、僕はようやく、真っ暗な教室の中で震えながら身を起こす。すると、すぐ傍で僕以外に動く者の気配を感じた。
「――辰、大丈夫?」
聞きなれた声がする。その誰かは闇の向こうから、音を殺すようにして僕に近寄ってきた。
「……メリー?」
「ええ、私よ」
見えない視界の中で、どうにか手を繋ぐ。その途端、緊張がほぐれたのか、二人分の盛大なため息が漏れた。
「……僕がやられた後、どうなったの? てか、ごめん。君はその……覚えてる?」
「ええ。一応は」
メリーが頷く気配を感じたと思えば、肩の方に温もりと重みが加わった。どうやら彼女がもたれ掛かってきたらしい。
思いの外、いつもよりぐいぐい密着されて僕が戸惑っていると、メリーはか細い声で「しばらくこうさせて」と、甘えるようにうつむいた。
柔っこい身体が、小刻みに震えている。彼女も多分、どこかのタイミングで起きたのだろう。もしかしたら、僕と女性が話しているのと同じ辺りに。
やがて、互いの体温と鼓動を一通り共有しあった後、メリーはそっと僕の首筋に指を這わせた。
「痛く……ない?」
「え? うん。全然平気。二回ともね。一体どうやって……」
そこまで考えて、ふと僕はあることに気がついた。メリーも、他の皆も気絶させられていた。ということは……。
「ねぇ、まさか……君も……?」
ふつふつと謎の怒りを覚えながらも、僕はどう彼女に声をかけるべきか決めあぐねていた。女性たる彼女からしたら、あまり思い出したくもないのでは? そう思うと、僕は話題を掘り返しかけたことを後悔した。するとメリーはしばらく沈黙を保った後、クスリと口元を押さえた。
「……噛まれたには噛まれたけど、違うわよ。遠坂くんって……多分私達と話してる時、大分無理してたのね。アレは鈍感……いいえ。結構なヘタレだわ」
酷い言い草だった。
何でも、倒れた僕を見て激昂したメリーは、半ば無意識に彼へドロップキックをお見舞いしたらしい。
それによって遠坂さんは吹き飛ばされたものの、すぐに何事もなく起き上がり。次はメリーに狙いを定めた……ところで、今度はあの女の子が彼の肩をむんずと掴み、ハイライトの消えた瞳でこう囁いたらしい。
「…………あの女はダメ」
……メリー曰く、噛んだ瞬間にどちらも殺すと言いかねない凄みが滲み出ていたらしい。
そんな様子を見たメリーはこれ幸いと便乗し、奥さんの前で女の首に噛みつくのはいかがなものか。と苦言を述べたそうだ。少しの時間稼ぎ。そこからどうにかして、この場を切り抜けようと思考を巡らせようとした瞬間に……。そばにいた大蜘蛛が女に姿を変え、襲いかかってきたのだという。
一見コミカルにも聞こえかねないエピソード。だが、僕はどうしようもない寒気を禁じ得なかった。
それはメリーも同じらしく、気丈に振る舞ってはいるが、彼女の手は汗で湿っていた。
「……本当に、運がよかっただけなのかもしれない」
「そうね。むこうからしたら、私達を生かすも殺すも自由だった。ヘタレとは言ったけど、あのタイプは……完全な他人にはとことん冷たいものよ」
私もそうだし。と、メリーは自嘲するように呟いた。
同行していた山木教授は、彼らにとっての癌である。故に取り除く。そんな連中が僕らを見逃したのは……。
ひとえにかつて自分がいた大学に通う人間達であり。そして知り合いでもあるメリーがいたからなのではないだろうか。
怪物と名乗る彼らが人間臭いことをと思うかもしれないけど、そんな気がしてならなかった。
「雄一達は……」
「多分覚えていないでしょうね。私達は……」
どうする? と、首を傾げるメリーに手を伸ばす。指通りのいい亜麻色の髪を指で弄びながら、僕は首を横に振った。
「深追いは止めておこう。命がいくつあっても足りやしない。こうして情報を持ち帰った。それだけで、結構な大金星だと思うんだ」
精一杯の負け惜しみを言う僕。それを聞いた相棒は、僕の手にピトリと頬を当て、満足気に頷いた。
「そうね。相手は蜘蛛の神様……ですものね」
触らぬ神に祟りなし。多分世界で一番僕らに似合わない喩えと一緒に、今回のサークル活動は例によってひっそりと幕を下ろした。
※
蓋を開けてみればいつものごとく、叶わぬ怪奇に触れて逃げかえってきただけ。救いといえば、そんな情けない戦績を知るのはやはり僕らだけということか。
案の定、雄一も友梨さんも樹海のことは覚えていなかった。ルイカちゃんについても同様だ。樹海に行ったこと。計画を立てたこと。それ自体がなかったことになっている為、彼女は僕ら二人のことも忘れているようだった。
予想を越えた干渉力。それはまさに、自分たちに関わるなという、怪物達からのメッセージのようで……僕らはひそかに震え上がったことは言うまでもない。
そして……。
そこから数日後。メリーの推測は的中した。
自宅の階段下にて……山木教授が倒れているのが、知人に発見されたのである。
死因は階段から足を滑らせた転落死。完全な事故として処理されたし、誰も疑いなどしなかった。
樹海歩きが趣味の老人が、ただ自宅で偶然にも死亡しただけ。彼が死んだからといって樹海に興味や疑いの目を向ける人など一人もいなかったという。……僕ら二人を除いては。
連れ去られた後、山木教授が何をされたのか。蜘蛛の正体は何なのか。それは今も永遠にわからないままだ。
たった一つだけ僕らが知りえているのは、彼らが人間とは相容れないことくらい。自身らの世界を守るため、敵と認識したものは排除する。
教授は不幸にも巣を荒らしてしまったが故に、あんな結末を迎えてしまったのだろう。
最後に。
これは教授の葬儀に参列した雄一から聞いた話だ。
教授の部屋や庭。しまいには棺のそばにまで。その日は妙に蜘蛛が出没し、会場を不気味に彩っていたという。
果たしてこれは彼らの仕業なのか? 今やそれは文字通り、神のみぞ知る物語である。