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渡リ烏のオカルト日誌  作者: 黒木京也
冬の桜と人面犬
110/140

冬の桜と人面犬《後編》

 夜の闇が、街を覆っていた。

 生温い風と一緒に耳に届くのは、時折すれ違う車の駆動音と名前も知らぬ虫の声のみ。

 そんな中を、僕はメリーと手を取り合い、半ば急かされるように前へと進んでいた。


「どこまで行くんだろう?」

「さぁ? 御本人に聞いてみたら?」

「それが出来たら苦労しないよ」


 何となくだけど、好奇心に震えた声色でメリーが提案し、僕がそれを却下する。前を見ればそこには相も変わらず黙々と歩を進める、新堂さん。あるいはポチがいた。

 先導する人面犬は時折立ち止まり、鼻をひくつかせる。まるで辺りを警戒するようにも。何かを追跡しているようにも見えた。

 人面犬がまた進み、僕らがそれに続く。かれこれ一時間は経っただろうか。

 あの後、完全な犬も同然になった新堂さんは、とうとう僕らの声に反応してくれなかった。

 彼の意志に従い、成仏させようと近づいても、飛び退き、逃げるだけ。そのうちに新堂さんは玄関へ走り、そのままドアをカリカリと引っ掻き始める始末だった。

 よくわからないが、何となく外に出たいのでは? そう察した僕らは手早く身支度を済ませて扉を開けてやり……。今に至る。


「……正直、何が起きてるかさっぱりだ」


 またしても新堂さんが静止して、僕らもつられて立ち止まる。その最中、ついついぼやくような呟きがこぼれた。

 すると、そんな僕を見たメリーはクスクスと忍び笑いを漏らして。そのまま、僕の肩にもたれるようにして頭を乗せた。


「やっぱり貴方、気づいてなかったのね。あの人……多分もう新堂さんじゃないわ。今はポチなのよ」


 謎めいた答えが紡がれる。それに乗るかのように甘いハチミツの香りが鼻腔をくすぐるが、生憎と今はどぎまぎするよりも、謎への追求の方に天秤は傾いた。


「えっと、ごめんわからない。説明を」


 降参の意を告げる。するとメリーはちょっとだけ複雑そうに新堂さんに視線を戻し、小さく肩を竦めた。


「よく考えてみなさいよ。元が犬にしろ、人間にしろ。新堂ポチ=剛なんて、バカみたいな名前があると思う?」


 出てきた理屈は、結構身も蓋もないものだった。僕のえ~っ。といった顔を無視して、メリーはそのまま新堂さん……いや、今はポチらしき人面犬を見る。

 メリーの青紫の瞳は、獲物を追い詰めるサーチライトのように鋭く細められていた。


「あそこにいるのは、人の霊であり、犬の霊でもある。都市伝説の人面犬が本当に実在するかは知らないけど、あれはある意味で、そのアーキタイプになりうる例なのかも」

「人であり、犬? ……ちょっと待って、まさか……!」


 僕が稲妻に打たれたような面持ちでいるのを楽しげに見ながら、メリーは指でバッテンマークを作った。


「名乗ったのには、意味がちゃんとあったのよ。そこにいるのは、新堂さんであり、ポチ。二体の霊が本人たちも気づかないくらいに密接に融合している。その結果が、あの人面犬の亡霊なんだわ」


 人面犬が、再び歩みを再開する。今度は迷いない、しっかりとした足取りだ。

 それはやがて僕らにとって馴染みある風景の場所へと突き進んでいく。


「これ、大学に向かってない?」


 道行く方向から、何となくそんな予感がしてきた。

 犬には帰巣本能があるらしいけどまさかあの並木が住居ではあるまい。だとしたら考えられるのは……。


「遭遇したのが、駅近くまで行ける桜並木だったかしら? まさか……地縛霊?」

「かもしれない。日付が変わったから、あの場所に戻らなくちゃならなかったのかも」


 地縛霊。

 それは、霊のありふれた形。いや、在り方の一つだ。

 特定の場所に何らかの執着や念を残している霊で、基本的にその場所から離れる事はなく、仮に離されても様々な要因でもとの場所へ帰ろうとする。

 事故の犠牲者だったり、何らかの建物に執着した末に死んだ者がこれになることが多いとされている。


「……ねぇ、メリー。君は言ったよね? 二体の霊が融合してるって」


 幽霊同士がくっつき、群体になる。は、実はありえない話でもない。大勢の人が犠牲になった場所で、霊の恨みが一つになり、理性なき怪物になっているパターンもある。

 だが、それらに総じて〝個〟はなく、あるのは折り重なった共通の意識。それがその群体の総意であり、感情になる。あそこまで綺麗に分かれる例を僕は今だかつて見たことがなかった。


「案外、二つだから折り合いが出来ていたのかもしれないわ。あるいは、二重人格に近いものか。どのみち、二つの霊が一つになんて、よほど関係が近しいか、それとも……」


 澱んだ暗い感情を覗かせながら、メリーは唇を噛み締める。「ちょっとだけ、嫌な想像をしちゃったわ」と、メリーは小さく呟いた。


「……グロい話?」

「グロい話よ。うら若き乙女が口にするには、憚れるわね」

「……事故に遇って同時に死んだとか? トラックに撥ね飛ばされて、木っ端微塵になった一人と一匹の死体は、折り重なり、捻れ絡まって……」


 一人想像し、顔をしかめる。無念の死。その二つの魂が惹かれ合って、人面犬になった? そう僕が推測すれば、メリーは静かに首を横に振ると、おもむろに僕の方へもう片方の手を伸ばす。柔らかな指が、頬を撫で、そのままフニフニと僕の顔中を弄んだ。


「……メリーさんや、この行動に何の意味が?」

「あ、ごめんなさい。何となく。指が……」


 遊んじゃって、止まらなくて。と、恥ずかしげに笑いながら、メリーはコホン。と、小さく咳払いする。


「違うんじゃない? 仮に桜並木の傍で死んだならば……少なくとも私達の記憶には残ってる筈」

「……え? ああ、そうか。事故があったなら、僕らが気づくか」


 桜並木は僕らの駅から大学へ行くルートの一つ。

 普段は僕もメリーも利用しないから、あの人面犬がどれくらい前からいたのかは分からない。けれども、あんな近場で何らかの死者が出ていたなら、僕らの大学で話題にならない筈がないだろう。


「というか、遊歩道だから車が通りようがないのか」

「そういう事。だから……そうね。川、あったわよね。その底に今も沈んでいるとか。何かに引っ掛かって、上がりたくても上がれない。そのまま泥の中で死体は腐敗して……」


 気がつけば、僕らは無言で見つめ合っていた。手を繋いでいると、おのずと肩は並び、目を合わせれば顔も近いことを実感する。口ほどにものを言うが、今まさに体現されていた。


「やめよう」

「やめましょう」


 同時にそう口にして、僕らは話を打ち切った。なまじオカルトを追っていると、嫌な方にばかり想像がいくものだ。

 新堂さんのお茶目な姿を思い出す。酒をまた飲もうと約束した。友だと言ってくれた。

 だからこの行動にも、何らかの意味があるのかもしれない。

 ただの地縛霊ならば、新堂さんの意識が戻った時に説明すればいい。その上で、彼に選択を委ねよう。


 そのまま会話が途切れて。僕らは黙って人面犬の後を追いながら夜道を行く。

 やがて、川の流れる音と、葉っぱが擦れるざわめきを耳にした時、僕らは想像が間違っていなかったとを思い知った。


「……歩いて来ちゃったね」

「三駅半くらいかしら。家を出て丁度一時間と少し。……終電なくなりそうねこれ」

「まぁ、その時はその時だ」


 坂道を登り、人面犬は桜並木へと入っていく。僕らは深呼吸の後に、意を決して彼に続く。心臓は程よく高鳴っていた。


 結論から言うと、この夜をきっかけに、僕らは新堂さんの死の真相を知ることとなる。

 それは、言葉は悪いがありふれた悲劇だった。

 日常にそっと寄り添うように、誰にでも死は訪れる。彼らが縛られていたのは、その後日談――。有り体に言えば、幽霊皆が持ち合わせるもの。すなわち……強い未練の存在だった。


 ※


 たどり着いたのは、僕と新堂さんが初めて逢った場所だった。

 あの時と同じように人面犬は桜を見上げ、その根元に鼻先を押しあてる。「キューン」という身を切るような哀しそうな声がその場に上がり、僕らは思わずその姿を食い入るように見つめていた。


「……ここ?」

「ええ。きっとここに……何かがあるのね」


 静かにそう語り、メリーは辺りを見渡した。

 彼女は僕と同じく幽霊が視える。けど、僕のように触れたり、干渉する事は出来ない。

 それだけ聞くと僕の方が霊感が強いように思われかねないけど、厳密に言えばそれは違う。

 彼女は彼女で、ある種特異な力を持っている。メリーは幽霊や、その他この世に在らざるものに関する情報や概念を、その身を持って感じられるのだ。

 僕はラジオやレーダーになぞらえて受信。彼女はもう少しスタイリッシュに幻視(ヴィジョン)と呼ぶそれは、彼女の視界に無差別かつ、唐突に刷り込まれる。本人いわく白昼夢に近いものらしい。

 長々と説明したが、要するに僕の相棒は、非常に探知に長けている。それは、新堂さんの在り方に気づいた辺りで把握してもらえるだろう。

 彼女が受信し、僕が干渉する。あるいは、僕らがその身でオカルトを引き寄せる。という方が近いかもしれない。

 互いの霊能力に無駄な程シナジーがあるお陰で、僕らはこれまで何度も非日常に触れてきた。

 そして……今まさに、その非日常の源泉たる場所に、僕らは降り立っている。


「メリー。どう?」

「……今のところは」


 何も。そう彼女が言おうとした時だ。そこで僕らははじめて人面犬がすぐ傍の足元にまで歩み寄っていたのに気がついた。


「…………クルル」


 喉を鳴らしながら、人面犬は僕らを見つめ、視線が自分に向いた瞬間に、まるで導くかのように身体を揺すり、一跳ねで一本の桜の木の下に座り込んだ。


「……バウッ」


 小さめに、声を潜めるように吠えた人面犬は、じっと此方を真剣な表情で見つめてきた。

 不気味に傷ついた血染めの顔。さっきこぼれた涙は既に乾いていたが、僕はそこに確かな意志と、執念を見た。


「……何か、伝えたいんだね」


 そう察するも、それが何なのか分からない。僕が困り果てていると、メリーは「あら、今日は妙に冴えないわね」と、呟きながら、桜の根元まで歩み寄る。並木の道は鋪装されていても、流石にそこだけは土が通っていた。


「犬で、桜よ? ならもうやることなんて決まってるじゃない」


 何故か招き猫のポーズをとりながら、ここ掘れワンワン。と、メリーは歌うように口にする。ヤバイくらい可愛かった。


「こじつけが過ぎやしないかい?」


 思わず冷静になれ。と心の中で唱えつつ僕がそう言えば、メリーは少しだけ心外そうに頬を膨らます。凄くあざといのはわかっていても、抱き締めたくなったのは仕方がないと思った。……いけない。冷静(クール)になろう。


「犬が誰かの注意を引くときなんて、構って欲しいか、近くに何かが埋まっている時だって、相場は決まってるじゃない」

「……どうしよう、少し納得しちゃってる僕がいる」


 ならば善は急げ。相棒の直感を信じて、そっと腕捲りする。

 だがそこで、当然ながら道具がない事に気がついた。手で掘る訳にはいかないし、どうしたものかと僕が少し途方にくれていると、メリーはちょいちょいと僕の腕をつまみ、続けてある一点を指差した。遊歩道のベンチ裏そこには、清掃用の塵取りがある。形だけならば、スコップにならなくもないだろう。しかも運がいい事に金属製だ。


「……あれで?」

「コンビニにスコップは流石に無いでしょう?」

「それは……まぁ、そうだ」


 そもそも、こんな所で穴を掘っていたら、一発で通報されかねないのでは? という言葉を、今は飲み込んだ。

 つべこべ言ってるうちに何もかもがわからないままになるのは、流石に勘弁なのだ。


「周りの見張りよろしく」

「了解よ。疲れたら言ってね。交代しましょ」


 短い言葉で役割分担し。僕はインスタントスコップを手に取り、ザックザックと根本を無心で掘り始めた。

 土がほじくれた時の、少し喉奥がしんしんする空気を鼻から吸いながら、僕はメリーと、今も傍らで食い入るように地面を見つめ続ける人面犬の見守る中、掘って掘って掘りまくる。


「ライト、点ける? スマホの」

「それこそ通報されかねないよ。ところでメリー、今……ふと思ったんだけどさ」

「なにかしら?」


 虫の声に混じり、金属が土を撫でる音が聞こえる中、僕は何となくとあるフレーズを思い出した。


「……〝おまえ、この爛漫(らんまん)と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう〟」

「……梶井基次郎の『櫻の樹の下には』ね。それがどうし……」


 メリーの言葉が、最後まで紡がれる事はなかった。

 不意に塵取りの先にガチン。と、硬質な何かがぶつかったような手応えを感じる。僕はそこで一瞬にして臍を指で突かれたかのような、むず痒くも気持ち悪い気分に陥った。


 嫌な予感は、得てしてよく当たるものだ。

 花咲か爺さんは、犬の死体……正確には遺灰で桜を咲かせた。

 美しいものを死と結びつけてしまうのは、もしかしたら人間に古来からある、何らかの本能めいたものなのかもしれない。

 かの作家も、そんな理由であのような物語を紡いだのだろうか。僕には、分からない。

 でも、今言えることはただ一つ。


「これって……」


 メリーが消え入りそうな声を絞り出す。

 怯えはある。だが、それでも僕らはそれから目を離せなかった。


 霊がいるとこに、死が。

 僕らが行く先にはオカルトが。

 繋がる縁は、ここでも複雑に。それこそ植物の維管束がごとく、絡まり合い。惹かれ合う。


「包丁……?」


 季節外れな桜の下に死体はなかった。

 かわりにそこにあったのは……赤黒い汚れにまみれた、一本の

立派な拵えな出刃包丁だった。その瞬間、近くにいた人面犬の気配が、再び急速に変質した。


『……ああ、そうか。そうだったのか』


 全てを悟ったように、まるで何日も旅した後のように、人面犬……いや、新堂さんはポツリと呟いた。


『お前はあの後、それを追って死んだのか。だから……ほっといてくれなんて。ああ……。バカ野郎め……』


 めぐまるしく、まるで映像が早送りされているかのように、新堂さんの表情が変わっていき。そして……。


『ありがとう……。ごめんな。ポチ』


 春が来て、桜が花開く前に雪が溶けるかの如く。人面犬の新堂さんは消滅した。まるでそこにははじめから何もなかったかのように。

 後に残るのは、土埃をぼんやりと照らし出す、優しい月明かりと。その場に縫い付けられたかのように動けなくなった、僕とメリーの二人だけだった。


「辰、……見て」


 どれくらい時間が経っただろうか、ぼんやりと新堂さんが消えた何もない場所を眺めていた僕は、メリーに促されるまま、暴いた死体がわりの包丁へ目を向ける。それには。


「汚れだけじゃない。先っちょに何かこびりついてるわ。これって……」


 多分、人の血と肉片よね?


 ※


 以上が二月の始め。真冬に起きた、人面犬との刹那の交流だった。

 包丁見つけた途端に謎の別れをして終わりなのか。と言われたら耳が痛いが、往々にして、世の中の別れには、全ての理由を知らぬまま過ぎさっていくものだと言い訳しておこう。

 学校を出たら、何となく交流がなくなった。アルバイトなり、部活を止めたから、連絡する必要がなくなった。男女間の関係の自然消滅……等が最たる例だ。

 そうして、僕らと新堂さんの別れもそれに近いものだった。


 結局、僕らが見つけたのは事件の匂いがする包丁だけ。

 新堂さんやポチが何処で死んだのか、見当もつかなかったし、その包丁がどんな使われかたをしたのか、想像を巡らせるくらいしか出来なかった。

 ただ一応、この包丁に関しては警察には通報した。あのまま埋め直したとして、もしあれが何らかの事件において証拠になるならば、掘り起こした僕らにとってもややこしくなりそうだからだ。

 ちなみに桜の下を掘っていた言い訳はメリーと一緒に考えた。多分、ただの夢見がちなバカップルだと思ってくれたことだろう。

 その後、事情を説明し終えた僕らは、流石に疲弊したので、タクシーを利用して帰宅した。

 部屋に入ると中途半端なまま終わった酒盛り会場と、空っぽになった犬用の餌皿が、夢ではなかった事を教えてくれる。

 確かに彼は、ここにいたのだ。不思議な事に滴り落ちた血痕は綺麗に消えてはいたけども、僕らは覚えている。

 謎だけ残して、一人と一匹で何かに納得して逝った。死の結末は分からないが、それを僕らが掘り起こす必要はないだろう。気になりはするが、手段はないのだ。ただ……。


「……未練がわからないのよね」


 そんな時、不意にメリーがポツリと呟く。

 ソファーを背に二人並んで飲み直していた時のことだった。

 話の要領を得ず、僕が首をかしげていると、彼女は「状況と最後の言葉、思い出してみてよ」と囁いた。


「新堂さんもポチも、誰かに殺された。それだけは予想がつくわ。けど、なんなのかしら。釈然としない」

「……成仏した、タイミングが?」

「ええ、そうなのよ」


 どうして二人は人面犬になったのか。お互い未練が一緒だったから? なら、どうして記憶が曖昧だったのか。新堂さんが出る時と、ポチが出る時があったのは何故か。

 幽霊に関して明確にこうだと断言できるものは何もないので、全ては推測になるのだろうけど、恐らくは……。


「未練がきっと違ってたんだよ。ただ、それは根底から言えば、お互いを想うものだった」

「心配しあってたってこと?」

「そう。ポチは新堂さんの為に。新堂さんはポチの為に。それが、あの包丁を見つけたことで、解決したんだよ。……もしかしたら死んだ場所は別々だったのかも」


 新堂さんはポチの行方を案じ、ポチは犯人をとらえる為に包丁を見つけて欲しかった。お互いを気にしながらも、追うものが違った。かくして念はぶつかり合い、人面犬の形を成し、皮肉にもそれが一人と一匹を混乱させた。

 あるいは……僕が新堂さんを部屋に連れてきたから。も、引き金になったのかもしれない。そう僕が締め括れば、その場には何とも言えない沈黙が訪れた。

 救いがあったかのような、なかったかのような。そんな結末。僕らが出来ることは、掘り起こした彼らを覚えていることと、犯人が一刻も早く逮捕されるのを祈るだけだった。


「……お酒、もう殆ど残ってないわね」

「買い足すかい? どのみち明日は授業ないし」


 話題を変えようとしたメリーに僕がそう提案すれば、「あら、私を寝かせない気?」なんて、ジョークが飛んでくる。

 それもいいかもしれない。こうして新堂さんが大好きだったお酒を飲み干すことが、僕らに残された唯一の弔いだろうから。


「……うん、じゃあ。飲み明かそうか。丁度葬儀が終わった晩みたいにさ」

「ヱビスビールでも買いましょう。一度飲んでみたかったのよ」


 僕がそう言えば、メリーも優しく微笑んで、小さく頷いた。

 新堂さんが泣いて悔しがりなりそうな一言と共に、僕らは再び、夜道へ駆り出した。



 ※



 後日談を一つか二つ。

 人面犬にかかわる物語は、もう語り尽くしたが、他にも分かったことや震え上がった話が少しだけあるのだ。


 その日の夜。メリーが幻視(ヴィジョン)を視た。同じベッドに入っているとたまに起こる、幻視を一緒に視る現象。まずはその物語を語るとしよう。



 ※



 畳張りなワンルームの台所に立ち、包丁を動かす男がいた。下手っぴな鼻歌を歌いながら男が何かを作っている。彼はそれを眺めるのが好きだった。


「おぅい、出来たぞ~! ツヨシ特製ジャンク飯だ!」


 ドックフードに卵と輪切りにしたソーセージをぶちこんだだけ。だが、彼にとっては紛れもなくごちそうだった。

 ただのドックフードに、男は……彼のご主人はいつも一手間かけてくれる。

 魚の切り身。

 ちくわ。

 ベーコン。

 時々野菜。

 それを生み出すのが、ご主人の愛用する。いつも大事に大事に研いだ包丁だった。


 中年の人と獣。うだつが上がらぬ一人と一匹暮らし。

 それでも彼は幸せだった。ご主人もきっと。


 それが崩れたのは、突然だった。

 部屋に、彼もよく知る男がやってきた時のことだ。

「もう少し待ってくれ」といつも喋る、彼からしたら胡散臭い男。でもそんな奴にすらご主人はせっかくだからと包丁を奮い、料理を出してやっていた。

 今日も同じ。だが、その日はいつもより、二人の口喧嘩が長かったように思える。

 多少イライラした匂いをさせながら、それでも料理を作るご主人。彼は知っていた。どんなに自分を叱った後でも、ご主人は料理を出す時は笑顔になる。「飯食って仲直り」それが口癖だった。

 だから……。背後から忍び寄った男が不意討ちで主人を何度も殴り、叩き伏せる瞬間に。まな板の上にあった包丁を掴み、倒れたご主人の腹部へ深々と突き刺さすという凶行にも……彼は反応出来なかったのである。

 痙攣するご主人。彼は怒りに身を任せ、男に飛びかかるも、体格差は歴然だった。

 あっさり蹴り飛ばされ、チカチカする視界が最後に捕らえたのは……。ご主人の大切な包丁を手に逃げ出す、男の後ろ姿だった。


「ポ、チ……!」


 ご主人が、名前を呼ぶ。彼は必死に応えようとするも、最愛の人は既に弱り果てていた。

 必死に傷口を舐める。口が血まみれになるのも構わずに。だが、そこが塞がることはなく……。


「ああ……、飯、つくら……にゃ……」


 身体はまだ、暖かかった。だが、ご主人はもう動くことも、台所に立つのも不可能で。その瞬間。彼の血液は沸騰した。

 風に乗り、憎き男の体臭が鼻を焼く。彼は力が許す限り咆哮し、仇の後を追いかけた。


『返せ……』


 肉球が破れるほど、コンクリートの地面を蹴る。奴の喉笛を噛み千切れ。忘れかけた本能がそう囁いていた。


『返せ……!』


 ご主人の笑顔が、脳裏を過る。散歩にもいけない。ボール遊びも。頭を撫でてくれることも。奪った相手を、許すわけにはいかなかった。何より……。


『返してくれ……!』


 大切な思い出が、奪われたままだ。

 自分が拾われた日も。身体が不調な時も。何の気ない日常も。

 ご主人はあれ一つで、まるで魔法をかけるかのように彼を幸せにしてくれたのに。それを……。


 桜並木にたどり着いた。消えない慟哭を漏らしながら、小さな復讐者は獲物を捉える。

 だが……。牙は届いた。しかし、彼のそれは、人を倒すにはあまりに小さ過ぎた。

 一瞬で地面に叩きつけられた彼は、暴力の嵐に曝される。鼻と目が潰され、肋骨を砕かれ。何度も殴りつけられた。

 そして……。

 最期に彼が目にした光景は……よりにもよって、かけがえのない品で自分が刺し殺される瞬間だったのである。


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